2 夕日、雨の夜、そして朝
重い気持ちを抱いて、
いつも通りの、日常の風景。
悠二は教室を見回して、中学以来の友人、頭脳
もちろんこれは単なる毎朝の習慣で、彼に相談したりするつもりはない。まともな頭の人間に、今の自分の立場を理解してもらえるとは到底思えない。
(いっそ誰かが、僕の見えるもの感じること
と悠二は後ろ向きに思いつつ、のたのたと教室の真中辺りにある自分の席へと、足を引きずってゆく。席に腰を下ろすと、
(そういえば、一時間目の日本史、小テストだっけ……範囲はどこら辺だったかな)
と日常を過ごす、その必要性から思い出した。いつものように右隣の席に座っている
そして、そこに発見した。
「な……!」
自分の正気の完全な証明を。
日常の破壊者を。
平井ゆかりが座っているはずの席に、座っていた。
「遅かったわね」
フレイムヘイズの少女が。
「なんであんたがここにいるんだ!?」
「おまえを
少女がスカートの中で足まで組んで、全く当然のように
「ひ、
「ここにいたトーチなら、私が割り込んだから、もうなくなったわよ。おまえの隣で、ちょうどよかったしね」
「……トーチ……平井さんが……?」
予想していた最悪の事態は、あまりにも
自分の日常が
それを知らせた少女は、昨日と全く変わらない。平然と、非情の声を
「そ、本人はとっくに死んでた。私は、その残り
「か、顔とかが全然違うだろ!」
思わず悠二は声を荒げていた。驚いたクラスメートたちの注視に、
「……なんで誰も気付かないんだ」
「存在に割り込む、ってのは、元の人間に似せるとか、そういうことじゃないの。
「気にするに決まってるだろ! 平井さんはどうしたんだよ!」
ああもう、と少女は頭をかいて、
「さっきから言ってるでしょ。平井ゆかりは私だって」
少女の言うとおり、クラスメートは誰も
いや、彼女が以前からここにいるものと
悠二は、説明の細かい内容はともかく、これら彼女がやったことの意味はだいたい理解していた。しかしそれでも、言わずにはいられなかった。
「そういうことじゃなくて!! 元の平井さん、本当に、昨日までここに座っていた『平井ゆかり』は、どうなったんだ!?」
また大声を出した悠二を……挿げ替わった平井ゆかりではなく悠二の方を、クラスメートたちが
悠二はそれらの表情で知らされる。
彼らからすれば、おかしいのは自分の方なのだ。
しかしそれでは、自分が知っている彼女は、彼女の存在は、あまりにも。
「昨日説明したでしょ。ここに座っていた平井ゆかりは元からいなかった……そういうこと。どうせ
「……」
特別に親しかったわけではなかった。目立たなかったし、おとなしかった。この四月から一月ほど、偶然隣席にいた、それだけのクラスメートだ。印象深い思い出もない。
(でも、彼女は、
そのことを、本人が覚えていて欲しかったかどうかは分からない。そんなことを考えるだけの事情も知らないまま
それでも、
今、同じ席に、平井ゆかりとして座っている少女。
それは彼女ではない。
それを自分は知っている。
それが、恐らくは唯一の、彼女が存在した
「……あんたの名前は?」
「名前?」
「『フレイムヘイズ』ってのは、怪物退治する
「……え」
予想外の質問だったらしい。少女は不意に、顔を曇らせた。
「私は、このアラストールと契約したフレイムヘイズ、それだけよ。それ以外に、名前なんかない」
その顔から寂しさは消えていたが、今までの平然としたそれとは少し違う。
表情を消した顔だった。
「他のフレイムヘイズと区別するために、〝『
「ニエトノノシャ……?」
「『贄殿遮那』。私が持ってる
「そうか。じゃあ……そうだな、僕はあんたを〝シャナ〟って呼ぶことにする」
平井ゆかりと、彼女は別人だ。
だから彼女には、別の呼び名が必要なのだ。
それは悠二にとっては重要な行為だったが、当然と言うべきか、シャナと名付けられた少女にとってはどうでもいいことだった。彼女は首を
「勝手にすれば? 呼び名なんかどうでもいいし、私は私の役目を果たすだけ」
「それは、僕を守るってこと?」
「守る……?」
シャナは、あからさまに
「ま、おまえに喰いつく奴がいる内は、そういうことになるかもね」
まったく、この少女の言い方は身も
その、
「それよりシャナ、あんた授業とか受けて、大丈夫なのか?」
シャナは、さっきとは別の理由で
「勝手に名付けて、いきなり呼び捨て? ま、いいけど……それに、授業ってのも、この程度のお遊びでしょ?」
そんな、見た目は中学生さえ怪しい少女の、いかにも小馬鹿にしたような様子に、悠二はきな
始業の
四時間目、英語の授業も終盤に差し掛かろうとしている。
教室は静寂と緊張の中にあった。
生徒たちは立てた教科書の中に顔を隠している。最初こそ通常通りに授業を行っていた英語教師も、今はひたすら板書を続けていた。
この異様な雰囲気を、圧倒的な迫力と存在感で作り出している
少女は、教科書を閉じて、ノートもとらず、ただ腕を組んで教師を見ていた。
この何でもないはずの態度が、教師を動揺させている。彼女の視線が、まるで野生動物でも観察しているかのように無遠慮で、敬意や尊重を全く含んでいないと、分かってしまうからだった。こんな授業態度を、朝から四時間連続で取っている。ちなみに、
特に突っかかってくるわけでもないのだから、放置しておけばよいのだが、教師というのは、
そしてとうとう、この英語教師も前三者と同様に、少女の無礼な態度に我慢できなくなった。
不幸なことに。
板書を終え、英語教師は振り向いた。この、教え
「ひ、
平井ゆかり……悠二が名付けたところの少女・シャナが、答えるのではなく、ただ、言う。
「おまえ」
いきなりこれである。
見かけの幼さに
「その穴
シャナは、腕組みさえ解かない。
「う……!?」
「正しい答えは『That which we call a rose, By any other name world smell as sweet.』だけど、原文を覚えてないと出てきっこない」
さらに
「その板書も、段落で見たら、あと二文も足りないわ。おまえが持ってるマニュアルのページ単位で書き写しているだけだから、そんなことになるのよ」
反論の余地の無い、痛烈で的確な指摘に、英語教師は思わず一歩下がった。
普通なら、肩書きや立場といった、自分の能力とは無関係な
弱者に弱者たることを自覚させる、強者の
しかもこの強者、
「おまえ、教師のくせに、学力がなくてマニュアル外に手が届かないし、説明も
英語教師の顔が
「私に教えるつもりがあるなら、ちゃんと勉強してから出直しなさい」
生徒たちは
そういうことが延々四時間も続いたので、昼休みになるとクラスメートは息抜き……というより息
悠二が予想していた騒ぎは、暴力面においては完全なマイナス方面に裏切られたが、精神面においては完全なプラス方面に裏切られたわけだった。
暴力を振るわれるよりも、アイデンティティを
(何人、立ち直れるかな)
ただでさえ昨今の教師たちは、肩書きに無条件で与えられていた権威や信頼を(ほとんど自らの行いで)失いつつあるというのに……などと社会派を気取りつつ、コンビニおにぎりに喰らいつく
隣の席を見れば、
「なあ」
「なに」
外は騒がしいのに教室には二人だけ、そんな
「あそこまでしなくてもいいだろ」
シャナは
「なにを?」
「……いや、もういい」
シャナは首を
昨日怪物を圧倒した姿が
「昨日もタイヤキ食ってたけど……あんたも腹がすくのか」
「んむ、当然でしょ」
悠二はついでとばかりに、昨日から気になっていたことを尋ねてみた。
「ところでさ……その声の出るペンダント、通信機なのか?」
「似て非なるものだ」
セーラー服の胸元に出されているペンダントから、午前中は黙っていた声が答えた。ここに二人しかいないからだろうか。
「これは、この子の内に
「……ウチニゾウサレ? ケンゲ?」
シャナが、横目で
「アラストール本人は、契約者である私の中にいて、このペンダントは、その意思を表に出す仕掛けってこと」
悠二は、不思議を理屈で考えるのをやめた。説明に素直に納得して、
「契約者……そういえば朝も、この彼(?)と契約してフレイムヘイズになった、とか言ってたな。あんた、やっぱり元は人間なのか」
「そうよ」
とシャナ。
「なんでフレイムヘイズなんかに?」
「おまえの知ったことじゃないわ」
それは名前を
「……じゃあ、さ」
ふと、教室を見渡す。誰もいないので、アラストールの話も聞けてちょうどいい。
「
悠二としては、特に深い意図を持って言っているわけではない。ただ、山積みの疑問を片付けないと気持ちが悪い、それだけのことだった。
シャナの方は、これは当たり前だが、あっさりしたものだ。
「さっきから訊いてると思うけど……で、なに?」
とりあえず悠二は、根本的なことから尋ねてみる。
「そもそも、グゼってなんなんだ」
そんなこと? という顔で、シャナはメロンパンの最後の一切れを口に放り込んだ。
「ん〜、〝
「異次元人……みたいな?」
これにはアラストールが答える。
「貴様らの概念で言い表せば、そうなる。貴様を襲ったのは、〝徒〟自身ではなく、そ
「こっちの世界を乗っ取りにきた侵略者とか?」
「さてな、目的は各々による。
「……なんだって?」
まったく、アラストールの言い回しは
シャナがまた説明を加えてやる。今度はため息をつきながら。
「この世には、〝存在の力〟っていう根源的なエネルギーみたいなものがあるの。それがあって初めて、どんなものも存在できる。別の世界〝紅世〟から来た、本来この世に『存在しないもの』である〝徒〟たちは、その力を得ることで、この世に存在できる……分かる?」
「ん〜、な、なんとか」
こめかみに指をやって必死に理解しようとする
「で、この世に居座るためには当然、〝存在の力〟を使い続けなきゃならない。だから、彼らは人間からその力を集めてるの」
「〝存在の力〟を集める、って昨日の、あれのことか……」
悠二の脳裏に昨日の、怪物が
シャナは気楽に頷く。
「そ。で、それぞれの目的とか
「この世の理から
アラストールが、予想外に
それをよそに、シャナは袋の中から取り出した一パック三本入りのみたらし団子をパクついている。ほくほくと、
「そのバランスを崩さないために、乱獲者をやっつけるのがフレイムヘイズ、か……」
言いつつ、悠二もおにぎりをまた一個、口に運ぶ。
さっきのおぞ気は未だ背筋を冷やしているが、目の前のシャナがあまりに
「はぐ、んで、その〝存在の力〟を吸い取るのは……まあ、話を聞いてたら、
アラストールは、物を食べながら話をするという無作法を気にしないらしい。変わらず重く低い声で答える。
「当然だ。我らと近しい、深く強い意思ある存在であればこそ、力を得る意味がある。
「チカシイ? 〝紅世の
「貴様らの概念での説明は
悠二は、スポーツドリンクのプルを開けてため息をつく。
「ふうん……でも、昨日今日、見た限りじゃ、飲み干される日も遠くなさそうだけど」
「そうでもない。我らは古くからこの世に侵入し続けているが、人間は増え続けている。貴様が生まれる前から世界はそうやって動いていたのだ。大勢に変化はなかろう。〝徒〟の暴走を食い止めんと動く、我らフレイムヘイズという存在もある」
「これが、頼りになるのかな」
「ん〜、だから言ったでしょ。おまえっていう
本当に、この少女は身も
その悪意のない、ひたすら事実をぶつける率直さに、悠二はなんだか慣れてきている自分を感じた。腹立ちよりも苦笑が
「心強いお言葉……でも、
「とりあえず、夕方を警戒するわ」
周囲の世界との
だから、
「封絶……昨日、聞いたっけ。ゲームとかでよくある
悠二は納得しかけてから、とある事実に気付いて
「今日は授業が遅くまであるぞ!
シャナが、
「なに当たり前のこと言ってんのよ。私がなんのためにここにいると思ってんの?」
一瞬、
「皆も守ってくれる、とか……?」
「なにそれ?」
悠二は立ち上がった。
「どこ行くの」
「トイレだよ!」
と言い捨てて教室を出る。
歩きつつ、そういえば彼女は『食うだけ』なのかな、などと少々下品なことを考えていた悠二は、トイレの前で呼び止められた。
「おい、
その、声をひそめた叫び、という器用な呼びかけに振り向くと、仲のいいクラスメートが三人、彼を手招きしていた。
そういえば、朝からシャナとのことにかかりっきりで、彼らとは
「みんな、今日は食堂だったのか?」
その一人、中学からの友人で、頭も人もいい、メガネマンこと
「違うよ。それより
その横、美をつけてもいい容姿を持ちながら、
「ホント、勇気のある
「だいたい、おまえらって、そんなに仲良かったか? 抜け
と
「いや、仲がいいとかそんなのじゃなくて……」
(…………っ)
悠二はふと、この親しい友人たちを……目前にある日常の光景が本物なのかどうかを……朝に一度確かめたというのに、また確認してしまっていた。そんな自分が
友人たちに変わりはない。むしろ変わったのは自分で、彼らはそのことを
「二人っきりで弁当食べて会話して。十分『そんなの』だろう」
「
「実はロリ属性持ちだったのか。
さすがに血圧が上がってきた。
「あのな……」
言い返そうとして、ふと声が途切れた。
夕方。〝
何事につけ考えることを昨日から繰り返しているせいか、それともトーチの確認を行うたびの習慣になったのか、
早退するべきだろうか。そうすれば、少なくともここが戦場になることはない。
その
「やっぱり、やましいところがあるな?」
池がメガネを
今になって気付いた大事なもの。
「ああいう
佐藤が
なんということのない、馬鹿なやり取り。
日常。いつもの風景。
無くしたくない、変えたくないもの。
(怪物一味だって、昨日の今日で来たりしないんじゃないか?)
悠二は、
(そうさ、取り越し苦労ということもある、今日来るとは限らない、今日一日くらい……)
そうだとは分かっていても、すがりたかった。
「このムッツリが! おとなしい顔して、一体どういう
とりあえず、詰め寄る
そして、しかし、敵は来た。
切れ切れの雲の
ホームルームを終えて、教室を出てゆきつつあった生徒たちをも染める、
その赤が、
「う!?」
授業が終わった、何事もなかった、と完全に油断していた
床に火線が走り、
生徒たちが、それぞれ動作の途中でピタリと静止した。
悠二は、これが何であるか、知っていた。
(……
全身に響く世界の違和感、あるいは流れの変調のような感触に
やはり自分は、
この異世界の側に立っていた。
自分の中に収められた〝何か〟のために。
その隣席で、シャナがおもむろに立ち、言った。
「来たわね」
その強い線を描く
「ほ、本当に、今、ここに!?」
悠二の胸に、恐怖と後悔が押し寄せた。
「本当に、今、ここに、来たわ」
シャナは、そんな悠二に無自覚の断罪を下し、さらに強く
「さあ、やるよ」
シャナは軽く床を
そして火の
その舞い咲く火の粉の向こうに、いつしか
一瞬、その後ろ姿に
「ま、まだ皆が!
「封絶したのは敵よ。向こうに言えば?」
シャナの言葉はいつも
「くっ!!」
すでにそういう彼女に慣れてしまった悠二は、どうせ
(ぼ、僕のせいなんだ! 僕がやらないと!)
幸い、ホームルームの後でもあり(ついでにシャナから早く逃げようとして)、教室内に残っていたのは、自分たち以外では四人ほど。シャナが向いている窓側には、
悠二はその、窓際に立って
「ちょ、ちょっとゴメン」
「っと、お、重いな、この!」
と本人が聞けば二、三度は殺されそうな感想を
再び教室に入って見れば、シャナはまだ机の上で立ったままだった。大太刀は両手で構えられ、
その痛いほどの静けさの中、シャナの向き合う正面、窓の外に一点、何かが小さく浮かんだ。
悠二はその不思議なものに目を止め、立ち止まっていた。
赤く燃え、揺れる
くるりと回って見せた
(……トランプ?)
その宙に浮く、一枚の薄いカードから、はらり、と、ありえない二枚目が落ちた。続けて三枚、四枚……赤い光の中に、カードが次々と
と突然、そのカードの
「……っ」
叫びをあげるための空気が
そして、食い止められた。
「わあ! ……?」
シャナが左腕を一振り、コートの
シャナはその間すでに、左腕を再び
瞬間、
机の板が
カードの流れの一点へ、横合いから
「ぎ、ぐああああッ!!」
絶叫が上がり、カードの流れに
刃の
爆発が、教室を
シャナは、その爆発を眼前に受け、しかし
コートの壁を
「うう、わッ!?」
爆風が収まると同時に、コートの
悠二の目に、ようやく教室の全景が入った。
床は焼け
悠二にとっては、自分の良く知る場所だけに、昨日の繁華街での光景よりも、受けた
その光景の
その前に軽く差し上げた大太刀の切っ先に、とある物、あるいは者が、引っ掛けられていた。
昨日、シャナに
(たしか、〝
その人形が、肩口から胸まで斬り下げられた切っ先を深々と体に
「ぎ、う……」
その赤い糸で
シャナが、その人形に何か言おうとして、ふと周りを見回した。
さっきから散っていた薄白い火花が、地面を
「う、く、くく……!」
いつしかうめきを忍び笑いに変えていた人形の傷口から、いきなり大量の火花が噴き出した。
それは一粒一粒をセルロイドのドールの頭に変えて、人形の全身に張り付く。その頭だけのパーツが、人形を中心としたいびつな
周りを跳ねていた火花も同じく、ドールの頭に変わって、くすくすと笑い出す。不気味な包囲網が彼女を取り巻いていった。
その異様な光景にあとずさって壁に張り付いた
男子生徒が三人、さっきの爆風に吹き飛ばされて、教室の隅に押しやられていた。そのところどころ
その
(……甘かった! 僕の考えが、全部、僕が!!)
後悔が、罪悪感が、彼を
「
倒れている中の一人、友人の名を呼んで
「く、ききき……」
ドールの頭で組み上げられた巨躯の中心で、人形が笑った。その太い両腕がシャナの
「もらったわよ、フレイムヘイズ!!」
その叫びを受けて、包囲網を作っていたドールの頭が、瞬時に巨腕を形成し、池に取りすがる悠二へと向かう。
「なにを?」
シャナは平然と答え、両爪先を支点にくるりと脚を
体をいっぱいに
同時に
「は?」
人形の視界が突然、高速で流れる。
シャナが、人形の
「っだあ!!」
シャナが
一撃で巨腕が、巨躯が
「っな、わ!?」
わけも分からず、倒れた
その、
「っわわ!!」
悠二は池を背に隠すように、腰をずり下げた。
今や人形は、毛糸の髪も根元から炭化し、ボタンの目も片方がちぎれていた。服どころか、体内の綿もほとんど吹き飛んで、ようやく肌色のフェルトが
「ひ、ひどいな……」
「助けられといて、なに言ってんのよ」
簡単に答えたシャナは、その無惨な姿の人形を、
「おまえの主の名は?」
人形は、赤い糸もほつれた口で、息を荒くするのではなく、音の飛ぶCDのように、途切れ途切れに答えた。
「わ、たし、が言うとお、もうフ、レイ、ムヘイ、ズ」
「ううん、ただの確認。でもまあ、
「……う、ぐ」
人形は、あからさまな
そこに、
「うふふ、有益な威力
と
シャナが声のした瞬間、体を向け、
その先、破壊され開けられた窓の外に、長身の男が
背負った赤い
「こんにちは、おちびさん。
触れれば
悠二は直感する。
(こいつが、〝
ここにあることがおかしい、そんな違和感の
シャナが、その男の声とはまた逆の、
「あんたが主?」
「そう、〝フリアグネ〟、それが私の名だ」
アラストールが、わずかに声を低くして言う。
「フリアグネ……? そうか、フレイムヘイズ殺しの〝
フリアグネと名乗った男は、薄い切り口のような
「殺しの方で、そう呼ばれるのは好きじゃないな。本来は、この世に散る〝
その視線が、シャナの胸元のペンダント〝コキュートス〟の中を刺す。
「そう言う君は、我らが〝紅世〟に威名
次いで、シャナに目をやる。
「……なるほど、これが君の契約者『
勝手な感想を並べるフリアグネをよそに、アラストールは小声でシャナに注意を
「なよなよした見かけや言動に惑わされるな。多数の
「うん、感じてる」
シャナは足裏をわずかに
「ふふ、そんなにしかめっ面をしなくても……」
言って、フリアグネは何気なく床に放り出された人形を見る。
その
「マリアンヌ!!」
急に表情が悲しみの色に染まり、調子っ
「ああ、ごめんよ、私のマリアンヌ! こんな恐い子と戦わせてしまって」
芝居がかった動作で振られた手にはめられた、やはり純白の手袋の先に、一枚のカードが
「ん」
「わっ!?」
シャナと
その焦げたカードが風を巻いて、フリアグネの指先に浮かんだカードへと
それを見たフリアグネは、またころりと表情を感嘆へと変えた。
「へえ、私自慢の『レギュラー・シャープ』を、腕っ
再び指先で欠けたカードを取ると、
もう片方の手には、いつの間にか、ぼろぼろの人形・マリアンヌが柔らかく抱かれていた。
また急に、フリアグネは泣く寸前の顔になって、愛する人形の有様を
「ああ、全く、フレイムヘイズはいつもひどいことをする」
マリアンヌが、ほつれた口元を
「申、し訳あ、りませ、ん、ご主人、様」
「
フリアグネは、今度は過度に優しい笑みを浮かべ、ふ、と息を、マリアンヌに吹きかけた。
すると、昨日の
「さあ、これで元通り。慣れない
フリアグネはマリアンヌを抱き寄せ、調律の狂った猫
その頬を寄せられたマリアンヌが、わずかに
「身に余るお言葉です、ご主人様……でも、今は」
うん、とマリアンヌに甘く返事すると、フリアグネはようやくシャナの方に目を向けた。今度は、表情が変わらない。笑みのまま。
「うふふ、昨日と今日で分かったよ。君はフレイムヘイズのくせに、
シャナが、ぴくりと
「……なんですって?」
「なにせ、かの〝
「……」
シャナ、無言の
アラストールが再び、低い声で答えた。
「なるほど、〝
この皮肉にも、フリアグネの笑みは
「いやいや、昨日の戦いの
「昨日の恥を
「うふふ、だから、それはもういいって言ったろう?」
頭を垂れる人形の髪に、軽くキスをしてみせる。
「さすがに、剣一本でここまでやるとは思わなかったけれど、まあ、それだけのことだね。ただでさえ、人の内に入って
「……貧弱かどうか、見せたげるわ」
シャナが、
「ケンカの押し売りかい?
フリアグネは、また表情を薄笑いに改め、
「別に急ぐでもなし……もう少し、やりやすい状況を作ってから、また伺うことにするよ」
悠二という存在ではなく、悠二という
悠二は、その視線の無情さに、ぞっとなった。
「なにが入っているのかな、その中……うふふ、楽しみだ……」
その薄白い姿が、
その揺らぎに目を焼く内に、気付けば、フリアグネは去っていた。
「やはり、ただの〝
「ふん」
重く声を響かせるアラストールに、シャナが短く鼻を鳴らして返す。
悠二が、切り傷や
「あいつが〝徒〟なのか……」
これには、むくれるシャナではなく、アラストールが答えた。
「うむ。〝
「〝王〟……怪物の親玉だから、もっと
「見た目は判断材料にはならぬ。我らは、己が望む形で存在することができるのだから」
二人の会話に、シャナが割り込んだ。
「
「え?」
シャナが
「使う? どういう意味だ?」
「そいつの〝存在の力〟を使って、封絶の中の
「!」
シャナが何人分かのトーチを火の
そして、その人々が、封絶の解けたあとの世界に欠けていた……まるで最初から存在しなかったかのように、欠けていたということを。
悠二は
「き、昨日、トーチになった人たちを消したみたいに、池を使うってのか!?」
シャナはあっさりと認める。
「そうよ。ここには昨日みたいに連中の喰い残しのトーチがない。だから、その死にかけを使うの。トーチになる前の人間なら、死にかけ一人分で全部直せるわ。ついでに
「おおありだよ!! 池が僕みたいに死ぬって事だろ!?」
「当たり前じゃない。
「……くっ……」
シャナは、常に事実を突き付ける。
悠二には、その事実を
「分かった? そいつが知り合いで
「そ、そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どうしようってのよ。
シャナは、やはり事実を突き付ける。
悠二も、彼女が理屈として正しいことを言っているのは分かっている。
腕の中にある池の、破片に切られ、
しかし、倒れるクラスメートの中からトーチにする人間を選ぶことなど、悠二にできるはずもなかった。そもそも、彼らを巻き込んでしまったのは自分なのだ。
シャナの言うことが正しい、そのことは分かっていた。
正しいし、分かっているが、それでも、できないことはあるのだ。
「……」
黙りこくって解決法を探す悠二に、いい加減
「それじゃあ」
と馬鹿にするように言う。
「おまえ自身でも使う?」
「なんだって?」
シャナは、ことさらに意地悪な口調で提案する。
「おまえの残り
その提案が持つ意味の重さを理解した
「分かった。それでいい」
「!?」
シャナは驚き……そしてなぜか、わずかに怒りを感じて、言う。
「
これにも悠二は即答、断言した。
「簡単なもんか」
「じゃあ、なんで残された存在と時間を、みすみす捨てたりするのよ」
知らずの内に責めるような口調になっている問いに、静かで強い答えが返ってくる。
「こうなったのは僕の責任なんだ。それに」
シャナは、悠二が微笑していることに驚き、その声を聞く。
「捨てるんじゃない。生かすんだ」
その夜。
夜半を越えて空に垂れ込めた雲が、街に雨の
その片隅、
「なによ、なによ、なんなのよ、あの〝ミステス〟は!?」
その傘の下から、怒りの声があがった。
雨にぼやける街灯に、その姿を
傘をさし、セーラー服で行儀悪く
本降りの雨は、彼女の周りで
「燃え残りのくせに、生意気よ!」
封絶内の復元は結局、悠二の希望通り、その残り火を削った力で行われた。
教室の破損、およびクラスメートたちの傷と服は、一応無事に復元された。一応、というのは、力の量的にギリギリに削ったため、教室は所々手抜き工事のように古びてしまい、友人たちにも打ち身程度の後遺症が残った、ということだ。
それらの様子を見た
悠二のその笑いが今、シャナを
「本当に、なんて変な、じゃない、
上がる声には、彼女らしくない、
シャナは、帰り道も悠二に付いて行ったが、話はしなかった。悠二も何度か話し掛けたが、その
それからすぐ、シャナは屋根の上に飛び乗って、フリアグネ一党への警戒に当たっている。
状況や相手の性格からして、ほとんど意味のなさそうな行為ではあったが、二人としては
そしてシャナは、屋根に座った
そんな彼女のいつにない荒れ
「つまりアレは、おまえが久しぶりに、まともに接した人間ということだ」
期待してもいなかった、不意な胸元からの言葉に、シャナは内心で驚き、なぜか
「アレは〝ミステス〟、本人の残り
うむ、とその明確な答えに満足の声を返したアラストールは、それでも彼女に問い掛けるように続ける。
「自分では、そう思っていない……いや、それは人間にとって、自己の存在にとって、さして重要ではない、ということかも知れぬ」
「でも、残り滓よ。アレがなにをどう思っても、もうなにも、どうにも、なんともならない……そう、ならないのよ……」
アラストールは、シャナの
「その通りだ。しかし、現実には多様な面が存在する。一つの
「……」
「とはいえ、アレが元気なのも、今はまだ〝存在の力〟に余力があるからだ。いつかは、その思考能力も、意欲も、存在感も、薄れて燃え尽きる」
重く深いアラストールの声は予想外の打撃となって、シャナの、次の言葉を遅らせた。
「……………………ふん、せいぜいフリアグネを
そのとき、がちゃん、と金属がぶつかる音がした。
シャナが見れば、屋根の
そこからひょっこりと
「ああ、やっぱりいた」
シャナは不機嫌さを隠さず、一言。
「いて悪い?」
けんもほろろなその言い草に、意外に
「……そこにいられると、なんだか落ち着かないんだけど」
「ふん、おまえの知ったことじゃ」
ない、と言いかけて、シャナは気付いた。
「……おまえ、どうして私たちがここにいるって分かったのよ?」
首だけ出した悠二はそれを
「いや、なんというか……流れ、みたいなものかな。今日の
アラストールが納得の声を出す。
「そうか、そうだな、あれだけ力の発現の場に立ち会っていれば、分かってもくるだろう」
普通はそれに気付くことも無く力を
今度は首だけの悠二が
「僕のことよりも、あんたたち『
シャナは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そんなの、どうでもいいわ。『平井ゆかり』をしてるのはついでだし……それに、家族で喰われたんでしょうね、両親もトーチだった。なんとでも
なんともひどいやぶ
「それより、こっちは忙しいんだから、用が済んだらとっとと引っ込みなさいよね」
「忙しい?」
見た目には座っているだけのようだが。
「……そうなのか?」
悠二はシャナの胸元のアラストールに訊いてみる。
〝
「
悠二はなんだか、このシャナを気遣い、しかし暗に悠二へ答えを示している〝王〟が好きになりそうだった。その彼に敬意を表して、質問を変える(必然的にシャナの抗議は
「雨の中で、ずっと警戒を?」
シャナは、自分以上に『正しいに決まっている』アラストールに文句を言うこともできず、
「そうよ。連中はおまえを
「ふうん、でも、なにもこんな所で……うわ、っと」
さすがに
その胸元から、アラストールが言う。
「貴様の気にすることではない」
うん、と悠二は
「そうだけどね、ちょっと
言いつつ、背負っていたリュックを下ろし、魔法
「……?」
シャナは無言で、悠二を
悠二はその視線の中、器用に
ホットコーヒーだった。ちゃんとミルクも入れてある。
「ほい」
湯気の立つカップが差し出される。
温かい。
カップ、それだけではない。店での売買や力を振るう以外での、手と手の
シャナはカップを胸元に持ってきて、顔を傘で隠した。その影から言う。
「で、なによ。これの代金程度なら答えたげるわ」
ありがとう、の一言もないが、その辺りは悠二としても期待していない。押し付けだと言うことも自覚していた。
「うん」
悠二は、意味のない返事をして心の準備をする。
やがて、傘を打つ雨の音がはっきり聞こえるほどに落ち着いてから、改めて口を開いた。
「僕が消えたら、
「そうよ」
シャナは無情に断言した。
この少女は
(つまり、僕が欲しいのは気遣いじゃない、ってことか)
悠二は……なんだか
もちろんシャナも、悠二のために、そんな話し方をしてくれているわけではない(と悠二も断言できる)。彼女は単に、気遣いなどに意味を認めていない、というだけのことだ。
ただの結果としての、この符合を、悠二はおかしいとさえ感じていた。
そのおかしみを微笑にして、悠二は再び
率直な答えが欲しい問いを。
「じゃあ、シャナ、アラストール、あんたたちは、どうなんだ? あんたたちも、僕のことをだんだん忘れていったり、感じられなくなったりしていくのか?」
「……」
シャナにとっては実際どうでもいい、簡単な問いだった。これも
そしてその間に、アラストールが答えていた。
「いや。我らは、貴様のありのままを、消えてゆく過程を、
「……そうか」
シャナが、
「そうよ。でも結局は、普通の記憶と同じように、これからの出来事の下に
「僕を見ていてくれるってだけで、十分だよ」
シャナは悠二の顔を見なかったが、なぜか彼が笑っていることが分かった。その、
「……」
温かかった。
しかし、
「砂糖!」
「ちゃんと入れたんだけど」
「ところでさ、一晩中そうしているつもりなのか?」
シャナはスティックを三つむしり取って、それを全部入れる。
「そうよ。座って寝るのには慣れてるし、なにかあったらアラストールが起こして……」
かき混ぜるものがない。遠慮なく求める。
「スプーン」
「あ」
忘れていた。要領が良いようで、どこか抜けている。ここが『
「そういえば、なんで屋根の上なんかで張り込む必要があるんだ? 僕から隠れたりする意味もないのに」
「……中に入れっての?」
シャナは
「一晩中、雨の中に座ってる女の子を上に置いておくってのは、はっきり言って安眠
「知ったことじゃない、けど……アラストール?」
「ふむ、たしかに、なにかを守るようなケースは、これまでなかったな」
「なにかを、じゃなくて、誰かを、って言って欲しいんだけど」
悠二も
もちろん二人して、
「どうでもいいことよ」
「そう、どうでもよいことだ」
と返された。
「……それより、中に入るのはいいけど」
シャナが、傘の奥からギロリと睨んでいる。
悠二にはその意味が分からない。
「?」
「変なことしたら、ぶっとばすわよ」
「……そこまで特殊な趣味はしてな痛だっ!?」
スカーン、と中身入りのカップが顔面に命中して、悠二は危うく屋根から転げ落ちそうになった。
「ちょ、ちょっと待て!」
実際に待てと言われたのは
現在使う者のない父の
一階にいる母に気付かれないよう声を
「中に入れとは言ったけど、一緒の部屋で寝るとは言ってないぞ!?」
シャナがベッドの上でポンポンと
「おまえを守るために中に入ったのに、なんでわざわざ別の部屋になんなきゃいけないのよ」
「
アラストールの、完全に命令者としての指示。
その彼の意思を表すペンダントを、シャナが首から
「……何やってんだ?」
「見れば分かるでしょ、着替えるから、見えない所に行ってもらったの」
枕の下から、フゴフゴと
「そういう決まりなのだ。分かったら、早く貴様もどこかに
そう言われても、と見回すと、ちょうど良い所に(?)押入れがある。
「……」
シャナに目を戻すと、うん、と
「……普通、ここって、押しかけた方が入るもんじゃないのか?」
とぶつぶつ文句を言いつつも、押入れに向かう悠二だった。
その背中に、
「
と、絶対に
悠二はため息をつきながら、押入れのふすまを開けた。下の段は、古いマンガやら使わない
目の前にある、
「ちょっと入れてくれ、いてて」
「なにやってんの、早く閉めなさいよ」
「そう
ごいん、と今度は目覚し時計が後頭部に直撃した。プラスチック製で良かった、と情けない
「……」
そのふすま一枚
「…………」
さっきはからかったものの、さすがにこういう状況は気まずい。ゲフン、とわざとらしく
「……寝巻きとか持わっ!?」
また何か、
「
「覗いてないって! ふすま見れば分かるだろ!?」
なんでこんな目に、などと思いつつも、
「ね、寝巻き持ってるのか、って訊いてるんだよ」
「ないわよ。あるのは替えの下着だけ。体の汚れはアラストールが清めてくれるから、替えるのただの気分だけど」
「ふうん、そりゃいいな……あ、忘れるとこだった。ベッドの横の引き出しにジャージが入ってるから、それ着てくれ」
下着のままで寝られたりしたら、どんな
「ん? そういや、荷物なんて持ってたっけ」
「だいたいの物は入ってる」
「どこに?」
ズバッ、と布か何かが広がるような音がした。
「アラストールのフレイムヘイズがまとう、
悠二は思い出す。
この音はたしか、教室で襲われたときに、自分を壁のように守ってくれた黒い……。
「ああ、あのコートか……そういえば、刀も収めてたな」
悠二は、どこぞの便利なポケットのようなもんか、と自分論理で納得する。
その間に、ベッドの方では、またわずかな衣擦れの音が。
(……替えの……下、着……?)
ふと、先の会話の中から浮かび上がったその単語に、悠二は思わず、ごくり、と息を
今、ふすま一枚向こうで展開されている光景
を一瞬想像して、すぐに猛烈な後ろめたさに襲われる。想像の進展を
「ところでさ、いつまで入ってりゃいいんだ」
無情の声が返ってくる。
「夜中、ずっとに決まってんでしょ」
「んな馬鹿な」
と、その
「ぅ痛っ!?」
反射的に飛びのいた。
「あ」
気付いたときには、もう遅かった。ふすまを押し倒して、悠二は押入れの外に、頭から転がり落ちていた。
逆さになった視界の中心に、ちょうど全部脱いだ所だったらしいシャナが、悠二には理解不能な形状の小さな布切れを手にして、立っていた。
「……」
シャナも、予想外すぎる事態にきょとんとした顔になって、
「……」
未成熟ゆえにあからさまな
(……きれ
真夜中、
「……」
カーテン越しに入る街灯だけを明かりとする薄暗さの中、まだ逆さまの視界をベッドの方に動かす。毛布に包まった、小さな
ところで、
そのベッドの前の床に、抜き身の
このあからさまな意思表示を、転げ落ちたときのままの格好で
「……今度は、
「当然だ」
どこからか、アラストールがフゴフゴと答えた。
翌日、明けてみると空は快晴。
部屋にも、カーテン越しに澄んだ朝の光が差し込んでいた。
あるいは明方の襲撃があるのでは、とアラストールは枕の下で警戒していたが、結局、何事も起きず何者も訪れず、シャナの熟睡は
一方、間に『贄殿遮那』を置いた反対側の壁際。その床で、真夜中に寝直した悠二が、
その彼の、タオルケットを丸めた枕もとで突然、目覚し時計のアラーム音が鳴り響いた。
わずか半秒で悠二は音源を察知、見もせずにアラームのスイッチを
「……ん……」
重い
悠二はむっくりと半身を起こした。伸びをしようとすると、体の節々が痛む。
「あ、っ痛ちち……」
板敷きの床に寝ていたせいか、どうも体が
悠二は、ベッドの小さな膨らみに目をやる。目覚ましの音が半秒で消えたせいか、起きる気配もなく、
ふと、その大太刀で思い出したように、
なんということもなく、見る。
灯火が、現れた。
「…………はあ」
昨日とは別の意味を持つ、ため息だった。
絶望や恐怖が、ほとんど実感を持てないほどに薄れている。
それに気付いたための、ため息だった。
(人間は慣れる動物だっていうけど、こんな状況でもそうだってのは、なんだか
シャナを起こさないよう、静かに立って、ベランダに通じるガラス戸を開ける。
朝の
家の前の道を、通勤、通学の自転車が通り過ぎてゆく。
その道の
空は、広く青い。
(……変わったのは、僕……ここにいて、これを感じる僕、か……)
今、体に感じているものが、存在の消滅などという、言葉や理屈だけでしかとらえていないものを、いかにも
後ろのベッドの中で、その感じるものの一つ、痛さの原因が、少しむずかった声をあげる。
足下を見ると、昨晩、屋根に登るのに使った
悠二は昨夜の、シャナやアラストールとのやり取りを思い浮かべた……多少、不純な映像も混じっている気がするが、そのこと自体は大して重要ではない、はずだ、と弁解する。
(ああやって、少し話をして、少し笑って、少し騒いで……その程度のことで……)
自分は、消滅の絶望と恐怖を忘れてしまえるのだろうか。
自身の存在そのものの問題を。
(……忘れる?)
その言葉には、どこか違和感があった。
また少し考えてみるが、その違和感の意味はよく分からない。
(まあ、そう簡単に答えが出るものでもないか)
と思い、悠二は笑った。
そして、笑える自分を自覚して、驚いた。
そんな、重いのか軽いのかはっきりしない気持ちのまま、ベッドに声をかける……恐る恐る。
「おーい……シャナ、そろそろ学校に行く時間、だぞ……?」
ぱたんと
昨日のことを思い出して、
「……ん〜、言われなくても分かって……!?」
「な、なんだよ?」
悠二は慌てて自分の体を見回すが、胸の内の
そうやっている間に、シャナは再び布団の中に
少し待ったが、出てくる気配が無い。さっきの様子だと、別に昨日のことを怒っているわけでもなさそうだが。
「……勝手に用意して出かけるからな? 見つからないように出てってくれよ」
悠二は声をかけて、部屋を出ていく。
布団の中で、シャナは珍しく
「……ねえ、アラストール、あれ、どういうこと?」
枕の下から、アラストールも深刻な声で答えた。
「うむ、気付いたか」
「どうして? 考えられない」
「中にある
アラストールは、実は今の悠二の様子から、一つの
なるほど、もしその中に入っている物が、あれだとしたら、この奇妙さにも、さっきの様子にも説明がつく。
しかし、それは同時にあり得ない
〝
『
もし、そうだとしたら、絶対にフリアグネには渡すわけにはいかない。
そしてシャナも、今の悠二の様子に、一つの気持ちを芽生えさせていた。
もしかしたら、と
昨日、手渡されたコーヒーのような、ほんの少しの、温かさ。
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