夢子と亜斗夢と精神科

@ryumei

第1話 夢子の当直

 十二月五日の午後四時四十六分。

 わたしはバスの中で、窓から暗がりに呑まれつつある街を、見るともなく見ていた。

 バスが右折すると、フロントガラスの向こうから、築四十年の古びた三階建ての建物が見えてくる。

 A精神医療センター。

 わたしは、ここで週二回の当直のバイトに入っている。

 バスが緩慢に速度を落として、病院手前のバス停に停まった。わたしは降りて、裏門から病院の中に入っていった。

 ロッカー室で、ユニフォームに着替えて白衣に袖を通すと、わたしは二階に上がり、廊下を歩いた。廊下の電気が切れかかっていて、カチカチと点滅していた。

 わたしはノブを回し、医局のドアを開けた。

 医局のソファには、五期先輩の鈴木先生が、寝そべりながら書類を捲っていた。


「お疲れさまでーす」

「ああ、お疲れ」


 鈴木先生は、身を起こしてのびをした。


「残ってるの、先生一人ですか?」

「ああ。みんな定時であがっているな。というか、定時の十分前にタイムカード押してる。皆さま、ご家庭でも業務がおありだからな。特に、子供がいるところは。その点、独り身は気楽なもんさ。ソファでだらだらといくらでも残務処理できる」

「鈴木先生は、結婚しないんですか?」

「するもんか。俺は、この国の結婚制度に絶望しているんだ」


 鈴木先生が書類に目を通し、メモに何やら書き込む。


「なんの書類ですか?」

「鑑定書だよ。一昨日、簡易鑑定やったからな。こういうのは、公立病院にまずまわってくる。そしてうちの病院にくると、とりあえず俺のところに回ってくる。面倒だから断りたいが、院長からは『どうせ暇だろ?』って言われて、反論はできないから引き受ける」

「田辺院長、怖いですもんね。目が笑ってないっていうか」

「社会の暗部なり、いろいろ見過ぎちゃうと、あんな目になっちゃうんだよ」

「ところで、鑑定ってどんな事件ですか?」

「傷害事件だよ。面識のない他人をすれ違いざまにぶん殴った。被疑者は慢性期の統合失調症患者。書くことは決まっているし、被疑者もどうなるかだいたい見通しはついている。医療観察法病棟入院相当。でも、どこの医療観察法病棟もパンパンだから、たぶん、北関東のどっかの病院に送られる」


 鈴木先生は立ちあがり、書類を鞄の中に突っ込んだ。


「帰ろ」

「鑑定の書類って超個人情報じゃないですか。持って帰って大丈夫ですか?」

「でも、持って帰らないと終わるわけないじゃん。今日も夜九時から、ネット将棋のトーナメントがあるし。最近、二連敗してるから、ちょっと踏ん張らないといけない」


 鈴木先生は、小学生から高校生まで、本気でプロ棋士をめざしていた異色の精神科医師なのである。


「なにか申し送りないんですか?」

「特にないよ。第二病棟の福町さんが、心不全末期で、モニター付けてるけど、ずっと脈拍百四十で期外収縮連発してることくらいで」

「おおありじゃないですか」

「九十六歳だし、家族にも終末期の同意書はとれてる。搬送、蘇生はしなくていいことになってるから、お看取りになったら死亡診断書だけ書いておいて」

「わかりました」

「んじゃ、あとよろしく」


 そして、鈴木先生は鞄を肩にかけ、医局をあとにした。先生の猫背が、廊下の暗がりに消えていった。

 わたしはコーヒーを淹れて、ソファに座り、テレビをつけた。強盗、殺人、戦争、領土問題、全員眉唾といった人相の人間ばかりの選挙。ろくなニュースがなかった。

 わたしは、コーヒーのマグを手に持って、医局内を歩き、窓際で立ち止まった。

 上空には、まん丸い満月が、異様な明るさで、街を照らしていた。

 月って、あんなに大きかったっけ?

 胸ポケットのPHSが鳴った。

 わたしは取り出して、通話ボタンを押した。


「もしもし、夢子、あ、いや、山田です」

「もしもし、山田先生?早速警察から連絡がきてます」

「早速ですか。どんな内容ですか」

「クリニック通院してる、三十七歳男性で。うつ病なのかな?家の中で、母親と口論して、死ぬ、って叫んで刃物を持ち出して、母親が警察通報しました。受けていいですか?」

「受けたくないけど受けます」

「わかりました。三十分後くらに到着すると思います」


 通話ボタンを切る。

 やれやれと思うが、この時間に来るなら、満床になって夜中は寝られるかもしれない。

 わたしは、警察車両が来るまで、しばし月を眺めることにする。

 自然を鑑賞する感受性など持ち合わせていないが、月だけは好きなのだ。

 月の仄かな灯りは、わたしの魂を少しだけ浄化してくれるような気がする。

 わたしの、汚れちまった魂を。


 

 「警察車両がきました」

 

 連絡を受けて、わたしは一階の救急室に向かった。

 外に通ずるドアを開けると、左右の二人の警察官に抑えられている男性が、叫びながら身をよじっていた。

 その後ろから、別の車両に乗っていた、小柄なおばあちゃんが歩いてきた。たぶん、男性の母親なのだろう。

 いざ診察となると、男性は一転、言葉少なになり、うつむき加減で小声でぼそぼそ喋った。語られたのは、ここ数日、パートナーから一方的に別れを切り出されたこと、消沈して仕事をしていたら、ミスを連発して上司にこっぴどくなじられたこと、以来、睡眠も食事も全然とれないことなどであった。左手前腕には、ためらいがちに自傷したと思われる切創が複数みられた。

 反応性の要素も大きいし、必ずしも夜間緊急の入院適応とは思わなかったが、母は絶対入院を、自宅では危なくて見ていられないと主張した。警察は、いつものように、この夜間をトラブルなく過ごすために、帰宅という選択肢はあり得ない、という雰囲気を醸していた。


「少しお休みしましょう。このタイミングで入院環境で安静を確保することが、最善と考えるので。最初は個室で過ごしてもらいますが、服薬もしていただいて、食事も睡眠もとれて落ち着かれていたら、徐々に開放的な状況にします」


 男性は、厳密にはうつ病なのかどうかも疑わしいと思った。明日、かかりつけから診療情報を取り寄せなければならない。それは引き継いだ主治医にやってもらうが。

 反応性の衝動制御困難だから、必ずしも精神科病状と言い切れるわけでもないと思ったが、家族と国家権力というのを前にすると、クリアカットに病状判断だけで入院の適否が決まらない。

 ポリスパワー、という言葉がよぎる。

 本人の広い意味での利益を守る(実際あのままの状態が続くなら、本人の社会的不利益は高い確率で起こるであろうし)という目的もないではないが、やはり保安的要素が拭えない、というのが正直な印象である。

 非自発入院を告知するたびに、自分は治療者以前に、社会のシステムの実行者なのだろうと自覚する。

 入院の処理を終えると、警察はさっさと帰っていった。

 母親は、病院の相談員の指示のもと、入院の同意書にサインしていた。

 わたしは再び医局に戻り、冷めきったコーヒーを一口飲んで、月を見上げた。

 あらゆることと無関係に、月は淡く夜を照らす。


 

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