中編

 眉をひそめる僕の前で、恋夏は顔をうつむかせたままだ。

「お兄ちゃん。兄妹っていいシステムだよね。年が近ければなおさら、同じ学校に通えて急な用事で物の貸し借りとかできるし、身内が傍にいるっていうそれだけでほっとするよね」

「そうだな」

「でも、その身近さももうすぐ終わりが来るんだね」

 瞬間、僕は理解した。恋夏も憎たらしい一面があるけれどかわいい妹なのだ。

 僕は立ち上がりかけた体を、ゆっくりと椅子に戻した。

 そして努めて優しい声で語りかけた。

「恋夏は寂しがっているのか」

 ぱっと顔を上げてジトっと見てくる恋夏。

「違いますけど? お兄ちゃんなんかどこへなりとも行けばいいと思ってますけど?」

「え?」

「は?」

 リビングに流れる気まずい空気。

 寂しくてお兄ちゃんから離れたくない訳ではなかったらしい。

 恋夏はコーヒーの入ったカップに指で触れて、すぐ離した。

「お兄ちゃんの都合のいい妄想には恐れ入るよ。シスコンとかキモいからやめてよね」

「恋夏さん、急に圧が強くない……?」

「そんなことないよ」

 わりかし楽しく話していたはずなのに、なぜか険悪なムードになっていた。恋夏は機嫌を損ねているようだ。

「そ、そういえば、恋夏はどうしてこんな時間まで起きてるんだよ」

「さっきまでカレとずっと通話してたんだ」

 そう言いながら恋夏はよそ見して髪をいじっている。

「相手がいるのか」

「嘘だけど」

「だろうと思った」

 恋夏はわかりやすい子で、嘘をついたり言いづらいことを言うときにはだいたい目を背ける。

 ただし、それを見抜くことがいつも正解とは言えない。

 僕は考えなしに返答してから、彼氏いないぼっち指摘をしているという失言の可能性に思いあたって、体が少しこわばった。

 しかし恋夏は、

「これが最後のクリスマスだから」

 とつぶやくにとどまった。

 我が妹は不治の病にでもかかったのかと心配になった。



 恋夏は少しの間、頬杖をついて目を閉じていた。

 声をかけることはしなかった。

 妙に印象を残す『最後のクリスマス』という言葉が引っ掛かっていたからだ。

 本当に重病に侵されているのならさすがに両親から僕にも話があるだろうし、まさか身を投げたいとか入水とか……そういう意思が芽生えているのだろうか。

 それで、暗に僕に助けを求めているのかもしれない。

 クリスマスという特別な日の夜に、つらい気持ちで眠れないままついもらしてしまった心の声なのかもしれない。

 物憂げな様子の恋夏を、気遣えばいいのか普段通りに接すればいいのか考えながら、僕は飲める熱さになったコーヒーを口に含んだ。

 恋夏は目を閉じたままで、「ふうぅぅぅ……」と長い息を吐いた。頼りなさげな両腕を真っ直ぐ前に伸ばして、椅子に背を預けるとぐっと伸びをした。

 目をぱちぱちさせて、再びカップに手を伸ばすと、指で触れてから離した。

「まだ熱いのか? コーヒー」

「まだ」

「早く冷めるといいな」

「……」

 恋夏は答えなかった。

 僕のコーヒーは残り少ない。これをすべて飲み終わったら、僕は自分の部屋に戻って眠るつもりだった。

 カップをテーブルに置く。

 目の前で口をとがらせて自身のカップを見ている恋夏を、僕は真剣に見つめた。

「恋夏」

「……なに?」

「僕は何があっても恋夏のことが好きだからな」

「……、はぁ!?」

「だから思い詰めて無茶をするんじゃないぞ。どんなことでも話してくれていいからな」

 恋夏は目に見えて慌てている。

「お兄ちゃん、何かものすごい勘違いしてない!?」

「いいって、取り繕わなくて。僕は恋夏のこと、ちゃんと知っているし大切に思っているからな」

「絶対なんにも知ってないやつだ!」

「だから、恋夏も自分を大切にしろよ」

「話を聞け! この、早とちりダメお兄ちゃん!」

 真っ赤になった恋夏が、両手でテーブルを叩こうとして、寸前でとめた。

 大きな音を立てたら両親が気づいて起きてきてしまうかもしれないからだ。

 恋夏の照れているみたいな反応が、僕の予想していたものと違っていて内心戸惑っていた。勘違い。早とちり。恋夏のその言葉が本当なら、赤面ものの恥ずかしい発言をしたことになってしまう。

 恋夏が頬を染めたまま上目遣いを向けてきた。

「あのさ、一応聞くけど、お兄ちゃんはさっきから何を言ってるの?」

「恋夏は、世を儚んでいるんだと思って」

「ぜんぜん違うけど。それも完全に的外れだけど」

「そんな……それじゃ本当に僕は、無意味に恥ずかしいセリフを言っただけになるじゃないか」

「その通りだよ。正直、何言ってんだこいつって気持ちだった」

 恋夏の冷えた声音が、僕の心を突き刺した。

 完璧なまでに間違っていたらしい。

 あまりの羞恥心に僕はいたたまれなくて、テーブルの上で頭を抱えた。

 恋夏のくすくすと楽しそうに笑う声が聞こえてきた。

「お兄ちゃんは、馬鹿だ」

「う、うぅ」

「お兄ちゃんは馬鹿だ! 昔も今も、こんなだっさい失態ばかりで、おろかなんだ! 何だかすごく嬉しい」

 大切だと伝えたばかりの妹から、笑われてけなされて屈辱で泣きそうだった。

「ね、お兄ちゃん、こっち見て?」

「なんだよ、もうこれ以上馬鹿にされたら、僕は人目をはばからずに大泣きするから」

「あのさ、お兄ちゃんの馬鹿さに、ものすごくほっとしたんだ」

 その澄んだ言葉に、不思議な気持ちで僕は顔を上げた。

「モヤモヤしていたものが全部吹き飛んだなぁ……ああ、最高に嬉しいな」

 恋夏は背負っていた重荷を降ろせたような、すっきりした微笑みを浮かべていた。

 どうやら僕が馬鹿なことが、恋夏の何かの琴線に触れたみたいだ。

 顔の火照りは収まらないけれど、とにかくよかったということにするしかない。

 僕は残り少ないコーヒーを飲み干す。

「あ、そろそろわたしのコーヒーも飲みどきかな。お兄ちゃん、ありがとね。こんなクリスマスの夜に、わたしに付き合ってくれて」

 恋夏はカップを持って中身を一気に飲んだ。そしてすくっと立ち上がって、無邪気なにこにこ顔で僕に、「お先に、おやすみ!」と手を小さく振った。

「おやすみ。あまり夜更かしはするなよ」

「うん。お兄ちゃんも、受験勉強頑張ってね」

「もちろん……って、恋夏、さっきと言っていること違わない?」

「ふふ。最後のクリスマスじゃないんだってわかったから、いいの!」


 恋夏は軽快な歩みでリビングを出た。階段をテンポよく上る足音が、次第に遠ざかっていった。

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