第8話
少女が、ユリウスの額に手を載せた。その柔らかいてのひらを、汗を吸い取るようにぴたりと押し当てる。そうしてもらうと、妙に身体が軽くなっていくような気がした。まるで、今まで雁字搦めにされていたかのように窮屈だった体から、ふっと力が抜けていく。
ああ、そうだ、ユリウスが風邪を引いたとき、悪夢にうなされたとき、いつでも姉上はこうして額に柔らかい手をのせ、その苦痛を和らげてくれていたのだ。手のひらが離れていくのを感じながら、そんなことを思い出した。
ぼんやりと、ユリウスは意識を取り戻した。
酷くうなされ、懐かしい夢を見ていた記憶があった。……死んだ姉の夢だったように思う。しかし、なぜ姉だと思ったのか、その姉が夢の中で何をしたのか、何を話していたのか、思い出せることは何もなかった。
「……俺は」
何をしていた。そう口に出そうとして、喉が酷く傷んだ。咳き込んでしまいながら体を動かそうとしたとき、ガタガタッと視界の外で椅子の揺れる音がした。
「騎士団長!」
「……ローマンか」
姿を見つけるより先に声で気付き、顔を向けると、ローマンはへたりこんだように床に座り、手をついていた。
まだはっきりとしない頭で記憶を探る。最後に見たローマンは、馬の下敷きになっていた。動けなくなったローマンが狙われてはならないと、慌てて馬から飛び降りたが、その後のことを思い出せない。
ただ、見る限り、腕以外に大きな怪我は見当たらない。その顔には傷痕が残っているものの、腫れはだいぶ引いていた。
もしかすると内臓を押し潰されたかもしれないと心配していたが、無事だったようだ。安堵すると、途端に自分の顔に巻かれた包帯が鬱陶しくなり、手をかけ――部屋の隅で眠る少女に気が付いた。
同時に、自分が毒矢をこの目と腕に受け、さらに体に穴があくほどの重傷を負ったことを思い出し、戦慄した。
「クラリッサ!」
駆け寄ろうとして、膝から床に落ちてしまった。寝台の横に置いてあった机が倒れ、水差しが落ち、けたたましい音を立てて割れ、あたりが水浸しになり、破片がその場に砕け散る。
しかし、ユリウスにとってそんなことはどうでもよかった。まさか――その予感に突き動かされるがまま、クラリッサの土気色の顔と、ローマンの居た堪れなさそうな顔を見比べ……立ち上がり、ローマンの胸座を掴み、揺さぶる。
何も口にせずとも、それだけで何を聞かれているのかは理解したのだろう。上官相手にも関わらず、彼は静かに項垂れた。
「……申し訳、ありません。騎士団長の……必要以上に彼女に接触するなという言いつけを……」
「……お前が、連れてきたのか」
「……彼女が、聖女だという話を聞き」
申し訳ありません、という呟きを聞くより先に、ローマンの体を投げ捨てた。あまり力が入らず、ローマンは蹈鞴を踏んで背中を扉にぶつけただけだった。
よろりと、自分らしくない力の入らない足が、クラリッサに向く。その前に崩れるように膝をついた。
「……クラリッサ」
姉と同じだ。ユリウスの脳裏に、十余年前の記憶がよみがえる。酷い高熱にうなされ、目が覚めると、姉は――。
恐ろしいほどに冷たくなっていた体、それに触れた瞬間の感覚が今このときにも掌に蘇るようで、どんな戦場よりも背を怯えが襲った。
「……リ」
そのとき、クラリッサの目蓋が震えた。
ゆっくりと目を開け、しばらくユリウスを見つめる。
「……ス様……目が、覚めたのですか?」
寝惚けた声が、しかし確かな安堵と共に、ユリウスを確認した。
呆然とするユリウスの頬に、クラリッサは手を伸ばした。拍子に、顔の包帯がほどけ落ちた。
右目の状態を確認したクラリッサは、次いで左腕を手にとる。ユリウスの手が震え、僅かに不自然な動きをした。
それを合わせて握りしめ、クラリッサは、仮眠をとっていた長椅子から落ちるようにして床に座り込み、額にその手を押し当てる。
「……ごめんなさい、ユリウス様」
はらはらと涙がこぼれ、ユリウスの左腕を濡らす。肌感覚におかしなところはなく、クラリッサに手を握られている触覚もあった。何もおかしいところなどなかった。
ただ、ユリウスがクラリッサの手を握り返そうとした瞬間、ストンと、抜け落ちたように、ほんの一瞬、感覚が消えた。
「ごめんなさい。あなたの右目と、左腕を、もとに戻すことができなくて、ごめんなさい」
視界は狭く、不自然なほどに右側が見えない。左腕の感覚はいまはある、が……先ほどは間違いなく、麻痺していた。射られた毒矢のうち刺さったのは二本、そのうち一本は左腕に刺さった。おそらくその毒が抜けきらなかったのだろう。
きっと、もう、左手ではまともに剣は持てまい。
「ごめんなさい。私は、力を使うことで、命を削りきることが怖くて……あなたと一緒にいることができないのが、寂しくて。もっとずっと、あなたと一緒にいたくて、力を使うのを惜しんだのです」
ごめんなさい、ごめんなさい、とクラリッサは何度も繰り返した。
扉の開く音が聞こえ、ローマンが出ていく。向こう側から「今日のぶんの薬は?」「リサさんならまだお休み中だ、もう三日三晩まともに寝ていらっしゃらなかったんだから」「騎士団長は峠を越えたんだろう、ご様子は……」聞こえていた声は、少しずつ遠ざかっていった。
「ごめんなさい、ユリウス様」
泣き続けるクラリッサを、気が付けば抱きしめていた。それでもクラリッサは泣いていた。
折れそうなほどに華奢で痩せた体だった。この小さな体で三日三晩、彼女は解毒方法を必死に探し、薬を調合し、看病してくれたのだ──姉の命を奪った“聖女の力”という忌まわしい力を使わずに。ユリウスは隻眼を閉じた。
「……ありがとう、クラリッサ」
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