クリスマス限定スペシャルブレンド

さなこばと

前編

 いずれ終わりが来ることを知っていても、それで今が楽になるなんてことはない。

 机に広げた問題集の細かな文章に目をこらしながら、傍らのノートもあわせて書き込みを続けていたけれど、そろそろ集中も限界が近づいていた。

 僕はペンを放り、椅子の背もたれに寄りかかった。

 そのままの勢いで天を仰ぐ。

 この苦行も、あと二ヶ月後の二次試験が終われば区切りとなる、はずだ。

 運命の試験結果次第で。

 首をめぐらせて壁に掛けた時計を見る。

 すでに日付は変わり、午前一時を過ぎていた。

 両親も妹も寝入った家の中も、出歩く人もいない闇に沈んだ外も、等しく静かな真夜中すぎ。

 この時間は特別な空気が浸透しているようで嫌いではなかった。

 ただ、夜遅くまでの勉強は唾棄すべき思いだったし、勉強漬けの毎日は本当に息が詰まりそうで、全てを放り出したい気持ちも日に日に高まっていた。

 ため息をつくと、僕は立ち上がった。

 凝り固まった肩を回してほぐしつつ、自室のドアノブを握り、静寂を壊さないように気をつけて開けた。

 リビングへ行って晩ご飯の残りのジュースでも飲もうと思ったのだ。

 昨日は十二月二十四日。

 クリスマスだからと母さんが豪華な手料理をふるまい、買ってきたコーラのペットボトルもテーブルに一緒に並んでいた。

 ささやかだけど賑やかなパーティーだった。

 食いしん坊な妹の恋夏が浴びるように飲むのを見ていたけれど、さすがに全部は飲み干していないと踏んでいた。

 僕は暗い廊下を忍び足で歩き、少し急な階段を慎重に下りていく。

 そこからすぐ近くの、リビングへと続くドアをそおっと開けた。

 手探りで壁にある電気のスイッチを押す。

 明かりがついて――僕は目撃した。

 パジャマ姿の恋夏が、冷蔵庫の前で腰に手を当ててペットボトルを握りしめ、あおるように飲んでいる姿を。


 恋夏は目を丸くしてこちらを見たあと、コーラがのどに絡んだらしく、そのままむせ始めた。

 およそ年頃の女の子が見せる姿ではないなと思ったけれど、僕としても予想外のことにぎょっとしていてとっさに何も言えなかった。

 恋夏がせき込むだけの時間が無為に過ぎて。

 クリスマスを迎えたばかりの真夜中のリビングで、僕たち二人はしばし沈黙のまま見つめ合った。



「お兄ちゃん、今何時だと思ってるの!?」

「それはこっちのセリフだ! 深夜一時にこっそりコーラをがぶ飲みしていやがって! 僕が勉強の終わりに飲もうと思って楽しみにしていたのに……!」

「頑張った自分へのご褒美ってやつ? お兄ちゃん、女子なの?」

「むしろ女子っぽくないのは恋夏だろうが! 飲みっぷりが豪快なんだよ!」

「い、いいじゃん別に! 誰にも見られていないんだし!」

「僕が見ただろ!」

「お兄ちゃんは対象外でしょ!」

 二人して硬直が解けて。

 冷蔵庫の前でぐぐぐっとにらみ合う僕と恋夏だった。

 言い出したら文句は尽きない、けれど、

「……ここで騒いでいると母さんか父さんが起きてくるかもしれない。恋夏、口を閉じろ」

「言い方はむかつくけど、わかった」

 むっとしたままの恋夏はコーラの残り僅かなペットボトルをテーブルに置いた。

 僕がリビングの椅子を音をたてないようにひいて座ると、恋夏も向かいの椅子に座った。

 こうして妹と正面から向かい合うのは久しぶりだ。

 僕が受験生になってからは、勉強に忙しくて話す機会も減っていた。

 今年、高校二年生になった恋夏。

 その年齢に似合わない暖色の可愛らしいパジャマを着ている。

「あ、お兄ちゃん、コーラ飲む? のどがかわいてたんじゃない?」

 にこにこ顔の恋夏が残り一センチくらいのペットボトルコーラを押してきた。

 煽っているのだろうか……。

「もういい」

「ふーん、せっかくの好意なのに、いいのかなぁ……? 勉強で頭を使ってさ、糖分が足りなくなってるとわたしは思うよ?」

 そう言って、恋夏はテーブルに両肘をついて上目遣いで見つめてくる。

 完全に馬鹿にしてきている。

 僕の妹はいつの間にこんなにいやらしい奴になったんだ。

「恋夏、飲み口からそのまま飲んでただろ」

「そんなこと気にするんだぁ。妹相手に意識してるのかわいいね」

 恋夏はくすくすと笑い出した。

「ちげーよ! からかうな!」

「ほんとのことを言っただけなんだけど?」

 目を細めて見つめてくる恋夏を振り切り、僕は静かに立ち上がった。

「何か飲む。もう夜も遅いし恋夏は早く寝ろ」

「あ、じゃあわたしも飲む!」

 恋夏もすかさず立った。

 人が飲もうとしていたコーラを奪っておきながら、なかなかに図々しい。

 僕が冷蔵庫のドアを開けてめぼしい飲み物を選んでいる傍で、恋夏はケトルのスイッチを入れてお湯を沸かしていた。

 気にしないことにして、僕はジャスミン茶のペットボトルを取り出した。台所へ行って自分のカップを探して手を伸ばす――と、よそから伸びてきた恋夏の手と触れ合った。

「僕のカップで何をする気だ」

「温かい飲み物を提供してあげようかなって」

 カップを取ろうとする僕の手を、恋夏は自らの手で押し戻そうとしてくる。

「ほら、寒い夜だし、妹の手ずからの温まる飲み物を飲みたいでしょ」

「あいにくだけど、僕はよく眠れるようにジャスミン茶を飲むんだ」

「何言ってるの? 楽しい夜はこれからなんだよ」

 恋夏は素早い動きで僕のカップを手中に収める。そして、もう一方の手に持つのは――インスタントコーヒーの瓶だ。

「おい、やめ、」

「はーい、ザーッと」

 カップに入る大量のコーヒーの粉。

 僕がとめる声もむなしく、恋夏は続いてカップにお湯を注いでいく。

 またたく間に、湯気が白く浮かび上がるコーヒーが完成していた。

「クリスマス限定スペシャルブレンドだよ。ふふ、たくさんお飲み」

 恋夏は一仕事終えてしたり顔だった。

 僕は無言で恋夏のカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。

 途端に恋夏はまた上目遣いだ。

「……あの、わたし、コーヒーは苦くて嫌いなんだけど?」

「楽しい夜なんだろ? 目が覚めたほうがいいんじゃないか?」

「お兄ちゃんって性格悪いよね!」

「恋夏には言われたくないんだけど!?」


 僕と恋夏の前には、クリスマス限定スペシャルブレンドという誇大広告のついた普通のホットコーヒーが並んでいた。

 沸かしたてのお湯で作ったので、熱くてすぐには飲めない。

 僕が冷凍庫から氷を取りに行こうと立ち上がりかけたところで、うつむく恋夏はぽつりと言った。

「お兄ちゃん、大学受験するんだよね」

「まあな」

「そっか」

 恋夏はコーヒーをじっと見つめていた。


「わたしは、お兄ちゃんが大学に受からなければいいと思う」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る