8
「兄貴が、」
俺は、考え考え言葉を紡いだ。
『康一が?』
亜美花さんは、当たり前みたいに俺の言葉を待っていてくれた。俺は、このひとの特別だった兄貴のことを、確かに羨んだ。それなのに、兄貴は全てを放り捨てた。亜美花さんだけじゃない。学業も、家族も。それで、観音通りの男娼になった。それは、あの男のために? 俺には、よく分からない。そこまで強く誰かを思ったことが、俺にはない。
「兄貴が、全然意味わかんないことしてて、まじで、ほんとに、全然意味不明な生き物になってたとしたら……、どうしますか?」
自分でも要領を得ない質問だと分かっていた。全然意味不明なのは、兄貴じゃなくて俺の方だ。それなのに亜美花さんは、俺に質問の意味を問い返しもしなかった。ただ、しばらく考えるような間が合って、それから、そうねー、と、やや低いいつもの声を注いだ。
「付き合ってた頃なら……、康一のこと、一番好きだった頃なら、それでもよかったよ。」
「……よかった?」
「うん。それでも、康一のこと好きだった。」
多分ね、と、亜美花さんは小さく笑った。チャンスなんじゃないの。あの男の声が脳内で再生されて、俺はぎゅっと自分の胸元を握りしめた。そこが、痛かった。理由は、分かりたくなかった。
もうすぐ、駅に着く。俺は、亜美花さんにそのことを伝えて、電話を切ろうとした。すると亜美花さんは、会おうか、と言った。大した意味もない台詞みたいに。いや、亜美花さんにとっては、本当に大した意味のない言葉だったのかもしれない。元彼の弟、とかいう微妙に遠い関係だけれど、兄貴も含めた三人で飯を食ったことは何回かあったから、その延長線上として。俺はそのとき、会いたい、と言いかけた。会いたかった。母さんには、兄貴のことは話せない。父さんとは、そもそも顔をわせることがない。誰かに、話を聞いてほしかった。一人で抱え込むには、今日あった出来事は大きすぎたし重すぎた。なのに、会いたい、と言えない自分がいた。それは、不純な感情が自分の中にあるのを自覚していたからだろう。俺は、亜美花さんに会いたい。それは、兄貴の話を聞いてほしい、という以上の意味で。
『康介くん?』
亜美花さんが、電話越しに俺を呼ぶ。俺は、上手い断りの台詞を見つけなければ、と、焦って舌をもつれさせた。電話の向こうで、亜美花さんがまた笑うのが分かった。
『会おう。』
はい、と、そう答える以外、俺にはもう選択肢はなかった。
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