堅物侯爵令息から言い渡された婚約破棄を、「では婚約破棄会場で」と受けて立った結果

有沢楓

前編 堅物公爵令息と、風紀委員の子爵令嬢

「ミルドレッド嬢、君との婚約を破棄させてもらう」


 ついにきたか。

 子爵家令嬢ミルドレッド・ファラーはとび色の瞳で、8歳から婚約者であった青年を見つめた。

 侯爵家の次男であるテレンス・エインズワースは同い年の17歳。

 国を興した由緒正しい四騎士の血統に連なり、本人もまたそれを誇りに思い、騎士としての将来を期待されている青年。実際に彼の盾には、一人前の証として家の紋章“熊と剣”を描くことが許されていた。


 切れ長の青い瞳が涼やかな顔立ち。さらりとした銀髪を長く伸ばして組紐と編んでいるのは、エインズワース家に伝わる古い騎士の誓いだそうだ。

 先祖たる北方の民族に多い白い肌と長身の体躯に、服の上からでも見て取れる引き締まったシルエットは鍛錬の賜物だろう。今立っている学院高等部の優雅な廊下よりも、訓練場の土や城の石積みが似合う。


 性格も真面目すぎるきらいはあるものの、浮ついたところがない。両親も兄弟も人格者と評判だ。

 だから優良物件だと、女子生徒から親しげに声を掛けられているのを見かけたことがある。

 だが、彼は笑わないし、婚約者がいるからと女子生徒とは1メートルは距離を保って会話する。


 ……いや、正確には笑わなくなった、だ。

 それは婚約者のミルドレッドに対しても同じで、中等部に進学して以降は笑った顔を見たことがないのだ。

 とはいえとび色の髪に瞳という平凡な色。淑女らしい趣味もなく気の利いた会話のひとつもできないミルドレッドは、子供の頃だってろくに彼を笑顔にできた記憶がない。女生徒が声をかけるのも愛のない政略結婚だと誰の目にも映るから。

 だからつまらない女との不本意な婚約に不自由な思いをしてついに心を閉ざしたのだと――だから今年になって会う回数が有意に減ったのだ、とミルドレッドは感じていた。


「……そうですか」


 笑顔どころか決意を秘めた顔に応じながら、ミルドレッドは、意味のある会話をしたのはいつぶりだったろうと思い出そうとして、やめた。


 まだ幼かった初等部までは、それなりの友好関係を築けていたと思う。

 中等部に入ってから、あからさまに距離を取られ始めた。特に物理的には少なくとも半径50センチ以内に近づくことはない。入ってしまいそうになったらすかさず離れる。

 たまのパーティーも不参加か、共には行かない。ミルドレッドは実兄が、テレンスも実妹だけをエスコートしていた。


 それでも両家が取り決めた顔合わせのノルマはちゃんとこなし、イベントごとには花やプレゼントは贈ってくれた。

 花は薔薇や百合などだけでなく野草や雑草も取り混ぜての奇妙なもので、プレゼントはどうも妹や母親が選んだものを、使用人によって届けられるだけだったが。


 高等部に入るとその顔合わせが月に2回になり、それも急用などで断られることが増えた。

 せめて会話だけでもとたまにお茶に誘っても、鍛錬を理由に断られる。

 実際、口実をつけて屋敷を訪ねてみたら、走り込みや剣の稽古ばかりしているのをこの目で見た。侯爵夫妻・ご兄弟・使用人全ての証言も得たので、間違いない。

 要するに、彼の日常にミルドレッドの存在は不要なのだ。


 ――そんな中、ここひと月ほど急にテレンスの笑顔が増えたと、クラスメイトの彼の友人が、ミルドレッドに伝えて来ていた。

 結婚する気持ちがとうとう決まったのか、とニヤニヤたずねられて返してしまった無の表情に、悟らせてしまったようで謝られたが。


「驚かないのだな」

「はい」


 こうなるのではないかという予感はあった。

 ここ数年、王都の学院では婚約破棄の嵐が吹き荒れていた。

 堅物な彼でも、いやだからこそ、そのような生き方があると感化されたのかもしれない。真面目な人ほどタガが外れるとすごいのだと小耳にはさんだことがある。

 特に今年は名だたる貴族の令息令嬢たちが「真実の愛」や「自由」を求めて次々に婚約破棄を叩きつけ、今年で成立は9件になる。

 ――そして栄えある10件目がこれという訳だ。


「破棄は承りますが、条件につきましてご希望は」

「破棄についての話し合いだが、一週間後でどうだろうか。家を挟まず学院で行いたい」


 ミルドレッドは、久々に彼が二文以上続けて話したのを聞いたな、と思った。

 ふうと息を吐くと、鞄の中から運悪く……いや運良く持ち歩いているファイルから一枚の用紙を取り出した。

 通りかかると婚約破棄を言い渡しそうな現場に出くわしてしまうから、すかさず渡すために持ち歩く癖がついてしまった。


「ではこの婚約破棄会場の利用申請書に、希望の日時を記入してください。会場の予約開始はひと月前からですが、その日は丁度、空きがあります。もしもっとお早めが良いなら……」

「いや、君がいいなら、それでいい」

「承知しました。でももし、急に婚約破棄したくなった場合、お急ぎコースには別途会場を利用するためのオプション料金がかかります」


 ミルドレッドが説明すれば、ここでたいていはすぐさまタダで、好きな場所で婚約破棄したい側に嫌な顔をされるのだが、堅物婚約者は申請用紙を受け取って、生真面目に頷いた。


「そうか。本当は今すぐでもいいくらいだが、君にも準備があるだろう。……では急で済まないが、それまでに弁護人を選んでおいて欲しい」

「いえ、流れは分かっています」


 ――やはり私が何度、風紀委員として破棄被害者の弁護に立ったかご存知ではないのですね。


 諦めていたつもりだったが、久しぶりの会話が婚約破棄であることに少なからず動揺していたらしい。

 そんな皮肉を言いそうになって、ミルドレッドは別の言葉を、ギリギリ皮肉にならないかもしれない、程度の言葉を口にした。


「テレンス様はとうに選ばれていたのですね」

「……いや、わたしには必要ない」


 何故だろう、とミルドレッドは思う。

 今までの経験上、言い出す側はそれなりに計画的で、有利な条件を勝ち取るために準備していたのに。


「……ではまた」

「さようなら」


 たん、と床を鳴らして姿勢よく踵を返す青年の背を、ミルドレッドは唇を引き結んで見つめた。そうして、


「何故毎回『ではまた』などと言うのかしら。ろくに『また』があったためしもないのに……」


 誰も聞いていないのをいいことに密やかに悪態を吐くと、きたる申請に備えるために風紀委員の委員会室へと向かった。



***



 貴族間の婚約が大よそ政略的に両家の間で取り決められる契約であれば、破棄もそうでならなくてはならない。

 ――というのが今までの一般的な“常識”であったが、近年子どもの権利の拡大が何やらとかで婚約の無効化や破棄が、本人でも可能になった。

 そこにきて身分性別を問わない平等な教育のため、共学の学校まで建てられるようになったのだから、自由に異性と交流できるようになった子供たちが「大人の事情など知らん」と言い出すのも当然のことだ。

 だからこの学院に入れる貴族の親たちにとっても、婚約破棄はある程度親の想定内に入りつつあった。


「とはいえ、多すぎですよねえ。それにあの真面目が服を着て歩いているような人が、政略結婚の破棄を自分から言い出すなんて。何の影響ですかね、悪いものでも食べたとか?」


 風紀委員会に割り当てられた趣味のいい一室。

 ソファの上で書類のチェックをしつつ軽口を叩く子爵家令息の後輩・カインに、ミルドレッドは書類の必要事項を確認しつつ頷いた。

 小柄で可愛らしい顔立ちの彼は口数も多く、テレンスと正反対で話しやすい。

 それに代々の委員長の「(取り締まられる・取り締まる側の)風紀は実家の爵位と関係ない」という方針によって、この場所は良い意味でも取り繕う必要がなかった。


「最近笑うようになったと聞いていたから、何か大きな変化があったのは間違いないと思うけど」

「本当に心当たりないんですか」

「残念ながら……もう残念という気持ちもほとんど残ってないけど……そう、思い付くのは……笑顔の鍛錬」

「鍛錬?」

「式典で笑う必要があるとか、子どもとの交流会でにらめっこをするから負けるためとか? それとも好きな人でもできたとかね。好きな人の前ではカイン君も笑顔でしょう」


 カインには幼馴染のとても仲の良い婚約者がいて、刺激が最近足りないとか言いながらも毎日揃って昼食をとっているのを知っている。


「女っ気のないエインズワース先輩が? ミルドレッド先輩以外の女子に自分から声をかけたところ見たことないですよ」

「……なら、恋愛小説にでも感化されたとか。女子の間で大流行していて、婚約破棄件数の上昇の原因の一つだと、先月アンケート調査で出ていたしね」


 続けられる、年頃の女子にしては悲壮な想像に、慌てたようにカインが声を上ずらせる。


「ああ、もしかしてあの『男爵令嬢のどきどき成り上がり! 婚約破棄は慰謝料を添えて』のシリーズですか?」

「『男爵令嬢の成り上がり! どきどき』……ええっと、何……そんなタイトルだったの」


 ミルドレッドの興味は専ら実用書や図鑑や旅行記で、小説はほとんど読まない。


「男子も読んでるんですよあれ。主人公の男爵令嬢が魅力的なのはもちろん、振り回される当て馬男子たちにそれぞれ女子生徒のファンが付いてるので、研究するんだっていって。でもエインズワース先輩がそんなの読むかなあ」

「カイン君、詳しいね……ああ、そうか」


 風紀委員として取り締まる方なせいか、クラスメイトともそういう「学業に不要なものを持ち込む」回し読みの場からはそれとなく外されている。

 でも普通は婚約者とそんな話もするだろう。

 ミルドレッドがテレンスとここ数年そんな他愛無い雑談をしたのは――思い出せないということは、ない、ということだ。


「……いえ、笑顔の原因は逆で。何かがあったのでなくて、なくなったから。婚約破棄するハードルが下がっているから――遂に破棄できるんだって笑顔なのかもしれない」


 笑顔を作るミルドレッドにカインが気の毒そうな視線を向けると、


「これは逆にチャンスなんじゃないの、ミーちゃん?」


 ローテーブルを挟んでその反対側で、茶菓子を無限につまんでいた先輩、オリアーナがのんびりと言った。

 美しい顔立ちと風紀委員長という立場、何より侯爵令嬢という肩書きに相応しくないくしゃくしゃの紫がかった髪がばさりと広がる。これは天然モノで、曰く地毛の生徒たちを守るために必要らしいが、だらけている姿を見るとやや疑わしく思える、そんな先輩だ。


「委員長。その猫のような呼び方はおやめくださいと前から」

「テレンスに直接聞けるじゃない、何で婚約破棄するんだって」

「……」


 正直なところ、聞きたくなかった。

 いつの間にか会話が続かず会うことも避けられ続ければ、疲れてしまったのだ。


「どうせこのまま破棄をしなくとも、良い関係など築けそうにありません。ならば理由などどうでも良いでしょう」

「いや、良くはないでしょ。こっちの有責になったら困る」

「いえ、私に特別な非がない限り非難も慰謝料の請求もされないでしょう。

 もし好きな方ができたとして、流行の小説は、その――『慰謝料を添えて』? のようなタイトルからすると、婚約破棄をする方が慰謝料を支払う話なのでしょう。読んでいたら、むしろ頭から信じて実行する可能性があります。

 そんな風に一方的に慰謝料を払われる、勝手に幕引きされるというのも嫌ですので」

「変な信頼はあるんだね」

「過ちをごまかしたところは見たことがありません。自分の失敗が他者のせいになりそうなら、誤解を解くため名乗り出るような方です」


 いやいや、とオリアーナは肩をすくめる。 


「今までの対応を考慮してさ、出来る限りむしりとってやればいいのに。知っての通り婚約破棄の決闘なんて一部じゃ呼ばれてるんだよ? 今までの破棄の弁護だってさんざんやり合ってきたんだから、遠慮なしでいけるでしょう」


 うつむくミルドレッドに彼女は「それにさ」と続ける。


「遠慮するなら受けなきゃ良かったのに。ご両親に報告して両家で解決すればいいでしょ」

「私から利用申請書をお渡ししました。テレンス様がそう望まれたので何か理由があるのだと」

「望んだ? あのテレンスが?」

「はい。『破棄についての話し合いだが、一週間後でどうだろうか。家を挟まず学院で行いたい』と」


 ミルドレッドが彼の言葉を再現すると、オリアーナは唸った。


「うーん、そうか、それは……なんか違う気もするけどなあ。会場でしなくてもいいって言ってるとも解釈できる」

「どちらにしても、私たちには立会人がいた方が良いと思います。

 そして風紀委員としても、今後の私の婚約のためにも、円滑円満な婚約破棄は目指したいです。

 それに、副委員長が婚約破棄会場を利用したと評判になれば、利用率をさらに高められそうですよ」


 その言葉に、カインが資料をテーブルにばさりと置くと、心配そうな、呆れたような目を向けた。


「副委員長が婚約破棄されて身をもって治安維持に貢献するって、見世物じゃないですか」


 もっともだとミルドレッドは思うが、これも次善の策なのだ。


 婚約破棄と言っても、昔はひっそりと生徒二人きりで話し合われていたらしい。

 しかし周囲を味方にしたい、証人も欲しい、という生徒たちが増えたのか、昨今風紀の乱れは著しかった。

 たまに開かれる学院内のパーティーやイベント後、校門などで衆目を集める形で行われており、たびたび行事が滞ったり、授業や通行の邪魔になった。


 そこで風紀委員会は、学院は生徒の自治の裁量を大きさをいかして、婚約破棄の会場を校内に用意して運営を始めた。

 これは互いの実家の力関係による不当な圧力がかからないよう、経緯を両家にも文書で提出して生徒を少しでも守る意味もあった。

 理不尽な婚約破棄にショック受けた生徒には弁護人が付き、友人などで相応しい人物が誰もいない場合などには委員が弁護をする――ので、ミルドレッドも買って出ていた。

 事前の申請があれば証人も採用できる。

 そしてもちろん傍聴席。


「……どうせ侯爵家の令息が婚約破棄をしたなんて噂、すぐ広まります。一方的に婚約破棄された女だと噂が広まるくらいなら、正々堂々と受けて立ちたいんです。そして公正公平中立な場を、あなたの思い通りになんてさせないってテレンス様に」


 その返答に、カインは首を緩く横に振った。


「……気持ちは分かりましたけど……」

「まあまあカイン、見世物になんかさせないよ。その日はこっそりやるからさ」

「こっそりってどうやるんですか」

「そりゃあ、立会人の欄にわたしの名前を書くからさ」


 そうカインに言いながら、合間合間にナッツのクッキーを放り込む姿を見ていればミルドレッドは覚悟を決める。

 オリアーナはテレンスのエインズワース家とは親戚関係に当たり、テレンスと初めて会ったのも彼女主催のお茶会でだったから多少なりとも責任を感じているのだろう。


「お心遣いありがとうございます」

「ま、多少の目撃者がいた方がいいから、当日はカインもおいで。あと信用できそうな友人を呼んでもいいよ」

「傍聴者を立会人が操作するってどうなんですか」


 カインが首を傾げ、オリアーナは苦笑する。


「もし厄介事が起こった場合に備えてね――さ、ミルドレッド。手伝うから紙をちょうだい。あいつの行動を知ってるだけ書いてあげるからさ」

「……親戚だからですか?」

「そうそう。でも気にしないでいいよ。あいつに比べたらわたしの把握してる行動なんて可愛いもんだから」

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