ダメ人間更生プログラム

@786110

①謎の等身大X

 運動は健康的で、寝不足は不健康。これはごく普通のイメージであり、世間でも当然のこととして認識されている。

 寝不足のまま運動することは、心身に優しくない。しかし、ほどよい年齢、具体的には五十代前後で天寿を全うしたい人間である俺は、すでにそれを習慣化していた。

 現在、ランニング中。

 すでに四キロは走っている。ノルマは十キロだから、折り返しにも達していない。まだまだだ。

 駅伝に出場したり、フルマラソンに参加したりするという明確な目標や予定があるわけでもなく、機械的に身体を動かしているだけだから、虚しいと言えば虚しい。まあ、何も考えなくていいという点では俺の性に合っているのだから、感情のことはどうでもいいだろう。

 ほっ、ほっ、ふっ、ほっ、と呼気を乱しながら、アスファルトを蹴っていく。

 十月に突入したばかりの朝、一軒家やアパートの点在する住宅街は閑散としている。さっきから、誰ともすれ違うことがない。とっくに七時を回っているだろうに、近所住まいと思しき人さえ見かけないのは不思議だった。

 しばらく走り続けていると、少し先の道端に突っ伏している、大きな物体を発見した。徐々に減速し、その前で足を止める。

 これ、人か……?

 縒れた水色のパジャマに、貞子みたいに長いけれど清潔感のないぼさぼさの黒髪。

 マネキンや人形でなければ、女装男子か女性のどちらかである可能性しかない。もし、女の人だった場合、触れただけで痴漢の判定が下されるかもしれない。不用意に接触しないほうがよさそうだ。

「あのー、もしもーし」

「…………」

 無反応。

 念のため、もう一度だけ声をかけてみる。

「大丈夫ですかー?」

「…………」

 やはり、反応はない。

 放置しようか。けど、この謎の等身大Xが本物の人間で、一刻を争う状態に陥っているのだとしたら、後味が悪いような。

 救急車でも呼ぼう。一大事のための一一九だ。

「⁉」

 と、俺がスマホを取り出したところで、それは動いた。俺の足首を、摑んでいた。

 それは、いや、そいつは、突然の出来事に動けないでいる俺の衣服を梯子みたいによじ登ってくる。

 うわっ、とバランスを崩し、その場に押し倒される。俺の上には、歴とした人間が跨っていた。

「…………」

 ジーッと俺を見下ろす人物。唖然とする俺。

 たっぷり一分ほど見つめ合って、その子は口を開く。

「……おなかすいたので、なにか恵んでください」

 見かけ通りの、陰気臭い女の子の声だった。気怠そうで、けれどささやかなかわいらしさを秘めた感じ。髪に隠れて、顔はよく見えない。

 俺が何も言わないからか、女の子は言葉を続ける。

「お金、ないんです……。お願いですから、なにか食べるものを……」

 そこでようやく、俺は口を動かした。

「んなこと急に言われてもだな……」

 事情説明してもらわないと、何が何だかわからない。

「詳しくはあとで話します……。だから、だからぁ! 食べ物をぉぉぉぉぉぉ‼」

「がっ⁉」

 首を絞められた上に、そのまま前後に揺さぶられる。後頭部を、何度か硬い地面に打ち付けられた。撲殺する気か!

 押し退けたほうが早かっただろうに、俺は先に叫んでいた。

「わかった、わかったから! とりあえずその手を離せ!」

「ほ、ほんとうですか⁉」

 嬉しそうな声のあとにあっさりと解放される。どんだけ追い込まれてたんだよ……。

「ついでにどけてくれ。誰かに見られたらいろいろとまずい」

「え、ああ、はい」

 女の子は、今度も大人しく言うことを聞いてくれる。どちらも服を着ているとはいえ、公衆の面前で騎乗位は、ねぇ……。

 女の子が俺の上から下りている最中、なんとなく、すぐ右横の民家に目を遣った。

 部活に行くのか、学校のジャージを身にまとった少女が、ちょうど玄関から出てくるところだった。

 目と目が合う。

 ばたん、と。

 その子は、扉を閉めて、家の中に引き返していった。

 おかあさーん! と大きな声が聞こえてくる。

「おい、早く行くぞ、このままだとお縄だ!」

 立ち上がった俺は、目の前の女の子を抱えて、その場から一目散にずらかった。

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