第7話
その二日後のことだった。
いつまでもユリウスがやってこない。その日のぶんの薬を用意し終え、いつも以上に耳を澄ませ、堪えきれずに何度も窓の外を見て、それでもユリウスはやってこなかった。そのうちカスパーがやってきて薬を受け取り、あれやこれやと世間話をして夕方になってしまって、それでも来なかった。
「そういえば、王国側の間者が見つかったと大騒ぎだったなあ」
「……間者ですか?」
そうか、ユリウスはその対応に追われてしまっているのか。クラリッサは納得しかけたが「昨日の話だがね、なんでもその間者が王国兵を招き入れたって」既に戦火を交えたかのような報告に、ゾッと背筋を震わせた。
「王国とはずいぶん長い間緊張関係にあるからなあ、いつ起きても不思議じゃなかったが……ああリサ、大丈夫、そう心配することはないよ」
クラリッサが顔を青くしていたからか、カスパーはすぐにいつもの調子に戻った。
「ほら、あの騎士団長の」
「ユリウス様?」
「そう、騎士団長様が捕えたそうだ。だから心配することはなかろうよ」
そう……か……。頷こうとしたが、安堵は胸に閊えてしまった。なにか得体の知れない不安が胸を襲っている。
まさか。いや、大丈夫だ。ユリウスはもうすぐやってくるはず。いま感じている恐怖は、ただの勘違いか、妄想か……。
カッカッカッと蹄の音が聞こえ始めたのはそのときだった。勢いよく振り向いた扉の向こう側からは、急くような音が聞こえてくる。ユリウスの馬ではない、気がするが……いやいつもより足が速いから別の音に聞こえるのか……。
その足音が止まるか止まらないかのうちに、小屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「リサ様!」
ユリウスではない。そう気付いたクラリッサの前に現れたのは、ローマンだった。
そのローマン、その片腕を首から三角巾で吊り、顔面にも痛々しいほどの怪我をしていた。それでもなお分かるほど、その顔には焦燥が露わになっている。
「どう……ユリウス様、は……」
「騎士団長が負傷なさったのです!」
状況を訊ねる前に、彼はすがりつくように、ぼろきれのようなクラリッサの服の裾を掴んだ。その目には恐怖と――期待が映っており、クラリッサは瞬時に理解した。
「リサ様は、本当は聖女なのでしょう?」
きっと彼は、あの日の皇子とのやりとりを聞いてしまったのだ。そしてきっとユリウスは――。
「どうか、騎士団長を救ってください」
騎士団の宿舎となっている屋敷の手前まで来ると、
扉の前で転がり落ちるように馬から降り、走るローマンに続いて屋敷へ、そしてその一室へと飛び込んだクラリッサは、そこに横たわるユリウスを見て――馬上で聞いていたとおりとはいえ――顔から血の気が引くのを感じた。
「ユリウス様……」
高熱にうなされているせいか、おそらく意識はない。体の両脇に置かれた腕はまるで棒のように力がない。体の横たえられた寝台は、水でも零したようにぐっしょりと濡れている。額には止めどなく汗が浮かび、玉を結んでは零れ落ち、一部は赤黒い包帯へと――右目を覆い隠すように巻かれた包帯へと染み込んでいく。
精悍な顔立ちは痛々しい手当てに隠れ、しかしそれでも分かるほどその顔は苦痛に歪んでいた。クラリッサの知るユリウスの面影など、そこに見えないほどに。
「半日以上、意識がないそうです」
不安を吐き出すように、ローマンは繰り返した。
「王国兵の間者は既に自害し、医者も毒の種類を解読することはできませんでした。医者は、毒が全身に回るのは時間の問題だと……致命傷で、最早助からないというのです。しかし、あなたは、本当は聖女なのでしょう? どんな難病も、まるでなかったように治療することができる聖女の力を持っている」
クラリッサはユリウスの左手をとり、その熱と裏腹にぴくりとも反応しない、まるで置物のような感覚にぞっと背筋を震わせた。
その後ろで、ローマンが膝をつき、額を地面に擦りつけた。
「騎士団長は私を庇ったせいでその腕に毒矢を受け、立て続けに目まで射られ、それでもなお私を助けようと奮闘してくださったのです。リサさんの聖女の力に代償があることは分かりました……それが、非常に危険な代物であることは、分かっています。私とて、その力を騎士団のために振るってほしいと、私の怪我を治してほしいとまでは、決して申しません。しかし、どうか、どうか騎士団長だけは、お助けください……!」
どうすればいい。クラリッサの頭は真っ白だった。
医者は匙を投げ、毒の種類はまったく特定されていない。クラリッサが薬剤調合の最先端を離れて既に2年、この土地でも薬草を見てきたとはいえ、所詮は限られた地域でのこと。王国兵が作った毒の調合方法など、正確に分かるとは到底思えない。第一、それを分析できたとして、解毒薬を調合するだけの材料がすぐに手に入るのか? 手に入ったとして、調合するまでユリウスの体はもつのか? 命が助かったとして、身体に何の障害も残らないのか? 第一、眼球はすでに失われ――……。
熱い左手を握ったまま、クラリッサは目が乾ききるほどに呆然と立ち尽くしていた。その後ろでは、じっと、ローマンが頭を下げたままだった。
「……分かりました」
そう返事をしたとき、クラリッサの唇は、老婆のように乾ききっていた。
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