18

 亜美花さんは、ずっと兄貴のところにいるのだろうか。観音通りで兄貴を見つけ、事の次第を確かめたら連絡をくれると約束していたけれど、俺のスマホは沈黙したままだ。こんな真夜中から夜明けにかけての長い時間、亜美花さんは兄貴と二人でなにをしているのだろうか。それとも、兄貴には会えなかったのか。

 「チャンス、逃がしたのかもね。」

 煙草の灰を缶の中に落としながら、男が悪戯っぽく言った。俺にはもう、チャンスとかどうこういうことが頭の中にもなかった。とにかく、兄貴に会わなくては。兄弟だから。他に理由なんかない。他の理由を、俺と兄貴は持てなかった。だから兄貴は、ここまで流れて来たのかもしれない。だとしたらとにかく、俺が行かないと。

 「康一に死んでほしいの?」

 男は笑ったままの唇で、俺を揺さぶるようなことを言う。おそらく、楽しんで。

 「そんなことになるなら、一緒に死ににいく。」

 深い考えがあって発した台詞ではなかった。ただ、思ったことを口にしただけだ。なのにその言葉を聞いて、男は大げさなくらいくるりと表情を変えた。男の真っ白いきれいな顔に残ったのは、完全な無表情。

 「……俺の弟は、死んだんだけど、俺は、まだ生きてる。」

 男の短い言葉。俺は頭の中が赤色にぐるぐる回るのを感じていた。これが、アドレナリンとかいうものかもしれない。そのぐるぐるに押されるみたいに、俺は無責任な台詞をぽんぽん口にした。

 「そんなのは、人の自由でしょう。死ぬのも、生きるのも。俺はただ、兄貴のその自由に、少しは責任がある気がしてるってだけ。二人っきりの、兄弟だったから。」

 そう、と、男は呟くみたいに言った。力ない言葉だった。それは、男の飄々とした先ほどまでの態度に似つかわしくなく。俺は右手を伸ばして、煙草を口に運ぼうとする男の手首を掴んだ。石膏像みたいな手首は、冷たかった。長い秋の夜みたいな、静謐な冷たさがあった。この冷たさに、兄貴は狂ったのかもしれないと、脳裏をかすめるみたいに思った。

 「なに?」

 男が軽く首を傾げる。その動作も口ぶりも、やはりこれまでの彼の印象とは異なっていた。なにかに追い詰められているみたいな、その切羽詰った様子を押し隠すみたいな、そんな色があった。俺には、自分がなんで男の腕を掴んでいるのかが分かっていなかった。まさか、一緒に兄貴のところに行きましょう、なんて、誘えるはずもない。それでも今、この男を一人にするのが、怖いような気がした。

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