09.シカウマ事件
それはなりすまし生活が始まって一月が過ぎたある日の事。
その日の早朝、サモフォル王国の姫シャオヤオに与えられていた王宮の一角から女性の悲鳴が上がった。
悲鳴を上げたのはシャオヤオ付きのメイドの1人だ。場所は屋敷専用の庭。
「…で、どうしたの?」
「鹿が…鹿が捨ててあって…」
悲鳴を聞いて駆け付けたシャオヤオが尋ねると、座り込んでいたメイドが震える指である方向を指差した。そちらを見れば確かに、庭に出る掃き出し窓の下に小鹿の亡骸が打ち捨てられている。
小鹿を見てシャオヤオが何か言う前に、同じく駆け付けた使用人達の纏う気が一瞬で怒りへと変わる。
「なんて汚らわしい…姫様への嫌がらせだとしても限度があるわ」
「置かれたのは夜の内か、昨日の警備責任者は誰だ!」
使用人達は怒っていた。
生き物の死骸を屋敷に投げ捨てられるのはシャオヤオを、自分達が使えている姫を酷く侮辱される行為。そんな事をしたのは誰だと、許せないと、それはもう怒りを露わにした。
うーん…とシャオヤオは密かに唸る。この空気の中で、実は侵入者に気付いていました☆ なんて言おうものならどうなるだろうかと考える。
そう、昨日の夜に何者かが庭先に入り込んで何やらごそごそとやっていた事にシャオヤオは気付いていた。
嫌がらせや暗殺の類はあると、皇太子やセドリックからの説明もあっていつかは来るだろうと王宮探索と並行して警戒していたので別段驚きはしない。そもそもそう言う事に対応できる者をと、シャオヤオが選ばれたのだから。寧ろ専属の使用人達から陰口一つなく、今日まで何事も無く平和に過ごせていた事の方が驚く。
しかし、そのやっと来た何者か、だが。殺気らしいものはなく、警備の隙を上手く付いていると言うのに怯えているのかキョロキョロと忙しなく息も荒い。シャオヤオの寝室は二階で、掃き出し窓が見えたのでそこからこっそり観察していた訳だが、要するに明らかに素人の動きだった。
何か置いたのにも気付いていたが、運び方から見て危険物の可能性は低いと見た。
はっきり言って拍子抜けであった。
「昨晩は別に侵入者があって警備に隙が生まれたのだと思われます。そちらは捕らえ、いつも通り然るべき所へ…」
「それでこの失態など、何の言い訳にならないぞ。恐らくそれは陽動だ」
「まんまと引っ掛かったと言うのか…くそ」
いや、鹿の方が陽動だろうとシャオヤオは思う。
シャオヤオに付けられた使用人達は、平民育ちの姫を侮ったりしない人柄重視で選ばれている事が伺える。とは言え仕事の質は大変良く、騎士達も同様だ。何かしらを仕掛けようとこの一角一帯をうろついていた者は今までにも複数いて、騎士達が見事防いでいたのだ。十分に出来る騎士達である。
仮に彼等を掻い潜り警護対象を暗殺しなければならない場合、かなり苦労する事になるだろう。それでもやらなければならないのなら、シャオヤオも何かしらの陽動を仕掛けて警備の隙を作る。
だが騎士達とてそう言った危険を常に想定して警備しているのだ。神経を研ぎ澄まし、より危険なモノを探る。その結果、危険性が高い本命の方が捕まり、危険性が低い素人な陽動が見落とされた。
騎士達の能力が高いが故に起きた事。この手の事は意外と起こり得る。
まぁそれらの事を、侵入者に気付いていた事も合わせてシャオヤオは言うつもりはないが。
それよりもシャオヤオが気になるのは鹿の方だ。
「姫様、この度の我等が失態、弁明のしようもありません」
「いや別にいい、ですよ。今回はたまたまです、そんな事もありますよ。それよりもアレは」
「姫様! このような卑劣な嫌がらせに負けてはなりません! わたくし達がついていますので、お心を強くお持ち下さいませ!」
「だから別にいいんだってば…。ねぇ、アレはどうするの?」
「申し訳ございません、すぐに処分致します」
「処分ってどうするの?厨房に持って行くの? まさか捨てるとか言わないよね?」
「え?」
「そんな勿体ない事、しないよね?」
献身的な騎士やメイドには悪いが、はっきり言ってシャオヤオには気にも留めていない。たかが動物の死骸を置かれたからと言って、何だと言うのだ。ムーダンと住む山の中の小屋では食料が足りなくて狩りを行う事もしばしばあった。今更怖がるものではない。
実害はない。いや、寧ろ…。
「姫様!?」
戸惑う使用人達を置いてシャオヤオはすたすたと小鹿の死骸に近付く。
間近でマジマジと観察すれば、やはりと口から零れる。
「やっぱり肉付きが良い、小鹿でこれだけ育ちが良いのは早々お目にかかれるものじゃない。毒が仕込まれている形跡はない。痛んでいる箇所もなく、血抜きも完璧。当然のように鮮度も良い。こんな上物滅多に手に入らない、売れば幾らするか。それを食べもせず捨てるなんて言語道断! 貴族の横暴!」
「食べられる…のですか?」
「食べられる。と言うか食べたい! 捨てるならちょうだい!」
そう、この小鹿、一言で言うととてつもなく美味しそうなのだ。いや、美味しそうではなく、絶対に美味しい。許されるなら持って帰ってムーダンに食べさせてあげたい。それが叶わないならせめてこの場で頂きたい、ごめんムーダン…。
しかしそれぞれの出自は分からないが、王宮なんて上品環境にお勤めしていらっしゃる使用人達だ。動物が落ちているからと言って食べるなんて発想はないだろう。
まずは彼等からこの上質なお肉を守らなくては…! そんな決意に溢れるシャオヤオの迫力に使用人達は押し黙った。呆気に取られている、とも言う。
「何事ですか?」
おかしな空気に呑まれそうになっていた場だが、穏やかながらも凛とした声によって皆が現実に戻される。
遅れて現れたエリム夫人だった。
「昨夜、何者かに侵入されあの場に鹿の亡骸を…」
「まぁ…。至急ラウレンティウス殿下に報告を。他の者は鹿を片付けあの場を綺麗なさい」
「それが、ですね、エリム夫人…。姫様が鹿を食べたいと申されまして…」
「はい?」
簡潔な説明だけでエリム夫人は状況を理解したらしく、周囲の者達に指示を出す。若い使用人達と違って感情を揺らす様子が無いのは流石だ。
そんなエリム夫人が、シャオヤオの主張を聞いて目をパチクリと瞬かせた。
何も言わず、頬に自身の手を添えてシャオヤオとその足元の鹿と、そしてシャオヤオの主張を聞いた使用人達へと視線をゆっくりと送る。何度も目を瞬かせながら。
「…姫様?」
「はい!」
「…食べられるのですか?」
「食べられます! 私が保証する。私だけでいいから食べさせて下さい!」
「………ふっ! っんふふふ」
「エ、エリム夫人?」
「ふふふ、そ、そうですか…ふふ」
怒られる。そう思ってシャオヤオは冷や汗を掻きながら身構えていた。
分かっている。落ちている…それも嫌がらせで捨てられていた鹿を食べたいなんて、お姫様がする主張ではない。どう考えても怒られる、説教される。しかしそうと分かっていても、この上質な小鹿肉を食べずに処分すると言う暴挙を止めずにはいられなかったのだ。
ところが予想に反し、エリム夫人は突然笑い出した。笑うと言ってもそこはやはりエリム夫人な訳で、口元を抑えて堪えている。だが彼女らしからぬ震える肩に切れ切れの言葉。これがシャオヤオなら、引き付けを起こす程の大笑いなのではなかろうか。
シャオヤオだけでなく皆がポカンと眺めるくらいには、貴重なエリム夫人の姿だ。
「姫様…ふふっ、わたくしも、ご相伴に与らせていた…だいても、んふっ」
「エリム夫人、何を!?」
共に鹿を食べると言い出したエリム夫人に、当然のように使用人達が驚いた。シャオヤオとしては賛同者が現れるのは大いに歓迎するところであり、それがエリム夫人なら尚更だ。
「まぁまぁ、皆さんも一旦冷静になって想像してごらんなさいな。鹿の亡骸に姫様が怖がったり傷付いたりもせず、喜んで美味しく頂かれた…なんて聞いたら犯人はどう思うでしょう」
動揺する周囲をエリム夫人は宥め、何やら想像を進める。
その内容にシャオヤオは首を傾げた。そもそも嫌がらせの為に食べ物を使う事自体、シャオヤオには理解しがたいので完全に想像の範疇外なのだ。
「…ぶはっ!」
一瞬の静寂を破ったのは、騎士の1人が吹き出した声。それを皮切りに、想像し終わったらしい使用人達が次々と笑い出す。
「確か…に、これは…ぶふっ」
「やだ、犯、人、かわ、い、そ…くふふっ」
「ひひ、ひ姫様、我等にも是非鹿を、ぉ、ぉほほ」
シャオヤオはますます首を傾げる。
彼等の笑いの壺が分からない。分かるのは、皆で鹿を食べる流れになっているらしい事だけ。いや、それだけ分かれば十分なのかもしれない。
シャオヤオは勢いよく立ち上がった。
「これなら塩振って焼いただけでも美味しいはず。ちょっとその辺から薪を」
「それは別の者に任せ、姫様は朝のお支度をなさいましょう」
「…はい」
早朝の悲鳴に駆け付けたシャオヤオは寝間着のままだったりする。
「我が婚約者の屋敷に動物の遺体が投げ捨てられていた…と聞いて来たのだが、この状況は何だ?」
シャオヤオが朝の支度を済ませ、再び庭へと戻って諸々済ませ終わった頃、皇太子が庭先にやって来た。その後ろには珍しく、初めて会って以来だったセドリックの姿もある。
「おはよう、ございます。見ての通り鹿を焼いているところ、です」
「鹿…。投げ捨てられていたのも鹿だったはずだが?」
「えぇ。だから、その鹿。です」
皇太子に言葉を返しながらシャオヤオは小鹿の肉が刺さった串を、火に当てる個所を変える為にくるりと返す。
シャオヤオが戻って来た時には騎士達が直火で庭が焦げないようにと煉瓦を敷き、その上に薪を並べてくれていた。野営の経験がこんな所で活かせて喜ばしいと、騎士達は良い笑顔だった。
それから調理器具と調味料、その他道具をメイドと専属料理人が運んで来て、それでは鹿を捌こうかと言うところで料理人に解体の経験が無い事が判明した。常日頃、肉の塊しか扱った事がないと。騎士達も狩りの経験こそあるものの、せいぜい血抜きまでで後は業者に任せていたそうだ。野営でも、比較的若い彼等は食料を現地調達するような困窮した戦場の経験はなく、支給された携帯食で事足りていた。
メイド達女性陣も言わずもがな。流石のエリム夫人にも知識はない。
さてどうしたモノかと皆が困る側で、袖を捲り上げて刃物を握ったのはシャオヤオだった。
「それはそれは素晴らしい手際でして、感服致しました」
おほほ、と楽しそうにエリム夫人が早朝からの出来事を皇太子に説明する。
エリム夫人の笑い声を耳にしながら、シャオヤオは肉を焼くのに徹する。良く火に通さなければならないが、焦げては台無し。肉も解体作業もそうだったが宮廷料理人にはこのような串に刺して焚き木でただ焼くだけの大胆…悪く言えば粗暴な料理とも言えない調理方法は経験がないので、解体と同じくシャオヤオが取り仕切る。
因みに、シャオヤオの見立て通り肉の質の良さは料理人も認めるモノで、半分は彼等にあげた。
「あっははははっ! それで食べる事になったのか! 鹿を! 流石我が婚約者! シャオヤオ最高!」
火加減に注視しているところに皇太子の笑い声が飛んできた。煩い。気が散る。チラリと横目で睨んでみれば、皇太子はヒーッと変な声を上げて地面に倒れ伏していた。
なにがそんなに面白いのか。エリム夫人や使用人達と同じだ、彼等の笑いの壺が分からずシャオヤオは小さく息を吐く。
「姫様は豪胆でいらっしゃる」
そう言いながら焚き木の側でしゃがんだのはセドリックだった。彼は自分の目の前にある串に手を伸ばし、くるりと肉の向きを変える。それはそろそろ返そうと思っていた肉。食べる気ならまだ焼けていないと注意するつもりだったシャオヤオは、意外な動きに驚いた。
セドリックは他の肉の向きも次々と変えていく。彼は肉の焼け具合が分かっているらしい。貴族然とした綺麗な顔立ちには何だか似つかわしくない。
…だが、この男。シャオヤオはセドリックの肩をマジマジと見た。優しげな笑顔を崩していないが、肩がもの凄~く小刻みに震えている。滅茶苦茶ウケている。それこそ、本当なら皇太子のように笑い転げるくらいに。
笑うなら素直に笑えば良いのにと思うが、皇太子のように煩いのも嫌だし、よく見ないと気付けない程に取り繕う胆力は素直に凄い。皇太子も少しは見習えと、シャオヤオは思った。
「セドリック、こっち食べてみる?」
「光栄です」
密かな賞賛の証として、シャオヤオは食べ頃の肉を1本、セドリックに進呈する。
最低限の味付けしか施していない、切って焼いただけの肉。上質な肉の味を活かせてシャオヤオは十分だと思っているが、料理人によって丁寧に調理された料理が当たり前のお貴族様が好んで食べるモノではないだろう。拒否されるならされでいい。シャオヤオの取り分が増えるだけだと思っていた。
しかしセドリックは特に気にする様子も見せず、シャオヤオから肉が刺さった串を受け取り、一切の躊躇なく頬張ってみせた。
「上手い…」
見た目に反し豪快な食べ方。だがこの肉の食べ方としては、正解である。
美味しさに、素直に目を輝かせる反応の良い。シャオヤオの中でセドリックの好感度が上がった瞬間だった。
「待てシャオヤオ、今セドリックの名前を呼んだな? 婚約者である俺の名前はまだ一度も呼んでいないのに!」
「煩い、これでも食ってなさい!」
鹿の美味しさを受け入れられ、シャオヤオの気持ちもせっかく良くなっていたと言うのに、皇太子がどうでもいい事を言いながら迫って来る。
さっきまで倒れ伏していたのに、もう回復したらしい。一生あのままでいれば静かだったモノを…。
そんな苛立ちを込めてシャオヤオは皇太子の口に肉を捻じ込んだ。本当は串で口から脳天を突き刺してやりたいところだったが、シャオヤオは食べ物を粗末には出来ない。それはまた今度に取っておく。
「美味い! 鹿、美味!」
咀嚼の後、カット両目を見開いた皇太子の感想が庭に響いた。
これが後々語られる、シカウマ事件である。
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