深淵

夜雨 翡翠(よさめ ひすい)

epilog 疑問

 この世界は、冷たい。

 世界は困っている人、一人一人を助けることはできない。

 世界は理不尽なほどの苦しみに溢れていて、でも、そのなかで僕たち人間は光を見いだす。

 冷たい世界を、少しでも温かく思えるような出来事は誰にでもあるはずだ。そう、誰にでも……


***


 「お母さん、これ、ここに置いておくね」

「ありがとうね。凛空りくみおちゃんにご飯あげてくる」


 お母さんは今年の春、再婚した。相手は前の仕事の同僚の飯室いいむろさんだ。お互い子持ちで、澪ちゃんは飯室さんの一歳四カ月の娘さんだ。


 僕の家の朝は早い。僕のお母さんと飯室さんは医学療法士であり同じ近くの介護施設で働いている。共働きで幼い子供を保育園へ預けなければならないので、お母さんも飯室さんも朝は一刻を争うようにしている。


 「お母さん、もう行くから。鍵、閉めて出て行ってね。ほら、澪ちゃん行くよー」

 

「ママー、みおのくつしたがないー」


「ここだよー、あぁ!みおちゃん、早くいかないと!遅れちゃう!はい、自転車乗るよー」


 お母さんはいつも気を遣いすぎていて、心配になる。澪ちゃんを保育園に送り迎えするのは大変なのに、飯室さんにはいつも助けてもらっているから。と言って毎日行きは早く、帰りは遅くなっている。大丈夫なんだろうか。

トーストにハムとチーズをのせた定番化した朝ごはんを食べながら、嵐が去ったようなしんとした部屋を見渡す。去年まではもっと朝の時間というのはゆったりと流れていた気がする。


「凛空くん。行ってくるね」


 お母さんが出て行った三十分後くらいに飯室さんは出て行く。


「…行ってらっしゃい」


敬語のない、いってらっしゃい。を言うと違和感を感じてしまう。


 少しして、僕も用意をして家を出る。


 冬の寒さが凍てつく二月。


東京から少し離れた町に僕は暮らしている。


この新しくぎこちない生活に慣れる日はいつ訪れるのだろう。

僕の心にはまだわだかまりがあった。飯室さんはいい人だ。無口だけれど家事も育児もきちんとするし、僕の存在も受け入れてはくれているのだろう。しかしなぜだか僕の心はなにか黒いものにゆっくりと蝕まれている気がする。これはなんだ。いずれこの黒いものが僕を染めておかしくなってしまいそうな、胸のわだかまり。

 

 でも僕は別にそれほど深刻に捉えていなかったし、たぶん自分は不幸に疎い人間なんだと思う。


 だからなのであろうか。この先の予想だにしなかった深い苦しみでも僕は流れるまま、生きてきた。











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