第10話 いけない恋

 涼介と綾の恋は、東京の雑踏の中で少しずつ進展し始めていた。彼らはどこかお互いに引かれ合いながらも、自分の気持ちを素直に伝えられず、すれ違いが増えるばかりだった。涼介は出版社『ラグナロク』に転職を果たし、順風満帆な日々を送っていた。


 ある夜、涼介は仕事の帰り道に、ふと綾の姿を見つけた。オフィスビルから出てきた彼女が、まるで無意識に自分を探しているように見えた。涼介は迷ったが、思わず「綾!」と声をかけてしまった。驚いたように振り返った彼女と、互いの視線がぶつかる。そこには、何か言いたそうな表情が浮かんでいた。


「どうして、最近会えないの?」と綾が問いかける。


 涼介は一瞬、言葉を詰まらせたが、胸に押し込んでいた気持ちを少しずつ言葉にした。「俺は…君のことを好きになってはいけないと思ってた。君にとって迷惑かもしれないって…」


「何でそんなことを思うの?」綾は戸惑いながらも、涼介の目を真っ直ぐ見つめていた。「私はあなたがいなきゃ、もうダメかもしれないのに…」


 この言葉に涼介は驚いた。彼はどこかで、綾も同じように不安と葛藤を抱えていたことに気づき、心が温かくなるのを感じた。彼らは静かな夜の街で、初めて素直な気持ちを交換し合い、二人の距離は少しだけ縮まっていった。


 それからも、二人の恋は一筋縄ではいかなかった。お互いに気持ちを伝え合うことで理解が深まる一方で、仕事や将来への不安が交錯し、時には離れたり、ぶつかり合ったりする日々が続く。しかし、夜の街で繰り広げられる切ない瞬間の中で、涼介と綾は少しずつ成長し、それぞれの想いを確かめていった。


 まるで東京ラブストーリーのように、不器用な恋愛の中で、二人は互いにとって大切な存在であることを確信し始めていた。

 涼介と綾は、週末の晴れた朝、二人で車に乗り込み、遠くの山を目指して東京を離れた。何気なく決めたドライブの行き先だったが、二人きりでゆっくり過ごせる場所が欲しかったのかもしれない。綾が提案したのは、栃木市へのドライブだった。自然に囲まれ、静かな時間が流れる場所に、二人はどこか惹かれていた。


 涼介と綾は、栃木市の北部に位置する山並みを目指して車を走らせていた。彼らの目的地は、太平山や錦着山といった名山が連なる地域であり、その美しい自然景観が栃木市の象徴ともいえるものであった。


 車が市街地を離れ、巴波川や思川などの清らかな河川が織りなす風景が広がり始める。流れは穏やかで、初夏の光を受けて川面がきらきらと輝いている。車内は静寂に包まれ、窓の外に広がる景色を眺める綾の表情には、どこか安らぎが漂っていた。涼介もハンドルを握りながら、心中に静かな充実感を覚える。


 やがて、渡良瀬川を越え、渡良瀬遊水地の近辺に差しかかる。ここは、巴波川、思川、渡良瀬川が合流する地点であり、湿地帯が広がる独特の風景が印象的であった。広大な遊水地が、栃木市の東部から南部へと展開され、涼介は自然の偉大さを肌で感じる。


 東武日光線の線路沿いに車を進め、しばしば現れる鉄道の軌跡を横目に見ながら、栃木バイパスを北へと向かう。綾は、道路沿いに並ぶ木々や、彼方に見える山並みに目を奪われていた。その時、ふと彼女が言葉を発する。


「この辺りの景色って、本当に豊かね。自然が人々の生活に溶け込んでいる感じがするわ」


 涼介は、彼女の言葉に一瞬目を細め、ゆっくりと頷いた。「そうだな。都会ではなかなか味わえない、栃木ならではの風景だ」


 会話が途切れた後も、二人は変わらぬ静けさの中で、それぞれの思いを巡らせながら栃木の風景を心に刻んでいた。


 綾は、涼介との穏やかなドライブを楽しんでいたものの、心の中にひとつの疑念が湧き上がっていた。それは、涼介が最近、少しだけ冷たくなったように感じることから始まった。彼は仕事が忙しいとよく言っていたが、それにしては彼の帰宅が遅く、時折携帯電話を手放さずにいた。そして、ある日、彼のスマートフォンが鳴り響いた時、画面に表示された名前に一瞬目を止めた。見覚えのある名前ではなかった。


 その晩、涼介は仕事だと言って出かけたが、綾の心は晴れなかった。彼がいない間に、その不安がどんどん膨らんでいった。涼介が家に戻ると、彼の無防備な姿に一抹の安心感を覚えるものの、心の奥底に残る疑念は払拭されない。


 今日のドライブでも、綾はその不安を感じながら涼介の言動を観察していた。涼介はいつも通り穏やかで、特に変わった様子はない。しかし、彼が視線をわずかに外す瞬間が何度かあった。それが偶然なのか、彼の隠している何かを示唆しているのか。綾はそのたびに胸が痛くなるのを感じた。


 ふと、綾は思い出した。以前、涼介が一度だけ話していたことがあった。それは、彼が「特別な人」と呼んでいた女性のことだ。その時は軽い会話の一部だと思っていたが、今になって思い返すと、それはただの偶然の話ではないように思えてきた。


「涼介…」綾は心の中で呟いた。その疑念がどんどん大きくなると同時に、彼との関係に対する不安が深まっていくのを感じていた。涼介に問いただすべきか、それともこのまま胸の内に秘めておくべきか、綾は葛藤していた。



 ドライブ中、車の中にはリラックスした空気が漂っていた。話す内容はたわいもないことで、仕事の話、好きな音楽、そして最近ハマっている本の話。時折、窓の外を眺める綾の横顔に、涼介は無意識のうちに目を奪われていた。


「ここ、少し寄り道しようか?」と綾が言い、山道に車を進める。やがて辿り着いたのは三加茂の山の頂上近く、東京からは遠く離れた静かな場所。周りは木々に囲まれ、澄んだ空気が心地よく二人の間を流れていた。


「綺麗だね……」綾が、静かに息を漏らした。


 涼介も同じ景色を見つめながら、ふとした瞬間に彼女を見つめた。言葉を交わす必要もなく、互いに感じていることが伝わるような沈黙が二人の間に流れていた。


 そのとき、涼介は自然と綾の手を取り、少しだけ近づいた。綾も涼介の視線を感じながら、少し戸惑った表情を浮かべたが、どこか嬉しそうな瞳で見つめ返していた。二人はそっと顔を寄せ、ゆっくりと唇が触れ合った。


 風の音だけが二人を包む中、彼らはその一瞬に全ての想いを込めたようだった。ずっと伝えられなかった気持ちが、言葉ではなく温もりとして、相手に届いたように感じた。


 キスを終えたあと、二人は何も言わず、ただ穏やかに微笑み合った。帰りのドライブも、今までとは違う静かな安心感に包まれていた。それはまるで、東京の喧騒から離れ、二人だけの小さな物語が始まった瞬間だった。


 


 

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