始まりの音
槇瀬りいこ
第1話
ㅤ彼女はいつも、ジャングルジムのてっぺんから夜空を見上げている。
僕がその公園で彼女を見つけたのは、夏休みに入る少し前のことだった。
僕には、夜中限定でジョギングをする習慣があった。
ㅤその日僕はいつもよりも長い距離を走った。
昼間に温存した体力を放出するかのように、がむしゃらに閑散とした町を走り続けたのだ。
身体を動かせば、重たい荷物が一つ二つと切り離せるように思えた。身体が軽くなっていく感覚は、脱皮した新たな自分に出会えるような錯覚を起こし、その時だけは爽快感に包まれるのを知っていたから。
とは言え夏の夜は暑い。
額からは汗が伝って首元へと流れ落ちた。全身汗まみれで喉も乾いている。
僕は息を切らしながら、閉店した居酒屋の前に立ち並ぶ自販機で水を買い、いつもは気にせずに通り過ぎる児童公園で休憩を取ることにした。
その時、ジャングルジムの上に彼女がいることに気がついた。
一瞬幽霊かと思って奇声を発しそうになったが、街灯に照らされている彼女からは、ちゃんと影が伸びている。
人だよな? と、更にジャングルジムに座る彼女をまじまじと観察した。短パンの先は、細くて華奢な脚が伸びている。逆にこんな人気のない薄暗い公園で、人間がいることの方が違和感を覚えてしまった。
こんな夜中に物騒だな。
そう思いながら、自分も夜中にジョギングしてるんだから同じだなと、そこにポツンと寂しげにあったベンチに腰かけた。
額から流れる汗をTシャツの袖で拭き取り、ペットボトルの水を勢い良く飲み干した。Tシャツの襟元を掴み、パタパタとして胸元に風を通してみるが、夏の夜の風は生ぬるく、それほど僕をクールダウンさせてはくれなかった。
ジャングルジムの上にいる彼女は、不安定な鉄骨に腰掛けたまま、ただ天を仰いでいる。
ㅤまるで置物のようだ。
ㅤそれに、置物のような彼女は、僕の存在には気づいていなさそうだった。
見上げれば、曇りの夜空には星一つ輝いてはいない。そんなぼやけた空を見上げて、一体何が楽しいんだろう。
翌日も、そのまた次の日も、ジャングルジムの上に彼女はいた。
僕がジョギングを始めたのは夜中の一時過ぎだったから、30分は過ぎているはず。たぶん今、二時ぐらいだと予想した。どちらにしても夜中であるのは変わりない。僕は彼女に同じ匂いを感じた。
彼女の後ろ姿しか見たことがなかったが、何となく、僕と同い年ぐらいの年齢に思えた。
それからというもの、僕はジョギングをしてから公園へと立ち寄る事がルーティンとなった。
ㅤどうせ昼間に学校へも行かないのだから、夜中にどれだけ時間を使おうが問題はない。夜中に彼女が一人で公園にいることが気になり、用心棒として遠くから見守ることにした。
そんなこと頼まれてもいないし、赤の他人なのに、傍から見ればストーカー行為だと非難される案件なのかもしれない。でも僕の好奇心は抑えられなかったのだ。
ㅤ彼女がそこに滞在するのは15分ほどだった。
ジャングルジムから降りて、自転車に跨り帰っていく姿を見届けると、僕も役目を全うできたような達成感と共にその場から立ち去った。
ㅤそんな日が数日続いた後、夏休みを迎えた。
しかし僕にとって夏休みも普通の日もさほど変わり映えはしない。
ただ世の中が夏休みだと、堂々と昼間に外へと出られるような気楽さはあった。だけど僕は、夜中のジョギングの習慣を昼間へと切り替えることは出来ずにいた。
相変わらず彼女は夜中の公園にいた。
夏休み前からそうしていたということは、彼女も学校へと行かない僕と同類なのか。それとも授業中に睡眠を取るタイプなのか……。
好奇心が押さえきれなくなった僕は、勇気を出して彼女に声をかけてみた。
「なあ、いつもこんな時間になにしてんだよ? 女が夜中に一人なんて危ないぞ」
彼女は驚いたのか、ビクンと身体を震わせ、ジャングルジムのてっぺんから僕を見下ろした。氷みたいな冷たい目で、僕をじっと見つめている。
「あなたこそなぜいつもここへと来るのよ?」
そう聞き返されドキッとした。
彼女は毎日勝手に用心棒をしていた僕の存在に気づいていたようだ。
まさか頭の後ろに目でも付いているのかと、僕は彼女を疑ってかかった。
「さてはオマエ、人間じゃないな!?」
「は!? なにそれ。それフツー初対面の人に向かって言う? 期待に応えられなくて悪いけど、私は普通に人間よ。それにあなたこそ何者よ? 夜中に一体こんなとこで、まさかあなたこそ妖怪だったりして? こんな時間に何してんのよ?」
そんな熱いテンションで怒られると、やはり彼女は人間だったんだと再確認させられて、僕はたじろいでしまった。
「僕はただ、夜のジョギングの途中だ。それにこの通り人間だよ」
僕は片足を上げて、「ほらな」と人間アピールをした。
彼女の表情はぼんやりとしか見えないが、少しだけその雰囲気が緩んだように見えた。
「そっか。人間なのね。ところで、あなたは学校へは行かない人なの?」
ジャングルジムから僕を見下ろし、こっちが聞きたい質問を投げかけてくる。
僕は先にそんな事を問われてイラっとした。
「今は夏休みだろ? 君こそそのタイプなのかよ?」
ムッとして返すと彼女は、
「そうだけどなにか?」
と呟き、僕の顔をまじまじと見つめてきた。
それから、何か閃いたように、あ。と呟いた。
「同じ中学だよね…?」
一転して声のトーンは穏やかになり、確認するように聞いてくる。
「僕を知っているのか?」
僕はジャングルジムの下から、街頭の明かりを便りに目を凝らした。
そう言われると、僕も以前から彼女を知っているような気がしてくる。
「えっと…」
名前が出てこない。
彼女は僕を見下ろしながら、口元に手を当て、思考を巡らせているようだった。
「去年のクラスだったのかなぁ…? それとも、塾だったのかなぁ…?」
助け舟にもならない曖昧な彼女の言葉に、僕の記憶も曖昧なままだったが、
「多分、塾か何かだ」と、頷いた。
「同じクラスだったかも! 違う?」
確か、入学早々から空白の席があった事を思い出した。その席に座るはずだった誰かが、彼女だったのかもしれない。
だけど僕の記憶では、その席が空白だという事しかない。そのうち、その空白の席は、空気みたいに教室に溶け込んでいた。
つまり僕は、たぶん、彼女を見たことがない。
「……そうだった、かもしれない」
「そうよね。一年の時に同じクラスだったのかも!」
お互いに曖昧で、胸に何かが詰まったようなモヤモヤ感は否めない。
そこまで考えても思い出せないのなら、互いに知らない存在も同然だと思ったが、
「多分、一年の時に同じクラスだったんだろうな。僕も君を知ってる気がするよ」
僕は適当に話を合わせて知ったフリをしておいた。
もっと近くへと行けば彼女の名前を思い出すのかも知れないと、ジャングルジムのてっぺんまで登った。
その隣に少し距離を置いて座る。
ショートヘアの彼女を横から見てみたが、名前も顔も全く思い出せなかった。
そもそも僕は、他人の名前と顔を一致させるのが苦手なタイプだ。
たまに見える彼女の斜め横の顔だとか、うすぐらい中だけど、目を引くかわいさがあることは分かる。
これだけの容姿を持っているなら記憶の片隅に残っていてもおかしくは無いと思うが、彼女が誰なのか、去年の記憶を辿ってみても思い出せずにいた。
僕は彼女を全く知らないという結論に至ったが、久々に会った同級生風に親しげに返した。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「まあね。あなたは?」
「まあまあかな。こんなもんだと思ってる」
ところでなぜ君はいつもここにいるのかと聞こうとしたが、
「ねえ、なぜ夜中に走ってるの?」
先に聞かれた。
「暑い昼間に走るより夜の方がジョギングに適しているし、ついでに月が見られて一石二鳥だろ? だからだ。特にこれと言って特別な理由はないよ」
「そうなの? でも今日は新月だから月なんて出てないよね? あなたには見えるんだ? スゴイ。あなたは特殊能力の持ち主なのかしら?
……私はね、星を見ているの。この時間のこの場所から見る星がとても好きだから」
そう言って僕を見て微笑んだ彼女は、とても儚げで美しかった。
月だけじゃなく星だって、夜空には少しも輝いていないのに……。
「星だって全然見えないけど、君には見えるのか。君も特殊能力の持ち主なのか?」
僕も彼女に合わせて冗談を返した。
彼女は静かに笑って、
「実は、ユーホーでも現れないかなって見てたりもするの。もしも現れたら乗せてもらって宇宙旅行でもするつもり」
「へ~。で、見えたことはあるのか?」
「全然」
ここに居る理由なんて、何でもいいんだろう。
どうせなら、理由は現実からかけ離れたものである方が、より幸せでいられるのかも知れない。
「見れたらいいよな、ユーホー。僕も宇宙旅行したくなってきたよ」
結構真剣に呟いて、僕は空を見上げた。
それから恥ずかしげもなく、
「来い! ユーホー!」と念を込めて呟くと、両手を天に掲げた。
彼女は吹き出して笑いだした。
僕もなんだか嬉しくなって、久しぶりに声を出して笑っていた。
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