第五十三話 エルとメル(上)

 眠っていた三日を含めて六日の特別休暇を終えたリトの部屋のポストに一通の手紙が入っていた。



 エルからだ。なんだろう?



 リトは封を切って読み始めた。


 おおよその内容を言うと、会って話がしたいから家に来て欲しいとのことだった。


 リトはすでにエルの家を知っている。身支度を整えるとエルの家へと向かった。




「やぁ〜よく来てくれたねぇレノくん〜」



 エルがのんびりした声で出迎えてくれた。



「本当はこっちから出向かなくちゃだったんだけどまだ謹慎が解けなくて……ごめんよぉ」



 リトは首を振った。エルの左肩はまだしっかりと包帯で固定されていた。



「右腕の罅はもう治ったんだけどねぇ。左肩は踏み抜かれちゃったから」



 リトの視線に気づいてお茶を用意しながらエルは言った。リトは顔を顰めた。



「あの時もあの時も全部本当にありがとう」



 エルはリトの前にコルナとお茶を置くと真面目な顔をしてリトに頭を下げた。お茶から薬草の匂いがする。


 リトは首を振った。



「今日はね、あの時約束した僕達の過去について話したかったんだ」



 エルが向かいのソファに腰掛けて膝の上で手を組む。



 そう言えばメルはどこだろう?



「メルには出かけてもらってる。お付きの騎士にも外に出てもらってる。

 君に話すこともヴィルヘム様から許可をもらったよ。

 長い話になるけど大丈夫かい?」



 リトがキョロキョロしたのに気付いてエルが付け加えた。リトは頷いて先を促した。



「何から話そうか……そうだね……。僕の本当の名前はエルリム。

 学問と魔法の街イスタルリカの街主の三男として生まれたんだ……」



 エルは座り直すと静かに語っていった。






 ――二十一年前春。

 イスタルリカ邸で元気な産声が上がった。



「わぁ……これが僕の妹……」



 エルは母の枕元に置いてある小さな揺りかごの中の小さな小さな赤ん坊を覗き込んだ。



「そうよぉ。貴方の妹。メルヒラって呼んであげてぇ」



 エルの母は優しく微笑みながらのんびりした声で言った。



「メルヒラ……」



 エルは壊れ物であるかのようにそっと名前を呼んだ。



「お母様。触っても、いいですか?」



 と母の様子を伺う。母は笑顔で頷いた。


 そっと人差し指で小さな小さな紅葉のような手をつついた。すると、その手がエルの指をキュッと握る。


 赤ん坊は刺激に反応して自動的に手を握るとエルは習った。

 それでもこの反応はまるで意志を持っているかのように思えた。



「メルヒラ……メルだね?」



 そう囁くとメルはクリクリとした目を細めてふっと笑った。



「可愛い……。メル、メル」



 エルも普段滅多に見せることの無いふにゃりとした優しい笑みを浮かべた。


 母はその様子を微笑ましく見守っていた。


 エルの母は身体が弱い。エルを産んだ後はほぼ寝たきりの生活だった。今回の出産も出来るかどうか、ギリギリだった。


 そのためエルに禄についてやることも出来ず、エルの生活全般はイスタルリカ家に厳しく締め付けられていた。


 エルの母はそれに心を痛めていた。


 屋敷に閉じ込められ、平民出身で側室の身。エルの母にとって屋敷の中にはほとんど味方がいなかった。


 唯一心を許せるのは今も自分の侍女として仕えてくれるエルの乳母だけだった。


 エルの母は高い魔力と優秀な頭脳のため、半ば無理やりイスタルリカの側室にされた。

 だが己の子は可愛かった。時間の許される限り目一杯愛情を注いでいるつもりだ。


 ドアがノックされた。エルの顔から笑顔が消える。返事を待つ事なく、ドアが開いた。



「エルリム様、お勉強のお時間です」



 無機質な声で執事がエルを呼んだ。エルは父親の期待通り優秀だった。およそ三歳児とは思えないくらいに。


 ギッチリと詰められたスケジュールを何なくこなし、吸収し、成長するエルにイスタルリカ家は更に課題を課していった。



「少し詰めすぎなのでは?」



 エルの母が少しでも引き止めようと、もう何度も繰り返した問いを執事に投げかける。



「必要なだけ、でございます」



 執事は敬語で、でも明らかに見下した態度でエルの母にそう告げた。


 エルはそっと妹の手から指を外して出口に向かった。






 エルは六歳。メルは三歳になった。


 二人の母は産後の肥立が悪く、ここ一ヶ月は危篤状態だった。



「メルヒラ、メル!」


「あぅ!えりゅ!」



 母の部屋の隣にある子供部屋を訪ね、エルがメルに呼びかける。メルが振り返り、にぱっと笑った。


 危なっかしげに立ち上がり、よたよたとエルに歩み寄る。



「あんよが上手だね」



 エルがメルの手を取り、頭を撫でた。メルの体はおおよそ八十五センチ。


 一歳半の赤ちゃんと同じ程しかない。


 メルは体が弱く、生まれて数ヶ月の内に何度も危険な高熱を出し、ミルクも飲めず、何度も生死を彷徨った。

 落ち着いたのは一歳半を過ぎてからだった。


 そのせいか、心身の発達が非常に遅かった。


 歩けるようになったのは半年前、言葉が出たのはつい二週間前だった。


 覚えた言葉は「えりゅ(エル)」と「まま」。


 エルと母が根気よく教え続けたからだ。



「ママに会いに行こう。いいね?」



 最後の一言は壁に控えるメルの乳母への言葉だった。メルの乳母は言葉少なに頷いた。


 メルの手を引いて母の寝室へ向かうと、コン、ココンとリズムをつけてノックする。


 すぐに「入ってらっしゃい〜」と優しい母の、のんびりとした声が答えた。

 母とエルが決めた秘密のノックなのだ。



「まま!」



 部屋へ入るとメルがヨタヨタと母の元へ歩いて行った。エルが持ち上げてベッドに上げてやる。


 エルも椅子に腰掛けた。



「ああ……よく来てくれたわね〜!エル!メル!

 待ちかねていたのよぉ!今日も可愛いわ!二人とも!」



 エルが頬を差し出すと痩せ細った母は声だけは元気に、二人にかわるがわる挨拶がわりのキスをした。



「メルもエルもまた大きくなったんじゃなぁい?」


「お母様……そんなになってたら僕たち一ヶ月後には巨人です」



 エルが整った顔をふにゃりと崩した。メルは母の横で指をしゃぶっている。


 母はその手をそっと外しながら二人とそっくりの猫目を細めた。






 エルはここ一年、以前よりも母とメルと過ごす時間が取れるようになった。


 それもエルが既にこの街の高等学課程までの勉強を終え、魔法の方も既に全属性の上級魔法の詠唱破棄まで修めた上で「父親」に直訴したからである。


 成績の維持、向上、新魔法の開発に取り組む事を条件に時間を得たのだ。


 エルは乳母に教えを乞い、本を読んで学んで乳母と一緒になって寝る間を惜しんでメルの世話をし、母と過ごした。


 そのためエルの目は魔力の高い子供なのに非常に悪い。

 しょっちゅう眉間に皺を寄せ、目を凝らすようになった。


 母はベッドの脇を探った。


 用意していたものが無い。


 見ると、指を取り上げられたメルがしゃぶっていた。


 母は笑いながらそれを優しく取り上げると涎を拭いてからエルにかけた。



「見える?」



 エルが驚いている。それは母の丸メガネだった。

 エルには少し大きいが、侍女に頼んで度を合わせてもらったのだ。



「お母様……これ……」



 エルが続きを口にしない内に母はそっとその唇に人差し指を押し当てた。


 そのままひんやりとした細い指先でエルの頬を撫でる。



「似合ってるわ〜。ねぇ?メル?エルかっこいいわよねぇ?」



 笑顔でメルに呼びかけた。メルはにぱっと笑った。



 その一週間後母は亡くなった。





 母の棺が運ばれて行く。


 喪に服した黒い服を着ているのはこの屋敷ではエルとメルそしてその乳母達だけだった。



「えりゅ?」



 メルの不思議そうな声。

 そこでエルは初めて自分の頬が涙で濡れていることに気がついた。


 グイと袖で涙を拭くが、涙は後から後から溢れてきた。


 横からそっとハンカチが差し出された。メルの乳母だった。


 エルはハンカチを受け取ると、丸メガネを頭に押し上げて目に押し当てた。


 鼻を啜る。


 馬車が来た。


 小さな馬車に四人で乗り込むと、墓地のある丘へと向かって動き出した。

 メルは座席に立って興味津々で外を見ている。



「メル」



 名前を呼ぶと振り向いた。にぱっと笑う。

 少し開けた窓から入り込んでくる風で、二つに結んだ母譲りの柔らかなストロベリーブロンドの巻毛が揺れた。



「今からね、ママに最後に会いに行くよ」


「まま?」



 笑顔でにこにことしてメルが繰り返す。



「そうだね。お花をあげるんだよ」


「おはにゃ……」



 この一週間でメルはまた少し喋れるようになった。



「えりゅ、いたいいたい?」



 メルが首を傾げた。エルは頬に触った。また涙が流れていた。エルは涙を拭いて首を振った。

 馬車が止まる。



「行こう」



 メルの手を引いて馬車を降りた。


 墓の前で待つ。間も無く母の棺が運ばれてきた。


 地面に下ろされて蓋が開けられる。沢山の小さな花に囲まれて白い服を着せられ、痩せ細った、それでも整った安らかな顔をする母が現れた。


 葬儀屋が花束を四つ持ってきた。一人に一つづつ手渡される。乳母達が小さなカバンからそれぞれ羽ペンと紙を取り出した。


 エルの作った七色のインクの出る羽ペンと、メルの描いた母の絵。母の数少ない宝物だ。


 それをそれぞれエルとメルに持たせた。


 エルから順に花束を棺に入れていく。胸の前で緩く組む母の手に持たせるように。メルはエルが抱えてやった。


 乳母達も花束を入れ終えるとエルとメルが再び側に立った。


 エルは母の顔の横に羽ペンを置いた。そしてそっとその頬にキスをする。次にメルを持ち上げた。



「メル。ママに絵を置いてあげて」



 メルは素直に母の顔の横、エルの羽ペンと反対側に絵を置いた。



「お別れだよ。ママにおやすみなさいのチューをしてあげて」



 エルは限界まで腕を伸ばしてメルを母の顔の横まで持ち上げた。メルが首を伸ばしてキスをする。


 二人が離れると蓋が閉められ棺が穴へ下ろされた。


 エルと、エルと手を繋いだメルがじっとそれを見守る。


 深い穴の底に箱がつくとこの街の教会の大司教が前へ進み出た。母の名前を呼び、神の元へ導く旨の祝詞を上げる。

 最後に宝玉のついた長い杖を振ると棺が淡く光った。


 遺体を速やかに土に返し、魂を天に導くとされる魔法だ。


 光が収まると葬儀屋達が土をかけ始めた。そこでメルが声を上げた。



「まま?」



 そのまま穴に向かって駆け寄ろうとする。エルはそれを抱き上げた。



「まま?まま?まま!」



 メルはエルの腕の中から手を伸ばし、何度も呼んだ。エルはメルを抱き締めた。


 とうとうメルは普段滅多に泣かないのに声を上げて泣き出した。エルもメルの肩に顔を埋めて肩を震わせる。



「ままあぁ!!」



 メルが母を呼び、泣く声が墓地に響いた。

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