第13話 祖母の見舞いと鈴木先生②

「よお。奇遇だな」


 鈴木先生が、普段よりも抑揚のないトーンで声をかけてきた。だいぶ頑張って冷静を装っているな、と思った。


「ええ、奇遇ですね」


 わたしも、頑張って冷静を装って言った。

 女性は、わたしより少し背が低く、髪の毛が肩くらいまでの長さで、顔立ちは人形みたいに整っていたが、どこか表情が茫洋としていた。


「この子は、俺の妹のニコだ。今、ここの病院に入院している。ニコ、この人は、山田先生で、お兄ちゃんの仕事の仲間だ。挨拶を」


 挨拶をと促されても、その女性は声を出さず、こちらに目を向けて、ほんのわずかに会釈しただけだった。

 その女性の表情は、なんとなく既視感があった。その既視感のもとは、すぐにわかった。職場で、わたしがよく見かける表情なのである。


「こんにちは」


 とわたしは言って、さらに頑張って微笑んで見せた。


「山田は、なんでここにいる?」

「祖母が入院してるんです」

「長いのか?」

「そうですね、二年くらいになります。脳梗塞の後、高次脳になっちゃったので」

「そうか……。大変だな」


 女性が、鈴木先生の袖を引っ張った。


「ああ、悪い、わかった、行こうか。それじゃ山田、お疲れ」

「はい、お疲れです」


 二人は、またゆっくりと歩みを再開した。その背中が見えなくなる前に、エレベーターが開いたので、わたしはそれに乗り込んだ。


*****************************


 病院をあとにして、最寄り駅のホームのベンチに座って電車を待っていると、


「隣、いいか?」


 と声が聞こえた。

 そちらに目を向けると、鈴木先生だった。グレーのダッフルコートを着て、タイトなジーンズを履いていた。


「隣、どうぞ」


 とわたしがこたえると、鈴木先生は、ベンチ一個分のスペースを空けて、隣に座った。


「驚いたよ」

「わたしもです。妹さんは……長く、入院されているんですか?」

「いや、今の病院は、先週転院してきたばかりだ。前の病院は、四年ほど入院していたけど。今回、クロザピンを導入するために、転院したんだ」

「クロザピン……」


 クロザピンのことは、もちろん知っていた。治療抵抗性の統合失調症の患者さんに使う、抗精神病薬である。他の抗精神病薬よりも高い効能があるが、顆粒球減少といった副作用があり、使用するためには複数の条件がある。処方する医師も病院も登録が必要である。


「妹は、十代半ばに発症したんだ。急に学校に行きたがらなくなって、自分の匂いが気になるとか言い出して。一日中部屋にこもる日が続いて、ある時から、ぶつぶつ独り言を言い出した。頑なに部屋に人を入れないようにしてたんだけど、ある時親が、強引に中に入っていって、そしたら、窓に目張りして部屋が真っ暗で。そこでどういうことが起こっているかわかって、精神科に受診した。初診からその日に入院になってな。半年くらい入院したかな。後から思うと、ほぼ教科書通りの流れ。ただ、退院した後も、薬をあまり飲みたがらなくて、飲む飲まないでしょっちゅう親とも喧嘩してた。そうこうしているうちに調子が悪くなって、入退院を繰り返すようになった。それで、四年前には亜昏迷状態になって、飲食もできなくなったから、五回目の入院をして。急性期は脱しても、自宅で過ごせる状態にならなかったから、県の外れの単科病院に転送されて、今に至ってる」

「妹さん、小柄で綺麗な人ですね。鈴木先生と、あんま似てない」

「そうだろう?あいつは、手前味噌だが、結構整ってるほうだと思う」

「お兄さんに面会に来てもらえて、うれしいんじゃないですか」


 そう言うと、鈴木先生は真顔になり、表情をこわばらせた。


「俺は……妹と面会をするたびに、怖くなる。あの、どこを見ているかわからない目で見つめられると、怖くなるんだ」


 鈴木先生は、大きく息を吸い込んで、そして吐き出した。口から出た白い水蒸気が、もくもくと宙を漂った。


「俺の父親方の親族は、叔母と従弟が両方統合失調症なんだ。母親方も、従弟の一人が統合失調症だ。大学在学中に、主剤置換をきっかけに悪性症候群になって、亡くなった。うちは、家族負因がバリバリなんだよ。俺は、自分が発症することを、はっきりと恐れている。どこからともなく、嫌な声が聞こえてくるなんて、考えただけで恐ろしい。でも、妹は実際に、この病気に罹っている。この病気を忌まわしく感じて恐れるなら、妹に対して失礼じゃないか。だから、妹に会うと、なんとなく負い目を感じるんだ。お前はわたしを受け入れているのか、って問われている気がして。面会は、はっきり言って憂鬱だ。憂鬱だけど、気がかりだし家族としての責任もあるから、毎週来る。毎週来るけど、毎週憂鬱だ」


 ふと見ると、鈴木先生は顔を少し伏せて、肩を震わせていた。

 わたしは、今この場で、自分が何を感じて、何を思っているのか、確認した。何かを言わなくてはと思い、その言葉は正直でなければならないと思ったからだ。

 

「生きて生活するのって、本当、大変ですよね。みんな、よく生きてるな、って心底思います。どの人間にも、多かれ少なかれ、悩みや影はあって。みんな、何を考えて、何に支えられて、生きているんだろう」

「山田は……山田は、何に支えられているんだ?」


 わたしは、しばし考えた。


「わかりませんね。大切な人や、面白いものはあるけど、それらがどの程度支えになっているのかな。自分の中には、まぎれもなく、空虚、みたいなスペースはありますからね。そこを直視しちゃうと、一気に持っていかれる気がするから、あまり見ないようにしている。こんなの、自分だけかなと思ってたけど、鈴木先生の話を聞いて、失礼ながら、安心しちゃいました。ああ、自分だけじゃないんだな、って。深淵を見て震えているのは、自分以外にもいる。同志って、身近にいるもんだな、心強いな、って」


 そして、わたしは立ち上がり、ホームの自動販売機で、缶コーヒーを二本買った。そのうちのひとつを、鈴木先生の前に差し出した。


「奢りますよ。同志のよしみでね」


 鈴木先生は顔を上げ、缶コーヒーを手に取った。すると、先生の表情は、またいつもの人を小ばかにしたような、いたずらっぽいものに戻った。


「缶コーヒー一本で癒されるほど、俺の心の傷は浅かないぜ」

「じゃあ、ハンバーグもつけますよ。ファミレスでよければ」

「後輩に奢られるのも癪だ。コーヒーの見返りに、昼飯をご馳走しよう」


 下り電車が、ゆったりと速度を緩め、近づいてきた。止まってドアが開くと、鈴木先生は立ち上がり、わたしたちは二人並んで、車両に入った。

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