中編 婚約破棄裁判
一週間後の夕方、婚約破棄会場の外に使用中の札がこっそりとかけられた。
傍聴席にはカインとその婚約者のふたりだけ。校舎の端にあるため通りがかりに見に来る生徒は他にいなかった――誰も口外しなかったから。人目を集めたい場合には、たいてい本人が宣伝するのだ。
「いやあ、今になって婚約破棄を言い出すと思わなかったよ、テレンス?」
オリアーナは最奥のまるで裁判官席のような教卓の向こうから、教室中央に立つテレンスに声をかける。命令を待つ騎士のような風情、こんな場所でも絵になる。
テレンスから1メートルは距離を置いてミルドレッドも立っていたが、彼女は平凡過ぎて距離も遠すぎて、他人にしか見えないなと冷静に考えた。
「……」
「返事は、テレンス?」
ミルドレッドは、きっとオリアーナの揶揄では表情を変えないだろうと思っていたが、彼は意外にも柳眉をひそめた。
「もう互いに子供ではない。妻となる人以外にその名で呼ばれたくはない」
「だってさ、ミーちゃん」
「その名で彼女を呼ぶな。……全ての生徒は紳士淑女として扱うべきだ、と校則にある」
彼の言い分では婚約者も単なる女生徒のひとりの扱いだ。淑女らしい扱いをしてもらったかはなはだ疑問だけど――とミルドレッドは思った。が、一理ある。
「確かに立会人が馴れ馴れしいのは、風紀委員会への信用を損ないます」
「先輩、立会人が煽らないでください」
ミルドレッドと、傍聴席のカインから指摘が飛ぶと、オリアーナは「ついつい、ごめんね」と笑う。
「……じゃあ、二人とも席について」
オリアーナの言葉で二人は背を向け合って反対方向に動く。
立っていた中央のスペースを挟んで両側に長机が用意されており、二人はそれを回り込んで向かい合った。
テレンスの方は学院の制服をピシッと着こなし、騎士見習いらしい無駄のない動きには威厳がある。
が、ミルドレッドも今日は負けていない。手に、気合を入れるための扇を持っている。少々重いのは、風紀委員会用の骨が鉄でできた特別製だからだ。それを開くと口元を隠した。
「……双方、名乗って」
「テレンス・エインズワース、高等部二年」
「高等部二年のミルドレッド・ファラーと申します。風紀員会で副委員長をしております」
双方を一瞥してから、オリアーナはテレンスを見た。
「婚約破棄を申し出たのはテレンス・エインズワースさんで間違いないね」
「……ああ」
「ああ、でなくはい、と言ってもらおうかな、エインズワースさん」
「……はい」
「うん、いいね。……まずは婚約破棄をした理由を書類に記載することになっている。聞かせて欲しい」
「婚約破棄したいからだ」
無表情の即答。ミルドレッドも、傍聴席のカインとその可愛らしい婚約者も秒で無表情になる。
そしてオリアーナも、即無表情で言葉を返した。
「理由になってないなあ」
「婚約破棄が目的だ」
「知ってると思うけど……婚約は契約、責任が発生するからね? 一方的な要求なら慰謝料も。相手や両家に迷惑かけてまで婚約破棄したいほどの理由が、普通はあるもんなんだよ」
「分かっている……ます」
テレンスは無表情のまま言い直す。が、
「そこまでして破棄したいとは、不本意な婚約だったということですね」
ミルドレッドが聞けば、決意を込めて深く頷いた。
「……その通りだ」
「分かりました。では婚約破棄の際に求める条件があれば紙に書いて提示してください。まずそれから検討します」
「話し合いは」
「まどろっこしい言葉のやり取りは不要です。今更何を期待しろと。あくまで私は第三者を通して風紀を守るために受け入れただけです」
婚約者の体裁を取り繕う必要のなくなったミルドレッドが言い放てば、何故かテレンスは慌てたように口ごもった。
「い……いや、今日わたしが来たのは、第三者を挟んだ上で話し合いをするつもりだからだ」
「ここは条件を整理する場所です」
「君がここを希望したので同意したまでだ。……その、もっと話し合いを」
まるで彼女が早とちりしたみたいな言い方をする――とミルドレッドは眉をひそめた。テレンスにとっては実際そうなのかもしれないが、そもそも話し合いなどしてこなかったのだから責められるのはお門違いだ。
「あら、エインズワース様ってお話しできるんですね」
「む。……それは、口が付いているからな」
「あまりにお話しなさらないので」
「口の筋肉は確かに衰えがちだが、鍛錬の時は掛け声も出す。……こういった場では仕事と思えば君にも話すことができる」
「仕事」
ミルドレッドは言い直して、にっこり笑った。
ついさっき向き合うまではすり減った感情を無にできる、と思っていたが、だんだん腹が立ってきた。
「そんなにお嫌でしたか、気付かず済みません――と言いたいところですが、でしたらもっと早く仰ってくださればいいのに」
「早く、とは。……婚約破棄すれば良いということに思い至ったのは今年に入ってからだ。……君こそ先ほどから雰囲気が違う」
あのねえ、とオリアーナが口を挟んだ。
「ミルドレッド――こほん、ファラーさんが婚約者に放置されて退屈だろうと、風紀委員会に誘ったのは私だよ。生徒間で何かあったときにきっぱり言えない子なら誘わない」
口元を扇で隠しながら立つミルドレッドとは逆に、テレンスは長机に手を置いて何かためらうようだった。
「……そうか」
「それで……今年に入って何があったの? 他の人が婚約破棄をしているから? 小説にでも影響された?」
「多いから目立たないだろうという気持ちは多少あったが、それは関係ない」
「婚約者が嫌いになる何かがあった?」
テレンスはきっぱりと首を振ってから傍聴席のカインに目を向けた。
「ありません。ただ、そこの後輩とはずいぶん親しげに話したのを見たのが、大きなきっかけではありましたが――」
「――異議があります!」
ミルドレッドは扇をパシン、と左手に叩きつけて畳むと、びしっと扇の先をテレンスに向けて突き付けた。
「後輩は部屋で二人きりになることはほぼありません。委員の証言者はいくらでも得られます。その発言は私が浮気しているような印象操作になっています」
「む」
「また彼は見ての通り婚約者と大変仲が良く、二人の仲を割くような不用意な発言は慎んでください」
場の気迫に押されたのか、カインの婚約者は彼の腕を取っている。幼馴染の気安さと信頼ゆえだろう。どこからどう見ても仲の良さしか感じられない。
「しかしカイン君……などと。わたしは婚約者として女子生徒とも君とも適切な距離を保っているが、君自身はそうでもない」
「仲の良い後輩にファーストネームで呼びかけることは学院では一般的な行為です、それをもって浮気とは言えません」
「わたしは浮気をしているなどとは言っていない。当然だ、君に他の男性の影がないことは知っている」
オリアーナが口を挟む。
「自分が潔癖だからって他人にそれを無言で強いるもんじゃない。
中等部に入ってからのその態度は、婚約者と話したり近づいたりしちゃいけない呪いでもかけられてたってんじゃなきゃ普通納得できないでしょ。
もし婚約破棄をしたいのなら『お願い』するしかないよ、エインズワースさん」
「……む、もしそうなら、自分の勝手で彼女を傷つけて済まないと謝罪を……」
「謝罪は不要です」
ミルドレッドはきっぱりと言ってから、それよりも彼が思ったよりも饒舌であることに驚いていた。
「……逆に君は、わたしの浮気を疑わないのか」
「あなたの行動をおおよそ教えていただきましたが、やはり全部鍛錬と勉学、それに何故か第三王子からの呼び出しに費されていました。過労死するかと思う程に。ですので仕事に生きたいのだと判断しました。
そうですね、婚約者に無駄な時間を割きたくないでしょうね」
トン、と扇の先で机を軽く突いてテレンスを見据える。獲物を追い詰めるような目だった。
「それに潔癖さが原因で、誰かと婚約すること自体が苦痛なのですね」
「違う、聞いてくれ。つまり――その――もう一度婚約するためには、破棄をしなければならないだろう」
何故か顔を真っ赤にしているテレンスに、ミルドレッドは首を振った。
「それは勘違いを失礼しました。意外でしたが、ついに好意を抱く方ができたのですね。
どなたがお相手か知りませんが、婚約などやはり8歳程度、ほぼ初対面の相手とするものではありませんね。
学院の影響もあり、今後は婚約年齢の上昇がみられるかと思いますが……立会人、条件の記入用紙とペンをエインズワース様にお願いします」
ミルドレッドがそう、話を進めようとした時だった。
「――待ってくれ」
「何をでしょうか」
これ以上話し合う必要はないと、冷たい視線を向けるミルドレッドを、テレンスは真っすぐに見つめてくる。顔がいいとこういう時は得だな、とミルドレッドは思った。場の注目を引ける。
「……異議がある。君に初めて会ったのは、3歳の時だった」
だが、思わぬところに異議を申し立てされて、ミルドレッドは不本意ながら間抜けな顔になってしまった。
さっぱり覚えていないし、割と今どうでもいい情報なのではと思ったのだ。
「何かのついでで王宮に連れて行かれ、庭園で子供たちだけで遊ばされていた時だ。君は一際活発だったな。わたしは鬼ごっこで転んでしまい、負け、つい涙がこぼれてしまったのだ。騎士にあるまじき失態を」
「……3歳の幼児なら失態という程でも……」
「いや、父にひどく叱られたんだ」
「……そうですか」
ミルドレッドが思い返せば、テレンスの父親ならありうる話だった。
侯爵にして一時は騎士団を率いた団長であり、そしていわゆる熊のような大男だった。母親似のテレンスとは似ても似つかない。
部下の騎士たちのことは愛情をこめて厳しく指導したと有名だったらしいし、両家揃ったときには息子たちに対しても同じ雰囲気は感じられた。
「その時君は、敗北したわたしに慈悲を――忠誠を誓う騎士の勝利に淑女が与える布を授けてくれた」
「……全く記憶にありません」
ミルドレッドがちらりとオリアーナを見ると、その場にいたのだろう、彼女は頷いた。
「そういえば、一番近くにいたミルドレッドがハンカチ貸してたの見た。めちゃくちゃ泣いてたもん、あれ無視できる方がすごいよ」
「では、持ち逃げ?」
「……忘れているのは仕方ないが、ちゃんと君と、一緒にいた侍女の許可は貰ったぞ」
ごそごそと制服の胸ポケットから取り出したものを見てミルドレッドは目を見開く。
それは、その当時気に入っていた可愛いクマの刺繍が入った、小さなくたびれたハンカチだった。テレンスの両手より小さい。
「我が家の紋章でもあるクマの姿を見て、偶然とはとても思えなかった。わたしはその時、君に忠誠を誓った――優しい君を守れるような、強い騎士になると」
「3歳で一生を決めないでください、こわい」
「私の目指す騎士像は父であり、愛読書は騎士物語の絵本だった。
毎朝毎晩、先祖代々の騎士物語を父に語られて、母には父の素晴らしい武勇伝を聞かされていた。そして騎士たるもの常に清廉潔白で、忠誠を捧げる女性を心の中に持っていなければならない、と」
急に昔話を語り始めたテレンスに、その場の聴衆はここまでこじれた原因にもう察しがつき始めていた。
「婚約者であろうとも無暗に女性と接触するものではないと……だから50センチ以内に入らないように距離を取っていた。接触の可能性があるパーティーも避けていた」
「……会話もしていませんが……?」
「き……緊張して会話にならなかったんだ! 子供の頃はさほど気にしてなかったが、君はどんどん女性らしくなるし……」
そう言えばテレンスの頬が更に赤く染まるが、ミルドレッドのテンションは逆に急下降していくばかりだった。
「……私は今、あなたに対するイメージがガラガラと崩れている最中です」
「しかもわたしは今、第三王子の護衛だの影武者だのの一人として目を付けられたらしく、学生なのに急な任務に呼ばれることがある。……人一倍危険な仕事だから、人一倍鍛えなければ死んでしまって――君とも死に別れだ」
「それで鍛錬を増やしていたんですね」
「……しかし最近、この態度は間違ではないかと、疑いを抱くようになってきた。
というのも、浮ついたことはするなと言っていた父も、実は学生時代から母に熱烈なプロポーズを何度もしていたのだと、兄から聞いて……父への幻想が揺らいでいった」
あの熊のような侯爵が何と言ってプロポーズをしたのか、彼女にも想像が付かない。
ただ侯爵は確かに、年を重ねても美しさが増す侯爵夫人に対し、崇拝する淑女に仕える騎士のような振る舞いを良くしていたし、オシドリ夫婦であることは社交会ではよく知られている事実だった。
「君とは次第に会話もできなくなるし、今年に入ってからは君は後輩と仲良く話している。
――とうとう友人に相談すると、勧められたんだ。最近女子生徒に流行だという『男爵令嬢のどきどき成り上がり! 婚約破棄は慰謝料を添えて』を」
真剣な顔から飛び出た似つかわしくないその書名に、やっと来たな、とミルドレッドは思った。
昨日一巻だけは予習にと読んだのだが、流行だけあってなかなか面白かった。もし彼が書かれている通りに実行すれば、館のひとつでもプレゼントしてくるだろう、という点を除けば。
「そして第3巻『氷の騎士様の誓いは、永久凍土のように』には最近の新たな騎士像も描かれていた。騎士の忠誠は愛とは違う、と。女性には伝わらない、笑顔で愛を自ら告げる必要があると――」
「全タイトル覚えてるんですか、私読んでないですけど」
「だから婚約を破棄してくれ、ミルドレッド嬢」
「はい、今すぐに」
だから、という言葉と婚約破棄が全く繋がっていない。
分からない。さっぱり分からないが、いい加減疲れていたミルドレッドは頷くとオリアーナからテレンスへ手続き書類を渡してもらう。
ちゃんと両者の条件や立会人のサイン欄があるものだ。
「私、慰謝料はいりません。今後なるべく接触したくないのでなかったことにしましょう、新たにできた好きな方には、素直になれるといいですね」
ミルドレッドは扇を机の上に置くと、そっと息を吐き、テレンスに向けて軽く頭を下げた。
「それに……よく考えれば、なあなあにしてきた私にも非があります。親の意向と、子爵家と侯爵家との力関係だけを気にしていました。本心も話さず、あなたの本心を聞くことにためらいがありました」
婚約者がいない令嬢など他にもいるのに、みじめな令嬢として扱われたり、そんな自分が風紀委員として信用を失うのでは、風紀委員会に迷惑をかけるかもなんて思ってもいた。彼に語ることなく。
「……それに、自分が無価値なようにずっと思って……いました。これ以上無価値だと思い知らされるのは嫌だったのです」
「……いやミルドレッド嬢、申し訳ない。そんなに傷ついているとは……」
「言っておきますが、恋心ではありません。エインズワース様でなくても、誰が相手でも同じです」
「……」
「ただ、本当に。そのままにしてここまで来てしまったのは私にも確かに、非があります。ひどい思い込みでした」
オリアーナが首を振った。
「いや、ミルドレッドを放置しておいて素直になれないとかどうなのって思うよ」
「まあ、話しかけても応じてもらえなかったら頑張る気も普通なくなりますよね」
「学習性無力感っていうんだよ」
「そう、それです。……では条件を決めましょう」
ミルドレッドの視線を受け、オリアーナがテレンスにペンを取るよう促した時。
「――まだ大いなる誤解をしている。ミルドレッド嬢」
「……はい?」
テレンスの決意を秘めた声に顔を向けると、何故かもじもじと俯いている。正直似合っていないとミルドレッドは思ったが、それを指摘するほどには残酷な感性は持っていなかった。
「……その……3歳以降の話だ。あれからオリアーナ嬢のお茶会で、何度か見かけたんだ。
野茨の合間でも駆け回る君が可愛らしいと話したら、浮かれた両親が勝手に君の両親に婚約を申し込んだんだ。今になって考えれば、侯爵家からの申し出を子爵家は断りにくかっただろうに」
「お気遣いどうもありがとうございます。次はご自身で婚約できるよう頑張ってくださいね」
「だから、違う……っ!」
手を机に突き前傾姿勢になるテレンスに、ミルドレッドはしつこいな、という顔をあからさまにした。ポーズではなく、本心からそう思っている。
「何が違うんですか」
「だから、婚約するために破棄したかったんだ」
「だから今、婚約破棄をしますよ?」
「話すのに緊張していたと言っただろう。
つまり、君と婚約するために、政略結婚でなくもう一度婚約を申し込むために。政略など関係なく、君を愛しているのだと、一生愛し抜く許しが欲しい。
――ミルドレッド嬢、わたしは君が好きだ! 今すぐ婚約して欲しい」
会場に響き渡る告白。
残響が消え去った後、会場に静寂が満ちた。
ミルドレッドは耳を疑って、傍聴席を見た。カインと婚約者も呆然としている。
「え、……嫌です」
ミルドレッドは淡々と、平常心よりも冷えた心で、ゆるく首を振る。
「何故」
「人前でサプライズのプロポーズとか私の趣味じゃありません。絶対無理」
「し、しかし君を目の前にすると緊張してしまって二人では話せない」
「そんなの知りません。さっきからそちらの都合ばかり」
「……ぐっ」
息を詰めるテレンスは騎士というより、もう中学生くらいの情緒の少年に見えた。
オリアーナは肩を竦め、立会人として口を開く。
「ねえエインズワースさん、分かったでしょう。あなたはファラーさんも身分差の圧を受けていたってことも、実は割ときっぱり言う性格なことも知らなかった。放置して傷つけていたこともね」
次に彼女はミルドレッドの方を見やり、
「――で、ファラーさんも、政略結婚だからってずっと猫を被ってたし、エインズワースさんがどんな人だったか、やっぱり良く知らなかった。
経緯もあったし自己評価が低くなってるのは分かるけど、これだけ真っ赤なの見たら少しは察しても良かったと思うよ」
「……そうだな」
「……はい」
オリアーナは立会人らしく、先輩らしくいかめしく頷く。少々わざとらしかったが。
「ここはね、本来話し合いの場所なんだよ。話し合いっていうのは、お互いに妥協点を見つけるってこと――少しでもより良い方向に行くためのね。
話し合いは1回で決まるわけじゃないし、何回でもしていい」
オリアーナの言葉の余韻がかき消えてしまう前に、テレンスは軽く息を吐くとミルドレッドを見やった。そこにはもう羞恥も執着も残っていない。
見返すミルドレッドはそこで、ようやくまともに、同じような平常心で彼を見られた気がした。
「……いや。婚約はやはり破棄しよう。それでいいだろうか」
「はい」
淡々と尋ねられ、淡々と返す。
さらさらと、書類にテレンスは名前だけをサインしてしまった。
条件のところには何も書かれていない。
「……これは」
「好きな条件を入れるといい」
「軽んじられているようで最悪な気分です」
「……そこは君を信じている」
「私のことを何も知らないのに?」
「遠くから見ていた」
はっとしてミルドレッドがオリアーナを見ると、呆れたように頷いた。
「……何かあるとずっと見つめてたんだよ。割と不気味だった、気付かなかった?」
「気付きませんでした。視界の端に入っても鹿のつもりで気にしないようにしていたので。……そうですね、これから気を付けます」
「いや……こちらも話しかければ済んだことだ。婚約者でも二人きりで結婚前の男女が話すのは良くないだろうと、勝手に決めていた」
ミルドレッドはその言葉に、ペンを持ったまましばらく迷っていたが、結局条件には何も書かずにサインして書類をオリアーナに渡してから、
「エインズワース様は、ご両親のご意向は宜しいのですか。あなたのお気持ちを汲んで子爵家などと縁を結ぼうとしたのに」
「いや、君の子爵家の領地は、交通と商売の面で、かなりエインズワースにもメリットがもたらされるはずだったから、気にしなくていい」
それはもっと悪いのではないかな、とミルドレッドは思うが、テレンスは損得など気にしていないようだった。
「ただ今までわたしは、兄のためにも家のためにも、立派な騎士である必要があった。父を尊敬していた――が、よく考えれば子の前でも母といちゃいちゃしていたな。あんな男、騎士としてどうかと思う」
「は、反抗期。……いえ、失礼しました」
「反抗期でもいい」
テレンスがつい漏れてしまった無礼な感想にごく真面目に返したので、ミルドレッドはつい笑ってしまった。
しかしこの堅物――いやかなりズレている男が、婚約破棄をしようと自分で思い付いて実行したのだ。変わろうとは思っていたのだろう。
少なくとも、今日は数年分一気に話している。
「どうも君に思うように話してもらった方が、自分がどれだけズレているのか分かっていいと思う。……侯爵家の人間だからと周囲が遠慮しすぎる」
そう言った目元に戸惑いが見えて、ミルドレッドは初めてこの人が本当は単に孤独なまでにストイック過ぎたのだろうな、と思った。
そうしたのは自分もだ――人間関係は0-100で割り切れるものではない。
「……分かりました。最後に、私もあなたの言葉が本当か確かめてみます。まずは1メートル」
ミルドレッドは自席から出ると、部屋の中央に進み出る。
「50センチ」
言いながら机を挟んでテレンスの前に立てば、何かを耐えるように彼は口元をゆがませていた。
「……入りますね、20センチくらい? 普通の距離ですが」
今度は、秀麗な顔が何か恐ろしいものを見るように。
最後に手を伸ばして腕にちょんと指先で触れると、テレンスは身を引いて――やめてくれ、と顔を腕で隠した。首筋から耳まで赤くなっている。
「……済まない。だが婚約破棄をしても、可能ならチャンスが欲しい。友人からでも……」
「いえ、友人の知人くらいから始めましょう。それなら他の方のことを好きになっても後腐れないでしょう」
「そうか、君の希望なら了解した」
話がまとまった。
二人が同じタイミングで立会人の方を向いたので、オリアーナは細く息を吐く。
「――分かった、それで大丈夫そうだね。あとはテレンス、女生徒との距離感をカインから教えてもらうんだね。ミルドレッドも、よく相手の話を聞いて、不確かなことは相手に確認すること」
オリアーナが言えば、傍聴席で目を瞬くカインだったが、隣の婚約者は乗り気そうだった。
「ごめんねカイン、あとで学食のスペシャルランチセットを2人前10日分おごるから」
「……仕方ないなぁ」
後輩が快く仕事を引き受けてくれた後、律儀にカインに礼を言ったテレンスは、会場を出る直前にぴしりと屹立すると、最後に深くミルドレッドに頭を下げた。
「ミルドレッド嬢――いや、ファラーさん。では、また」
「……はいまた。エインズワース様」
そういえば、自分は今までさようならと言っていた気がする。
――なんだ、会いたいとは伝えられていたのか。
不器用すぎてどうにもならない元婚約者の背中を見送って、ミルドレッドは思い込みの激し過ぎる自身の頭を振った。
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