妄想推理 〜その探偵、変態にして聡明〜
途上の土
第1話 通称『接遇』
ゆりちゃんはわたしを裏切った。
「続いて
わたしサイドの応援演説を行う予定のゆりちゃんの姿はない。時間までに駆け付けると祈る思いで待っていたが、とうとうゆりちゃんはやって来なかった。
演説者が一向に現れないことで、生徒たちがトラブルを感じ取って、手元のスマホから壇上に目を上げた。
——どうして、ゆりちゃん。
怒りよりも焦りと疑問が混ざった感情が強かった。わたしはどうすることもできずに、ただ壇上のパイプ椅子に腰かけ、錆びてざらついた背もたれのパイプを無意味に指でなぞる。
体育館に並ぶたくさんの目がわたしを見ていた。同情と好奇心、嘲りと無関心。応援演説者の失踪により、責任を負わされるのは応援される立候補者——つまるところ、わたしだ。
皆がわたしに「どうするの」と視線を突き刺す。ここで『応援演説なし』という悪印象を全校生徒に植え付ければ、わたしに当選の目がなくなることは自明の理であった。生徒たちからしてみれば生徒会長選など、然程興味はないのだろう。だからこそ、些細な優劣をもって、あまり熟考することなく、いい加減に票を入れる。要するに壇上で失敗した者は、問答無用で選択肢から外されてしまうのだ。
隣に座る唯一の対立立候補者、佐藤くんも、わたしをじっと見ていた。ただ、佐藤くんの視線は少し意味合いが違う。表立ってほくそ笑みはしないが、わたしを見つめる真顔の奥に、「まいったか」と敗者を貶める色が透けて見えた。
——佐藤くんの仕業だ。
どう落としたのかは分からないが、応援演説者に演説をバックレさせるなんて、よくもまあ卑怯な真似を思いつく。
思いついても普通、実行に移すだろうか。遅ればせながら、わたしの胸にようやく怒りが点火した。佐藤くん、いや、佐藤のクズ野郎に対する怒りだ。
こんな誠実さの欠片もない人間に生徒会長など任せてなるものか。皮肉なことに、絶体絶命の窮地に陥って、わたしの「勝ちたい」という貪欲さはようやく湧出した。
だからだろうか。
わたしの前を横切り、無許可にマイクの前に立った1年生を、わたしはただ見送った。
虚を突かれた、というのもある。
虚を突かれたのは佐藤も同じようだった。佐藤が腰を浮かしかけたタイミングで、1年が現れたため、結局彼は腰を再びパイプ椅子に下ろした。佐藤はどよめく群衆を気の利いた言葉でなだめ、リーダーシップを見せつけようとしていたのだと思うが、予期せぬ乱入者によって機を逸した。
だけど、乱入した一年男子は単なる悪ふざけかもしれない。目立ちたがり屋が、この状況を面白がって壇上に上り、おふざけをする。そして、「ねぇ知ってる? ×組の××くん、生徒会選挙でさ——」という具合に話が広がり、まんまと売名を達成するのだ。
その可能性は大いにあった。佐藤が彼を止めなかったのも、そのためだろう。更にわたしをコケにできると踏んだのだ。そして、一通り1年坊主を暴れさせた後に自分がそれを諫めるという算段だったのだと思う。
それなのに、そこまで分かっていながら、わたしは彼を見送った。少し幼さを残す綺麗な顔をした1年男子の横顔を、藁にも縋る想いで、じっと見つめた。
すっ、と彼が息を吸い込む音をマイクが拾った。
「小田切 円が何年何組で、何部で、どんな性格で、家族構成がどうで、友達は誰で、成績がどうなのか。そんなことおれは一切知らない。興味もない」
彼は自己紹介もなく、開口一番にそんなことを宣った。それはそうだろう、とわたしも思った。だって、わたしもあなたを知らないもの。ついさっきまで、いや、現在進行形でわたしたちは赤の他人なのだ。
体育館にクスクスと小さな笑いが生じた。
しかし、彼は笑われることなど意に介さず、淡々と続けた。
「あんたらも、そんなことは知らなくていい。……だが、それとは別にあんたらが知るべきことが2つある」
堂々とした物言いには目を見張るものがあった。1年坊主が生意気にも上級生も含む全校生徒に「あんたら」呼ばわりをしたにもかかわらず、会場に不愉快を示す顔はあまりない。ただただ好奇心を彼に向けていた。この時点で既に全校生徒の誰もが彼の世界に呑まれていた。
「小田切 円は毎日、誰よりも早く登校し、花壇に水をやり、その足で生徒会室に向かう。それがまず1つ」
なんだそんなことか、と隣の佐藤が鼻で嗤う息遣いが聞こえた。
どこかで見られていたのだろうか。彼の言ったとおり、花壇の水やりはわたしの日課になっていたし、現生徒会書記であるわたしはそのまま生徒会室へ行って毎日の事務を片付ける。ちなみに佐藤は現副会長だ。
「そして、2つ目。応援演説者の磯野ゆりは立候補者である小田切に頼み込んで、応援演説者に抜擢された。熱心に自分を売り込む磯野をお人好しの
なんでそれを……ッ?!
確かにわたしはゆりちゃんに「あなたの応援演説をしたい」と頼まれて、快諾したのだが、そのとき周りには誰もいなかったはずだ。ましてや、1年の彼が2年の教室に来ようはずもない。盗聴器? と一瞬頭によぎったが、現実離れしたあり得ない発想だとすぐに自ら否定した。
なら、どうやって。
マイクの前に立つ得体の知れない1年に、肌が粟立った。
「小田切 円は、人知れず誰かのために動ける人間であるということ。そして、自分を売り込んできた磯野が不自然に演説をバックレたこと。それだけ提示されれば、誰だって同じ答えに辿り着くはずだ。別におれは小田切 円にどうしても生徒会長をやってほしい訳ではないが、消去法で小田切を推すよ」
それだけ言うと、一年男子は締めの挨拶もなく、すたすたと再びわたしの前を通り過ぎ——しかもわたしに一瞥もくれることなく——壇上から降りていった。
再び体育館はざわついた。今度の好奇心はわたしに向けられたものではなかった。
「待て! これではまるで俺が不正を働いたような言い方ではないか!」
佐藤が立ち上がって、許可なくマイクに唾を飛ばす。だが、彼の言葉は誰が受け取るでもなく宙ぶらりんになったまま、演説会終了のアナウンスが流れた。
佐藤はそれでも必死に弁明を続けていたが、もはや誰の心にも届かなかった。1年男子が演説を終えた時点で、佐藤に対する集団的印象は既に固まっていた。『犯人』だと確定された後に、彼が何を言おうとそれは嘲笑の対象にしかならない。
1年男子は、証拠の1つもなく、佐藤を犯人に仕立て上げたのだ。いや、事実、佐藤が不正をしたことは間違いないと思う。だから、結果としては『不正を正しく摘発した』ということになる。
だが、証拠もなくそれを行ったという点で、彼は非常に危うい橋を渡ったのだ。それも見ず知らずのわたしのために。
わたしはハッと我にかえり、慌てて先ほどの1年男子を目で追おうとしたが、もはや彼の姿はなかった。一年の席に視線を流す。がやがやと隣の席同士、たった今しがたの出来事を興奮冷めやらぬといった様子で話す下級生たちが映った。その中に彼の姿はない。
結局わたしは、彼に礼の一つも、あるいは忠告の一つもすることができないまま、選挙期間の終わりを迎えた。
後日、当選者が中庭に貼り出された。
生徒会長が決まると同時に他の役職も当選者が発表され、その日、生徒会執行部のメンバーが確定した。
だから、生徒会に彼を加えることは時期的には不可能だったのだが、それでもわたしは諦めきれなかった。
——彼が欲しい。
彼がいなければ、わたしは今生徒会長という座についていない。彼の応援演説が、わたしを生徒会長として引っ張り上げたのだ。
彼の力なしではこの生徒会執行部は——いや、違う。生徒会執行部ではない。わたしだ。彼なしではわたしが、立ち行かない。まるで重要な部品を欠損したまま走りだそうとする機関車のような、危険な予兆がわたしを焦らせた。
わたしは所属する演劇部の後輩やあらゆる部活の部長に彼のことを訊いてまわり、あの一年男子を見つけ出した。
でも、それからが大変だった。各方面に、説得に説得を重ね、頭を下げに下げ、やっとの思いで彼を生徒会に招く準備を整えたのだ。
そしてついに、彼は生徒会長の指名で選任される新たな役職につくことになる。
——生徒会執行部付 生徒会臨時接遇係
これが、あの悪名高い『接遇』の起源である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます