20
どうしよう、どうしよう、と俺が混乱している間、男は平静な顔で煙草を吸っていた。そして、俺が次に口を開く前に、言葉を見つける前に、玄関のドアが開いた。それは、静かに、なにかを恐れるみたいに。
兄貴だ、と思った。帰ってきたのだと。しかし、玄関からリビングへ入ってきたのは、兄貴よりずっと小柄な人影だった。
「……亜美花さん。」
俺は、彼女の名前を縋るみたいに呼んだ。自分を情けないと思いながらも、誰かにこの混乱の輪をほどいてほしくて、亜美花さんなら、と思ったのだ。いつも毅然と歯切れのいい彼女なら、俺がぐちゃぐちゃと悩んでいる頭の中も、すっきりと片付けてくれるのではないかと。
けれども、彼女の様子はいつもと違った。いつもぴんと伸びている背筋が力なく曲がり、くっきりと前を向いているはずの顔が下を向いている。短い黒髪が頬にかかって、部屋が薄暗いこともあって、彼女の表情はうかがえなかった。
「……亜美花さん?」
不安になって、俺はまた彼女を呼んだ。信じ切って頼ってきたものが急に力をなくしてしまったみたいで、怖くなったのだ。
「……康一、随分きれいになってた。」
ぽつり、と、雨だれの最初に一滴みたいに亜美花さんが呟いた。俺がその言葉の意味を把握する前に、男がするりと言葉を繋いだ。
「これからまだどんどんきれいになるよ。」
その言葉を聞いた亜美花さんは、きっと顔を上げ、男に掴みかかって行った。俺はいきなり破裂した彼女の衝動に驚いて、止めることもできずに突っ立っていた。
「なんで、なんで、あんたなんか、」
亜美花さんの発した言葉は、俺が以前に発した言葉と変わらなかった。男は、笑っていた。俺に向かって、笑いかけていた。俺は、その笑顔にも、亜美花さんの怒りにも、どう反応していいのか分からないまま呆然としていた。亜美花さんがこんなふうに感情を爆発させるところを見るのははじめてだった。彼女はいつも、冷静で落ち着いていたから。
男の襟首を掴んで揺さぶりながら、亜美花さんは泣いていた。背中越しでも分かるくらい、身体を震わせ、声を上げ、泣いていた。
「コースケ。」
亜美花さんの肩の向こうから、男が俺を呼んだ、軽い、吹けば飛ぶような態度だった。
「行って来たら?」
俺は、迷った。俺のときと同じだとしたら、この男は亜美花さんにセックスを持ちかけるのだろう。ただの興味本位で。亜美花さんは、その誘いを撥ね付けるだろうか。それとも、ぐらぐらと揺れる精神のままに、落ちてしまうのだろうか、兄貴みたいに。
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