3 シャナ
シャナにとっての二日目の授業は、前日と同様、突っかかった教師の壮絶な自爆という、一種
教師は恐れ、生徒は
四時間目の授業は体育だった。
その授業を担当した体育教師(男性・三十三・独身)は、最近、
授業を受け始めてわずか一月程ながら、
彼は、いきなりクラス全員に無制限のランニングをするよう言った。
この一月の記録を見れば、平井ゆかりは特別優秀な成績を残しているわけでもない。すぐに根を上げるだろう、と思った。ヘバっても、しばらくは無理矢理走らせてやる、とサディスティックな
ところが予想に反して、
小学生にしか見えない、体操服に着られているような
体育教師は
やがて、あまり体の丈夫でない女生徒が一人、トラック上でうずくまった。
「こらー、
「吉田さん!」
「
息を切らして胸を押さえる、吉田という女生徒に、クラスメートたちが
普段から貧血などをよく起こしている、こういうことになるのは分かりきっていたのに、という生徒たちの批難の視線を、体育教師は全く感じることができない。
「なにを勝手に集まっとる、貴様ら!」
「先生、一美を休ませて上げてください」
と吉田の背をさする女生徒が訴えたが、体育教師は、標的である平井ゆかりに、吉田の不調にも動じることなく走り続ける姿を見せつけられて(と彼は感じた)気が立っていた。
「うるさい! そう言ってサボってたら、いつまでたっても体力がつかんだろうが! 立て!」
そのとき、ふと誰かが
「だいたい、なんでいきなり持久走なんだよ」
無能な小人物というのは、自分の痛いところを突かれると逆上する。
体育教師は何を思ったか、いきなり吉田の手を
「貴様がサボっとるから、みな足を止めてるだろうが! 立て!」
「……っ」
驚いた生徒たちが抗議する、ついでに悠二が『出る足』を制止する、
その前に、
体育教師が思い切り
不意の出来事に一瞬、
息も乱れず、汗もせいぜい
後ろで一つにまとめられた、長く
(……あちゃー、やった……!)
制止の届かなかった
シャナが体育教師を蹴り飛ばした理由の大半は、たまたま自分の走行ライン上を体育教師がふさいでいたということだが、それでも、
「さっきからずっと走るだけ……これ、一体なんの『授業』なわけ?」
一応、どんな内容のものなのか、試していたらしい。自分の肩にもたれかかってヒュウヒュウ息を
(どうせ、
と悠二は、その内心を正確に察している。
「馬鹿な訓練。ただむやみに体を動かすだけなんて、疲れるだけでなんの意味もないわ」
「き、貴様……!!」
土まみれの顔を
もちろんシャナは、そんな
「おまえ、この授業の意味を説明しなさい」
と問い
(やれやれ、やっぱり、こうなるのか)
「……シャナ」
悠二は受け取った少女の
「だ、大丈夫?」
吉田は青ざめた顔を、それでもわずかに
それほど深刻な状態でもなさそうだ、と悠二は
彼らの背後では、体育教師が
「貴様、教師を足蹴りにしたな!」
体育教師は、シャナの話になど耳を貸さない。彼女に詰め寄り、『
「この不良が!! 教師に暴力をふるいおって! 停学、いや退学にしてやるぞ!!」
「説明さえできないの?」
「分かってるな! 問題だ、これは問題行為なんだぞ!!」
話が全く
体育教師が話をしようとしていないのだから当然ではあった。この男は、自分の感情をぶちまけることしか頭に無いのだった。
彼の周りにいる生徒たちの方は無論、その狂態に、完全にシラケている。
そしてとうとう、
(
す、とシャナの
「
シャナが、動く、その
「?」
やめろ、と言われていたら、シャナは無視して、目の前で
彼女にしてみれば軽く脚を出した程度の、しかし常人にはとんでもない威力の蹴りが、ギャグマンガのように体育教師をすっとばした。
体育教師はきれいな放物線を描ききって、地面に激突した。ぎぴ、と変な叫びが上がる。
「あ〜あ……」
悠二は自分の指示ながら、その蹴りの無茶な威力にため息をついた。クラスメートたちの注視の中、一度頭を
「先生、トラックの中に突然入ってきたら危ないでしょう!」
シャナが
メガネマン
「蹴っ飛ばされても、
「だよなー!
それと顔を見合わせた
「そりゃ、急にゃあ、止まれねえわな!!」
ようやく察したクラスメートたちが、
悠二や池と肩を並べて、佐藤や田中と声を合わせて、歓声にも似た大騒ぎをトラック上に巻き起こす。
「僕、見てましたよ、先生が平井さんの前に飛び出すところ!」
「私も!」
「あはは、センセ、カワイソ!」
「
「交通事故みたいなもんだよな!」
この、自分に全く
「……き、きさま、ら……」
と、
騒ぎに隠れるように、
「
なんだか自分もシャナに影響されて、いい性格になってきてるなあ、と悠二は責任を
同じく騒ぎに
「そうだな、金を得るときによくやる方法でどうだ」
「そーね、たしかに、
なんだか普段の生活が想像できそうな
それだけの動作に、クラスメートが再び静まり返る。
体育教師は、突然訪れた静寂の中に、足音だけが残っていると気付いて、
「ちょうど、トラックの上にいるね」
「ひっ、ひあ……」
体育教師が逃げ出そうともがいた、その鼻先に、ズドン、と脚が
目の前、しっかりと固められたトラックが、靴底型の穴を五センチからの深さ、
「先生、これからも気をつけないと、危ないですよ」
「……分かった?」
シャナがとびきり
悠二が付け足すように、にこやかに訊く。
「もう、解散してもいいですよね?」
体育教師はさらにぶんぶん頷いて、
「あ、あとは、じじ自習だ!」
と言い捨てると、腰
今度こそ、生徒たちの間で完全無欠の歓声が爆発した。
そんな中、悠二は傍らを見て、
「素早いなあ……っと待った待った! 追わなくていいって!」
走り出そうとするシャナを
「なんでよ、敵は
その二人を、クラスメートが押し包んだ。
意味もなく
シャナは、目を白黒させて、彼女を押し包む歓声と好意の触れ合いに
この中、
「おーい田中ぁ、
「ほいきた」
別の女生徒に
そんなこんなの騒ぎの後、
残った時間を、悠二たちはのんびりと、春の
というわけで、
その人気がどれくらいかというと、着替える際に
とはいえ、いきなりそれで完全に打ち解けられるほど、シャナも近付きやすくはない。とりあえず『無法者』から『用心棒の先生』にランクアップした、という程度だ。
それでも今日は、体育の授業直後の昼休みになっても、昨日ほど露骨に出て行く者はいなくなっていた。クラスメートは半分方、教室に残っている。
悠二としては、本意なのか不本意なのか……彼女をクラスに
それでも、昨日一昨日のことで僕にクソ度胸が付いたこと、それだけは確かみたいだ、巨大人形や首玉、カードの嵐や爆発の後じゃ、威張るだけの体育教師なんか
(まあ、寂しく取り残されるよりはいいか)
結論の出ない考え事は
昨日と同じ、コンビニおにぎりにかぶりつく。ちなみに、彼がいつもコンビニおにぎりなのは、母に弁当を作ってもらうことが格好悪い、という少年的な見栄からだ。
「それで、今日も夕方まで居残りするのか? 今日の授業はそこまでないからいいけど」
パリパリと
「ううん、夕刻までにここを出るわ。相手がちょっとでかいから、せめてこっちに有利な場所で戦わないと」
シャナも相変わらず、メロンパンを
この体のどこに入るんだ、と悠二は、片手で抱えられそうな細い腰を見て思う。
「……どこ見てんのよ?」
シャナに
「え、いや、別に……それで、有利な場所なんてあるのか?」
「とにかく、
「そうか、ありがとう」
悠二は素直に感謝の言葉をかけた。
「うるさいうるさいうるさい。私のやりたいようにやる、って言ってるだけよ」
シャナは乱暴に、メロンパン最後の一切れを詰め込む。続いて、今度は子供用の、甘いコーヒー飲料のパックを袋から取り出した。なかなか開かない口を、いじりまわしつつ言う。
「せめて、おまえの中身がなんだか分かれば、こっちにもやりようがあるんだけど」
「そんな
悠二はこうして日常の中にいると、
自分が、故人の
同時に〝
あるいは、無意識に忘れようとしているのかもしれない。
それを許さないように、外れた世界の
「うん。なんだか
アラストールが珍しく、返答を遅らせた。
「……うむ。その中身を確かめるには、まずもって貴様を消さねばならん」
パックの口と格闘するシャナはそれに気付かず、ただその内容を補足する。
「でも、宝具の質が分からないのに開けたら、何が起こるか分からないの。前に、それでひどい目にあったこともあるし」
「やれやれ、僕の安全は、その程度のものなのか」
「うん、その程度のもの」
シャナはわざと意地悪く、事実を突きつけるつもりで言った。
しかし
「ふうん、そうか」
「……おまえ、最初みたいに、生き死にをぐちゃぐちゃ言わなくなったわね」
「ん? いや、今でも自分が少しずつ消滅に近付いてることは、恐いと思ってるよ。でも、それを言っても
「……」
シャナは、悠二の平然とし過ぎた様子が、なぜか
この〝ミステス〟は道具。なら何をどう思っていようと構わないはず。それがなぜ癇にさわるのか。何かを期待しているのか。それを裏切られるのが
ふと
「
これにも、落ち着いた答えが返ってきた。
「さあ。実はよく分からない。でも、あんたやアラストールがいてくれるのは、すごくありがたくて
「……?」
意外すぎる言葉に、シャナは不可解なものを見るような目で、悠二を見た。
悠二の顔にはまた、静かな微笑がある。
「
「私たちが支えですって?」
シャナはせせら笑って返した。
何かを期待されている、それは自分がさっき思ったことと、どこか同じ……互いに分を越えた
「おまえに終わりを運んできた者たちを、支えにするって言うの?」
「本当のことを教えてくれただけだろ。あんたが僕を殺したわけじゃない」
悠二は、これだけは真剣に否定した。
「ふん、同じことでしょ」
「いや、違うね」
「同じよ」
「違うね」
「同じ」
「違う」
言い合う内に、二人は真正面から
「……」
「……」
静かな、しかし火花が散りそうなこの対決に、遠慮がちに、小さく、声がかけられた。
「……あ、あの……」
二人が振り向いた先に、控えめな印象の少女が、真っ赤になった顔を伏せて立っていた。
ほんの少し前にトラック上で倒れ、シャナが(結果的に)助けたクラスメート、
「吉田さん?」
意外な人物の登場に、
シャナは、存在の
「その、ゆ、ゆかりちゃん、さっき、体育の時間……あ、ありがとう」
吉田の声は小さすぎ、しかも途切れ途切れなので、聞き取りにくいことこの上ない。
シャナは、まだ機嫌を直していない。悠二との言い合いを
「なんか用?」
「ば、馬鹿、お礼言ってるんだから、どういたしまして、くらい言えよ」
「なにが馬鹿よ」
シャナは、
「私は、私の邪魔する
「あ〜、まあ、そうなんだけど」
この少女の
そうでなくとも、吉田は気が弱い。今も、シャナの言葉に小さくなっている。
ほとんど自分との言い合いのとばっちりを受けた形の彼女が、悠二は気の毒になった。どう
「あ、弁当……一緒に食べる?」
「え、は、はい……!」
言われた吉田が、パッと顔をほころばせた。
悠二は、この微笑みに、ほっとさせられた。
(シャナとはえらい違いだな)
フレイムヘイズたるシャナの(馬鹿にするとき以外の)笑みは、まさしく
(って、なに比べてんだ、僕は)
意味も無く照れた
「シャ……ゴホン、
実は悠二は、同じクラスになってから一月になるが、彼女とはほとんど話をしたことがない。さっきの
それでも、女の子と仲良くするというのは悪い気分ではない。
(吉田さんって、よく見れば
悠二は少年らしい健全かつ
シャナの方は、
(さっきのことをきっかけに、〝存在の力〟が薄れて遠ざかってた平井ゆかりと、また仲良くしようとしてるのかな)
と、内心で冷静に判断し、そのついでのようにぶっきらぼうな声で返す。
「好きにすれば?」
もう少し
「あ、ありがとう……」
そこに、
「お〜い……」
と聞き慣れた声がかかる。
吉田の後ろの方で、声をかけた
悠二は苦笑して手招きした。
この三人が加わり、にわかに机を寄せた昼食会が始まる。
田中が大声で話を始め、佐藤がまぜっかえし、池が締めて悠二が補足する。吉田はときどき小さく笑って、しかし会話には加わらず、弁当をつつく。
シャナはそんな彼らをよそに、自分の食料袋から、あんまん、
「アラストールと話しにくい」
「いいだろ別に。たまには普通の人と接してみろよ」
「なんでそんな余計なこと」
「いいから。さっき取り囲まれたときだって、まんざらでもなかっただろ?」
「わけわかんなかっただけよ」
「そういうところを直すためにも、やっぱ接しとくべきだって」
「直す? どういう意味よ」
そうやって顔を寄せてひそひそ言い合う二人を見て、吉田が初めて口を開いた。
「……二人とも、な、仲、いいんですね」
「そ、そんなことないよ!」
その
「いや、いいぞ」
「うんうん、いいな」
「いいって、絶対!」
昨日より早く訪れた放課後。
悠二は、池たちに寄り道を誘われない内にと、シャナとともに
その
「うむむ、いきなり二人して逃げ出すとは。さてはデートか? 許せん」
「許す許さんはともかく、あの
言って
「吉田さん、平井さんなら
「え……ゆかりちゃんと……?」
池は、会話の主語が、
「あのさ、吉田さん……」
その頃、学校から離れた
日はまだ高く、夕方までは間がある。
「こりゃ、絶対に池たちは誤解してるだろうな」
悠二は、
「なにを?」
「いや、こっちの話」
「?」
人のいない場所に、といいながら、
二人は、学校のある住宅地と、その対岸にビルを林立させる市街地を
悠二は、最初の夜のように、トーチのあるなしを見渡していた。
そんな気の滅入る
「そういえば、一つ、
「なに」
「こっちで〝存在の力〟を喰ってるのは、世界に
歩く二人の傍らをまた一人、自分たちと同じ年頃の女の子が通り過ぎる。かなり薄い、消えそうな灯を胸の内に宿して。
「……トーチは、世界の空白が閉じる
シャナは首を振った。
「私たちフレイムヘイズは、世界の
その胸元から、アラストールが続ける。
「フリアグネほどの〝王〟ともなれば、もちろん並みの〝徒〟とは比べ物にならない力を持っているが、あいにくと我を始め、フレイムヘイズに力を与えている〝徒〟、その全員が〝王〟なのだ。戦えば、まず無事では済まん。単純な力の強さでは推し量れない者たちもいる」
再び、シャナ。
「
「ふうん、なるほど……それで、あのフリアグネをやっつけるとして、どうやって見つけるんだ? あいつ、有名なんだったら、
「ああ、それ無理」
シャナは
「わっ、危な! ……くないのか……それで、なんだって?」
周囲から向けられる
「無理って言ったの。偶然に出会う以外で、連絡なんか取り合ったことなんかないんだもの」
「はあ?」
細い手すりの上で
その
「っと……フレイムヘイズはそれぞれの事情と理由で戦ってるし、自分の力だけを頼むような
その弾む様子に寄せられる好奇の目線に真っ赤になっていた悠二は、うん、と
「それはよく分かる」
「なんか言った?」
「いやなんでも」
「……とにかく、世界をうろついていれば、〝徒〟の喰い
「意外にアバウトなんだなあ……もっとはっきりと相手を
「だいたいの感覚で、いるらしい、ってことは分かるし、近くに来たり
いかにも
「……スカート」
目線ギリギリを、ひらひら上下に
「連中が喰うために封絶すれば、そこに割って入る。向こうが
「つまり、フレイムヘイズは個々人で、いきあたりばったりに戦ってるのか」
「そんなとこ。〝
アラストールが、むっとした声で言う。
「勝手などと気軽に言うな。我がこの世に渡り来て、愚かとはいえ同胞を討ち滅ぼすような
「はいはい、ちゃんと分かってるってば」
シャナは、これには気持ちよく笑って答えた。アラストールに対するときは、こういう
「でも、最初来たときから思ってたんだけど……この街って
シャナが目の前、のしかかるようにそびえる市街のビル群を見上げる。
幾つかの路線を連絡し、大きなバスターミナルも含む
悠二も見上げて
「妙って、なにが」
言われれば、なんでもそう思えそうだった。
今まで気にかけたことも無かった、当たり前の光景。しかしその薄皮の向こうには、どこまでも深く遠く広がっている、別の、
「あのフリアグネ一人が普通に喰った結果としては、トーチの数が多すぎるのよ」
シャナは、悠二が自分たちの参考になるような意見を、思わぬ観点から出すかもしれない、という期待を込めて言った。自分の使命に関することだけに、この期待からは学校でのような
「燃え方も、昨日喰われたような新しいのから、消える寸前の古い
「……それが?」
その頼りない答えに、シャナはがっかりした。
「察しが悪いわね」
やはり勝手に期待して勝手に失望して……その自分らしくない、他人を気にかけているという事実に、シャナは今さらながら、むかっ腹を立てた。それが自分の勝手だと分かってはいても、声に不機嫌の色が落ちるのは隠せない。
「力を、喰って使って遊ぶのなら、うろつけばいいわけだし、普通〝
「なにかって、なに」
もう少し
「そんなの、分かるわけないじゃない。あのフリアグネって
なぜかいきなりシャナが不機嫌になったので、
「……で、結局どうするつもりなんだ?」
「日暮れ前まではここらをうろついて、それから先はおまえの家で待ち構える、ってとこ」
「なんだ、やっぱり向こうのアクション待ちってことか」
悠二も、無自覚に鋭いことを言う。
シャナは、さらにむっときて、黙った。
悠二はまたビル街を、人探しにも物探しも向かない場所を
「……こうやってる間にも、誰かが喰われたり、消えて忘れ去られたりしてるのかな」
いまさらの話題を、シャナは簡単に肯定した。
「そうよ。世界中で、昔からずっと」
「これがおまえの知った『本当のこと』……恐い?」
二人の
でも、もう、すぐにいなくなる。
これが、本当のこと。
自分の、避け得ない未来の姿。
悠二はそのことを思い、しかしなぜか静かな気持ちで答える。
「言ったろ。もちろん、恐いよ。でも、そうだな……どこか、すっとしたんだ」
その不思議な答えに、思わずシャナは、今までの不機嫌を忘れて、悠二の顔を見上げていた。
シャナは
「……行くわよ!」
「どこへ?」
「分かるわけないでしょ!」
悠二は全く、わけが分からない。
「……あのさ、さっきから、なにを怒ってるんだ?」
「怒ってない!」
言えるわけがなかった。
その顔は、少し良かった、などと。
そういう事を考えてしまった自分に、困ったり
「やっぱり怒ってるじゃないか……変な
「怒ってないったら怒ってない!!」
「はいはい……」
首を
人通り激しい
悠二とシャナのいる、橋の
「おっ、やっと歩き出した」
先頭にいるのは、
その背後から、
「で、でも、いいんですか、つけたりして……?」
その遠慮がちな声に、
「気にすることないって、吉田ちゃん。別に
「は、はあ……」
「向こう楽しい、俺たち無害、つまりオールオッケーってこと」
その佐藤と吉田の後ろに、そびえるように
「そうとも! ここは我々としても、後学のために
「は、はい」
「おい、あんまり騒いで見つかるなよ。
気がした。
「ん、どした、池」
池は、ふと振り返る。肩をぶつけたはずの……何だったか?
「え? いや」
池自身も、首を
そんな彼の後ろから、ためらいがちに、吉田が小さく声をかけた。
「あの、二人、行っちゃう……」
「お、急げ急げ! 決定的瞬間を見逃しちまうぞ」
「なにを期待してるんだ?」
田中の叫びに
そこで消えた一つのトーチには、誰も気を払わなかった。
そこで途切れた一人の女性の存在に、誰も。
世界は変わらず動いている。
そんな世界を見下す、あやふやな白い姿が、とある高いビルの屋上の
〝
その
「久しぶりの〝ミステス〟が、まさかフレイムヘイズと一緒に現れるとはね……しかもそうなることで、私は戦わねばならなくなった……
その足下に、
「ご主人様。あのフレイムヘイズ、仮にも〝
フリアグネは、それに目線だけを流して、急に穏やかな顔になった。
「大丈夫だよ、マリアンヌ。私は、フレイムヘイズ相手なら絶対に負けない……そうだろう?」
「はい。しかし、せっかく
主に似て、マリアンヌも
フリアグネの顔が、物憂げに曇る。
「そうだね……連中は、こっちから手を出しさえしなければ、なにもできないはずだから、まだ時間はあるだろう。計画の
す、と手を差し伸ばす。
「そうとも、今さら邪魔などさせるものか……君を、君という存在を、私は作って見せるよ、私のマリアンヌ」
「ご主人様……」
マリアンヌも、ふわりと浮いてその手を取る。
無数に繰り返してきた、
フリアグネは、この世で作り、そして恋した人形を胸に抱く。
「君を、〝
「すでに十分な〝意思〟は頂きました……まだ、足りないのですか?」
これも、何度となく繰り返されてきた問いと、答え。
「ああ、足りない。今の君は……〝燐子〟という存在は、とても不安定だ。〝存在の力〟を集めることはできても自分に足すことはできず、私たち〝
その心中を表すように、声の音律はふらふらと乱れている。
マリアンヌは逆に、確信を声にする。
「私は、それがご主人様との、分かち難い
「
誓いつつ、フリアグネは抱く腕に力を込める。
「ようやく、君のために必要なだけの力を得られる
いつしか顔には満面の笑みが浮かんでいたが、またすぐ、
「そうしよう、マリアンヌ、そうするべきだよね?」
抱かれた人形・マリアンヌの顔は、変わらない。
声だけが、
「はい、その通りです、ご主人様」
ぱっ、と子供のように顔を明るくして、フリアグネは高らかに、調子っ
「歓迎の準備をしよう、マリアンヌ!
「はい、ご主人様!」
フリアグネは
その火花も、すぐに陽光に溶け、風に
夕暮れに少し間を残す、白けた昼。
その気だるい空気の中、
「つ、疲れた……本当に歩き続けさせるんだもんな……」
悠二はほとんど足を引きずるようにして歩いていた。
結局、何の成果もなかった。そもそもが、手がかりはなし、あるのは目的だけ、相手の出方を待つ、という探索だ。当然と言えば当然の結果ではあった。
「うるさいうるさいうるさい。最初に言った通りのことをしただけでしょ、後で文句言わない」
言うシャナの足取りは、当然と言うか、全く変わりがない。とりあえず、機嫌がなおっただけでもましとすべきか、と悠二はポジティブにものを考えてみたりする。
「ふう……ま、帰って一休みできるからいいか」
「な〜に、お気楽なこと言ってんの。夕方にはまた一戦あるかもしれないんだから、警戒は続けるわよ」
シャナは悠二の希望をさっさと
悠二は、そこまで彼女を理解できている自分に、思わず苦笑した。
「はいはい……ん?」
信号待ちで足を止めた悠二は、その反対側の人込みに、たまたまトーチを五人ほど見つけた。
「なに?」
「いや……昼に言ってただろ。トーチが古いとか新しいとか……それで今日は、歩くついでに注意して見るようにしてたんだけど、たしかによく見れば分かるもんだな、って」
悠二の目には、その五人のトーチの胸に
真中の、
なんとも、道理から
「なんだ、そんなこと」
シャナは笑い飛ばした。
悠二も、この外れた世界に引き込まれる気分を吹き飛ばそうと、あえて軽口で返した。
「そう、そんなこと……でも、やっぱり気分のいいもんじゃないな。人ごとに不気味に
「……鼓動? なんのこと」
シャナが
「え?
「うん、見えない。アラストール、あなたは?」
「我にも見えん」
シャナはじろじろと
「おまえって、本当に変な〝ミステス〟ね。なに入れたら、そんな力が出るの?」
「こっちこそ
信号が青になって、人が流れ始める。
二人も歩き出した。
「でも、アラストールにも見えないのに……それ、本当?」
シャナの疑わしげな様子に、悠二は少し傷つく。
「ちゃんと見えてるって。ほら、前の新しいトーチの中、速く動いてるだろ」
「だから見えないんだってば。新しいってのは分かるけど」
不意に、アラストールが言う。
「
この〝
悠二は改めて周りを見回し、確認する。
大通り沿いの歩道には、一巡り見回すだけで、二、三十はトーチが見える。それぞれ、胸の内に抱く灯の
自分はどうか、と確認すれば、それは速くも遅くもない。
規則正しい
悠二は求められた問いに、自分の持つ
「うん、全部、鼓動してる」
「トーチの多さと関係あるのかな」
シャナの疑問に、いつもならすぐに返ってくる答えがない。
「……アラストール?」
やはり答えはない。
シャナも悠二も、彼の答えを待ち、ただ黙って歩く。
次の信号に差し掛かる頃になってようやく、アラストールは口を開いた。
「かなり昔、西の果てに、自分の喰ったトーチにとある仕掛けをして、とんでもない世界の
いきなりの昔話に、二人は面食らった。
「
シャナが、
「……どんな事件?」
「『
その、たった一言の持つ、
目の前で、信号が赤に変わる。
シャナはスーパーに入っても、目の前の生鮮品には目もくれない。通常の買い物の順路を無視して、その中心辺りにあるお菓子売り場に向かう。
「……」
気の抜けた顔の悠二が、その後に続いている。
赤信号になった歩道の横が、たまたまスーパーの入り口で、シャナが、戻るついでと夜食を買いに寄った。それだけのことなのだが、
(にしても、スーパーで敵の
震え上がった自分が馬鹿みたいに思えてくる悠二である。
アラストールは、このシャナの行動を
「その〝
「それが、なんになったの?」
買い物カゴを下げたシャナも、別に不真面目なつもりはない……というか、彼女がこういうことでふざけることなど、まずなさそうだが。
「彼奴は、
シャナは棚から袋菓子を取りながら、そのついでのように悠二を見る。
「……おまえ、ついてきてる?」
「まあ、なんとか。要するに、人一人いなくなることを、ゆっくり存在感をなくしてくことで
悠二は確認するようにシャナを見、その
「なのに、それがいきなり、たくさんいなくなったら、世界が矛盾だらけで
「よろしい」
シャナはもう一度頷いて、次の棚に向かった。
今のは
「アラストール、それで?」
「うむ、後は簡単だ。その巨大な
シャナは話題への緊張感もなく、冷蔵棚から子供用の甘いコーヒー飲料を取りつつ言う。
「それが『
「多くの〝王〟とフレイムヘイズたちによる、長い戦いを経て、ようやくな。なにしろ、〝棺の織手〟は都市一つ分の力を喰らい、しかもそれを〝自在〟に操れるだけの……当時の
悠二は、にわかに危機感を感じ始めていた。
「……それで、その大昔のとんでもない秘法が今、ここで進められてるっていうのか?」
「一つ所におけるトーチの異常な多さと、その中の不可思議な仕掛け……状況があのときと
可能性と言いつつも、アラストールはほとんど確信しているようだった。
「そうか、そうだよな……」
実は、この話を聞くまで、悠二はフリアグネ一党を、『たちの悪い通り魔』程度にしか思っていなかった。身近なようで、しかし実際には襲われたのは自分だけ。自分が抱え込んでいれば周りにその脅威は及ばない。その内シャナがやっつけてくれる。
そんな錯覚を持っていた。
しかしもし、連中が本当に『都喰らい』の成就を企てているのなら、
自分どころか、母も友人も、暮らしていた街さえ、消滅してしまう。
悠二は初めて、フリアグネ一党への敵意を覚えていた。
恐怖ではない、敵意を。
シャナはそんな悠二をよそに、気楽そうに言う。
「でも、見た限りじゃ、トーチの数もまだ一割には程遠いわね。
「本当に、向こうのアクションを待つしかないのか?」
急に意気込んで言う悠二に、シャナは意外そうな顔をした。
「ん〜、とりあえず、こっちにも
「餌?」
「おまえよ、〝ミステス〟。なんせあいつは、〝
「そうか、そういうことでなら、僕でも何かの役には立てるな」
(……? ま、いいか)
いつしか買い物カゴを一杯にしていたシャナは、最後にレジ近くの棚でパンを選ぶ。やはりその視線を釘付けにしているのは、メロンパンだった。さっきまでの話題など頭から消えたかのように、何種類もあるメロンパンを、
悠二が後ろから
「これは? 本物のメロン果汁入りとか書いてるぞ」
「
言下に否定された。
「なんでさ。値段なんかどうせ関係ないんだろ?」
シャナは、買い物カゴと
「メロンパンってのは、網目の焼型が付いてるからこそのメロンなの! 本物のメロン味なんて、ナンセンスである以上に、
突然の大声と主張に、周囲の買い物客たちからも、おお、と声が
「はあ」
と悠二も、その堂々たるポリシーの表明に、同意するしかない。
結局、厳選の作業には、それから十分の時を要した。
二人はスーパーを出た後も、トーチ内の
今にも襲撃を受けそうな
「……」
しかし悠二は家に入らない。門の脇から狭い庭に回って、
シャナが不思議そうに
「なにしてんの?」
悠二は、じとっとした視線をシャナに向ける。なるほど、たしかに彼女はこういうことを考えなさそうではある。
「母さんが一緒にいるようなときに、昨日みたいな
「ふうん、家族思いなのね」
「普通はそうだろ」
シャナは、元この世の人間だと言っていたが、フレイムヘイズになる前は一体どこでどうしていたんだろうか。彼女にも家族がいたんだろうか。
そう考える間も、シャナは無表情に固まっていた。やがて、簡単に答える。
「……まあね」
シャナも悠二の側にしゃがんだ。スーパーの袋から、キャンディの袋を取り出す。
それを見た悠二が、やることもないので、手を差し出す。
「一つくれよ」
「
例によって身も
ぴくりと
「いっぱいあるじゃないか。一つくらいくれよ。甘い物は疲れたときにいいんだ」
「嫌。知ったこっちゃないわ」
「くれよ。今日は『
「嫌。たまたまの
だんだん、二人とも意地になっていく。
(……やれやれ……)
アラストールが
「くれよ」
「嫌」
「くれ」
「嫌」
「く」
「嫌」
「ケチ」
悠二が戦法を変えた。
今度はシャナが
「……なんですって? よく聞こえなかったわ」
「どケチ」
びし、と青筋がシャナの
「ど、を付けたわね……?」
「聞いてたんじゃないか。くれよ」
「絶対嫌!」
二人は庭の茂みの中で、額をぶつけるようににらみ合う。
「絶対、を付けたな!?」
「付けたがどうしたのよ!」
「どケチの証明したってことだよ!」
「あ、また言った!?」
「言ったがどうした!」
その二人の頭上から、声が降ってきた。
「
二人して上を向くと、おっとり顔の女性……悠二の母親である
「……見つかっちゃったわね、ゆーちゃん?」
ぷぷっ、とシャナが口元を押さえて笑う。
「……」
わずかに目元を引き
「…………アラストール」
「なんだ、ゆーちゃん?」
「……………………もう、夕方は過ぎたよな」
いつしか頭上は
「……なんでこーなってんの」
「僕は知らん」
「我も知らん」
シャナは、
彼女を見つけて玄関先に
「
と満面に喜びを示した千草は今、台所で、これでもかとばかりにご
シャナは伏目がちに、対面に座る
「おまえの母親、なんで、
一言一言を強調しながらの抗議は、目の前の皿に盛られた、エンドウの
悠二の方も、
「って言うか、なんでこのちびっ子に対して、ああいう解釈ができるんだ」
好物の、ぶり大根の煮付けも、今日ばかりはつまみ食いの手を伸ばす気が起きない。
「昨夜のことといい……貴様、実は本当に、そういう趣味を持っているのではなかろうな」
「あのね!」
アラストールの真剣な
「ちょっと悠ちゃん、これ運んでくれない?」
「あ〜、はいはい」
言われて、ゆるゆる
「こ、この上オムライスまで!? 作り過ぎだろ!」
「いいじゃない、ヒミツの隠し味が入ってて
「なんに困るんだよ!」
「またまた〜、ふふ、
「もうその話はいいって!」
奥で交わされる会話を聞いていたシャナは、ふと目を閉じる。
「……」
目を開ければ、温かな、家族に食べさせるための食事がある。
目をやれば、
「……」
また、目を閉じる。
やがて
皿の上には、やけにドでかいオムライスが一つ
千草が、人のよさそうな……というより、人のよいとしかいえない笑みを浮かべて言う。
「さあ、召し上がれ。遠慮しないで、たくさん食べていってね。デザートも用意してあるから」
そんな千草の笑顔に
夕食の後も延々、『二人のお話』を迫って引きとめる千草から引き
千草が『
ついでに、
「暗くなってるから彼女を送ってあげなさい」
との千草の命令を受けた悠二は、送る当の本人が
「守るとか言ってたくせに、襲われたらどうするんだ、まったく……」
などと、非常に情けない文句を言いつつ、近くのコンビニで時間を
そんなシャナが、屋根の上に孤影ながら二人として、座っている。
悠二は部屋の窓の
そろえた
今日の空には、雲がない。月が明るかった。
「ねえ、アラストール」
なんということもなく、話を始める。
悠二と出会って以来、なぜかこういう癖がついてしまった。
それまでは、騒がしいとき、静かなとき、止まってるとき、動くとき……どの場合も、沈黙を保つことが義務であるかのように、口数少なく過ごしてきたというのに。
「あなたの
「分かっている。おまえの契約文言は、いろんな意味で傑作だった」
目の前、手に
そう、この恐ろしげな名の割には結構な人格者で世話好きな〝
今までも答えてくれたのだろう、自分が勝手に押し黙っていただけのことなのだろう、誰かのおかげでそれが……とまで思って、なんだか
そういう心の動きに関係しているのか、力の抜けた笑みがもれた。
「ふふ、ありがと」
「おまえは、
「普通に火が出せないのは、そのせいかな……もし〝
その声は、わずかに沈んでいた。
アラストールは声に苦笑を混じらせる。
「フリアグネに言われたことを気にしていたのか。案ずることはない、おまえを本気にさせるだけの敵に、これまで出会えなかった、その結果に過ぎん」
「うん。ただ契約どおり、冷静に確実に、〝紅世の徒〟を討ち滅ぼすために戦ってきた、それだけなんだけど」
「我だけを連れてな。誰と交わることもなく」
「交わらなくても、なにも困らなかった」
それはシャナの本音だった。
アラストールも本音で答える。
「そうだな。交われば、むしろ困ることが増えるだろう。しかし」
「?」
「悪くはなかろう?」
ふと、
答えを、いつものように明確に返せない。
「……そうかな」
シャナは、
(今日は、登って来て欲しくないな……)
思う内に、寝息を立て始めていた。
悠二も、今日は探索と監視に加え、夕食後の神経戦という
一人、小さな手に
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