第3話 嫌いじゃないなら
「——えええええええええっ!?」
「い、祈里!? 何を言ってるの!?」
俺も古橋主任も目が飛び出る勢いで驚きの声を出した。
『お姉ちゃんと付き合って』という祈里からのお願い。
意味がわからなかった。
俺と古橋主任が付き合うだって? 天地がひっくり返ってもありえないだろう。
そもそも俺は祈里の彼氏で、古橋主任は祈里の姉だ。
「ふふふっ」
問いただすも、しばらく祈里は笑っていた。
それは喜ばしいことだと言いたいかのように、嬉しそうに。
「なぁ……俺、祈里に振られたのか?」
「ううん、私、ゆうくんのこと、大好きだよ」
「なら、なんでこんなこと……」
大好きならこんなこと提案するはずもない。
しかも自分の姉と付き合わせようなんて、おかしすぎるのだ。
「私ね、ゆうくんのことも大好きだけど、お姉ちゃんのことも大好きなの」
「祈里……」
その言葉に古橋主任の瞳が揺れていた。
「でもね、仕事が忙しいせいか、お姉ちゃんずっと恋人作らないんだよ? 恋人がいることが全てだとは思わないけど、私はゆうくんと付き合って、とっても幸せを感じたの」
それは俺にとって嬉しい言葉だった。
祈里も本心からそう言っているように聞こえた。
「だから、お姉ちゃんにも彼氏を作ってほしくて。でも、待っててもそんな気配がないから、優しいゆうくんならお姉ちゃんのことも幸せにしてくれるかなって」
祈里が言った言葉は矛盾している。
だってそれは二人一緒に好きになって二人共幸せにするという意味なんだから。
「祈里……言っていることわかるか? それは音無くんに二股をしろって言っているようなものなんだぞ?」
「そ、そうだよ祈里。そんなこと……古橋主任にも迷惑だよ」
祈里のお願いが理解できない俺たちは、無謀な願いだと拒否反応を示す。
「私……ゆうくんがお姉ちゃんと付き合ってくれるなら、別れても大丈夫だよ?」
「なっ!? 祈里! 俺はお前と絶対に別れたくないっ!」
そんな悲しいこと言わないでくれ。一瞬だけでも『別れる』なんて言葉は聞きたくないんだ。
「うん。私も絶対に別れたくない。でも、お姉ちゃんにも絶対幸せになってほしい。——なら、私ともお姉ちゃんともゆうくんが付き合うのが一番なんじゃないかって」
「そ、それは……」
そもそも俺は古橋主任のことを何も知らない。
逆に古橋主任も俺のことをほとんど知らないだろう。
そんな二人が祈里に言われたからと言って、好きになって、交際するだなんて……。
「いきなりじゃなくて良いんだ。少しずつで良いの。仲良くなろうって姿勢で歩み寄ってもらえないかな?」
祈里の言葉に、俺と古橋主任が目を合わせる。どこか意識してしまい、互いに顔を赤らめる。
でも、困っていることには変わりない。
「——ねぇ、ゆうくんはお姉ちゃんのこと嫌い? お姉ちゃんもゆうくんのこと嫌い?」
目の前に本人がいるのに、なんと直接的なことを聞いてくるのだろうか。
俺が古橋主任を嫌っているのは毎日のように怒ること、そしてその時の言葉がキツイからだ。
そしてそれは俺がミスを引き起こしたからだと理解している。でももし、それさえなければ俺は——。
「今はまだわからない……。でも、優しい祈里の姉だから悪い人だとは思えなくて……嫌いってわけじゃ……」
「音無くんっ!?」
俺からそんな言葉が飛び出るとは思っていなかったのか、古橋主任は驚きの声を上げた。今の反応を見ると古橋主任には俺が会社で嫌っていることを感じとられていたのかもしれない。俺は感情が顔に出やすいからな。
「お姉ちゃんは?」
俺が答えたことで、祈里は古橋主任に答えを求める。
「私は————わからない」
ゆっくりと出した答えは"わからない"だった。
「私はいつも音無くんには怒鳴ってばかり。だから嫌われていたことはわかっている。私は仕事人間だからどうしても人よりも仕事を優先してしまう。その結果、ああいう態度になって出ているんだと思う」
古橋主任なりの自己分析。
今の言い方だと、怒りたくて怒っているわけではない、そんな言い方に聞こえた。
確かに彼女は仕事人間だ。部署内の誰よりも仕事ができるし、彼女が関わった化粧品のPR案件は、売上が一つ飛び抜けるのだ。だから、仕事への姿勢と成果は俺だって尊敬してはいる。
俺が入社した頃には既にリーダー格で、その翌年には主任になっていた。今だって、もうすぐ係長になるんじゃないかと噂されてるくらいだ。仕事に関しては純粋に凄いと言わざるを得ない。
「それで、嫌いなの? 嫌いじゃないの?」
祈里が二択を迫る。
「さ、さっきわからないと言ったじゃないか。でも——嫌い、ではないと、思う……」
古橋主任からのその言葉を聞いた時、俺の心臓がドクンと跳ねた。
なぜそんな反応をしてしまったのか。それはいつも怒鳴っていた古橋主任が俺のことを嫌いではないと、言葉にして言ってくれたからで——、
「じゃあ二人共好きってことだねっ!」
「「それは違うっ!」」
嫌いではないイコール好きという計算式はどうやっても成り立たない。
祈里の発言は暴論だった。
「ふふ、息はぴったりなのにね」
「もう祈里ったら……茶化すのはやめなさい」
古橋主任が悩ましい表情で苦笑いを返す。
いつも立場が上の古橋主任。しかし、妹の前ではタジタジになっていてその姿がとても可愛く見えた。
…………は?
とても……かわいく……?
俺が? 古橋主任のことを? そんなにかわいく、見えた?
——ありえない。
だって、誰よりも可愛い存在が今目の前にいるじゃないか。
椎名祈里という可愛い存在が、すぐ目の前に。
確かにエプロン姿や甘い物が好きだというギャップに少しは惑わされたけど、そんなわけがない。
人は彼女がいたとしても、他の女性のことを可愛いと思う時だってあるはず。
それは犬や猫などのペットのことを可愛いと言っているのと同じで——そうだ、そういう可愛いなのだ。
「嫌いじゃないなら、私のお願い……聞いてくれるよね?」
キラキラした祈里の目。
それが俺と古橋主任に降り注ぐ。
「——あっ」
そこで俺は思いつく。
これで祈里の願いも少しなら叶えられるし、古橋主任との関係も大きく変わるわけではない。
その方法とは——、
「——友達! 友達はどうですか? 俺たちって、互いのこと何も知らないじゃないですか。別に祈里が言うようにいきなりそういう目線で見るのってハードルが高いというか……だから、友達ならどうかなって……」
これが俺なりの最大の譲歩だ。
祈里だって少しずつで良いからと言っていた。なら、友達という関係なら良いのではないだろうか。
「————」
俺の言葉を聞いて古橋主任は黙り込んで少しだけ思案した。
そして——、
「はぁ、私は弱いなぁ。元々祈里からのお願いはあまり強く断れないんだ。それに音無くんのことも今日見て悪い人だとは思えなかった。だから……その友達という関係——受けても良い」
古橋主任が語った答え。
それは、俺と友達になっても良い、ということだった。
再び、俺の心臓の鼓動が跳ね上がった。
「お姉ちゃんっ!!」
「わっ」
すると姉の言葉を聞いて嬉しくなったのか、古橋主任に飛びつく祈里。
互いに胸をぎゅうぎゅうに押し合って……いや、古橋主任のほうが強めだが、ともかく凄い状況を目にした気分になった。
というか俺、ここに来た時にあの大きなものに顔を埋めて、しかも擦り付けて堪能したんだよな……。それを思うと、なんてことをしたんだという気持ちと共に、少しだけ興奮した。
「ゆうくんもありがとうっ!!」
「うお」
すると今度は俺に感謝のハグをしてくれた。
祈里の喜ぶ顔が好きだ。今も幸せそうな表情で、俺の胸に飛び込んできた祈里の顔が好きだ。
ふと、古橋主任の顔を見てみた。
すると、彼女は妹を想う、優しい姉の表情をしていた。
会社では絶対に見られない表情だった。
しかし、俺の目線に気づいた古橋主任。
目をキリッとさせると、舌を出してそこに指を当てて、べーっとしてきたのだ。
そのあと、ふふっと、笑顔を見せてくれた。
俺は心臓をぎゅっと握られた気分になった。
さっきは自分の勘違いだと、そう思い込んで掻き消した。
しかし、今の古橋主任のあざとい仕草にあどけない笑顔。
それを見て彼女のことを純粋に可愛いと思ってしまった。
大嫌いなはずの上司。
なのに、たった一日でここまで印象が変わってしまった。
俺はこれから彼女に対して、どう接していけば良いのだろうか。
しばらく頭を悩ませることになると思うけど、今は目の前で喜ぶ祈里の気持ちを大切にしたいと思った。
◇ ◇ ◇
友達から始めるということで、祈里の勧めで『ルイン』というメッセージアプリの連絡先を交換した。すると、古橋主任のアイコンが可愛らしい犬だったのだ。
聞くとドッグカフェに行った時の犬だとか。いつもは恐い顔をしている古橋主任でも、こういった可愛いものが好きだと知って、また一つ、彼女のギャップを感じた。
「ゆうくん、それじゃあねっ」
「うん。祈里、またね」
祈里と玄関で挨拶。
そして、その隣にいる古橋主任。
「ええと、まあ、そうだな。——これから、よろしく」
「は、はいっ! よろしくお願いしますっ」
頭をカリカリしながら少し恥ずかしそうに、古橋主任は言ってくれた。
俺は深々と頭を下げた。
「もう、二人とも付き合いたてのカップルか〜?」
「「付き合ってないっ!」」
「ふふふ」
今日は祈里のペースに乱されっぱなしだ。
「音無くん、気を付けて」
「はい。古橋主任も……また明日、会社で」
「ああ……会社で」
そう言葉を交し、俺は祈里と古橋主任の家から帰宅した。
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