宵狂のベランダ
稲井田そう
第1話
バーテンダーという職業は、綱渡りに似ている。
最初の一杯で、客が常連になるかもう二度と来なくなるか決まる、というのは俺を育ててくれたマスターの言葉だ。
自分の頭で考えなければ生きていけない冷たい夜の世界を隠して、いかに優美で心地よい時間を提供するか。客の一夜は全てはバーテンダーの手腕にかかっている。技術の向上は大前提で、最も大切なことは見て聞くことだと教わった。
そうした綱渡りの夜を超える一方で、こちらとカウンターを越えた繋がるを求める客もいる。安らぎの宵の中、主体はあくまで客とカクテルだ。
しかし技術を伴わぬ野心家や、人肌に飢え刹那的な快楽主義者がいないわけではない。遊びが激しいという偏見はそういったところから生まれているのだと思う。
「最近水曜日は彼女の大学に迎えに行ってるんですよね」
機嫌良く話し、エメラルド色の液体が揺れるグラスに口をつけるのは常連の美容師だ。ハーブやスパイスの風味が強いものを好むこの男は、最近出来た恋人と上手くやっているらしい。
女を連れて来店すると夕焼け色の甘いカクテルを選んでいたが、本来の好みはこっちだ。
「ああ、お相手は女子大生の方なんですよね」
「はい。俺は元々アウトドアが好きなんですけど、彼女はかなりインドアなタイプなので――」
「あれ? トギさんじゃん」
「……
照明を少し強くしているバーの入り口に、常連であるデザイナーが立った。隣には女を連れているが、「仕事の人いるからちょっと待ってて」とキスをかわしてカウンターに座る。俺は女へ注文を聞いてくるよう、そばにいた見習いに指示を出した。
「全然クラブで見ないからさぁ、まじでびっくりなんだけど。あっ、
「本当の話?」
「まじまじ。店出してて、しかも大事な女と付き合ってるから来るなとか言われた。クラブとか吐き気がするんだって。しかも年下。あっ、ティツィアーノお願いします」
「かしこまりました」
俺は注文を受けグレープフルーツジュースの瓶とザクロのシロップを取り出す。ちらりと美容師を盗み見ると、少々怪訝そうな顔をしていた。
「和泉に年下の女……?」
「ヤバいっしょ、女医女優女社長って来てさ、海外のモデルとかだったのに一年姿くらませたと思ったらただの大学生だって。洗脳でもされてるでしょ絶対。超うける」
「へぇ……」
「それに俺らの後輩に
「へー」
美容師はデザイナーの言葉に適当に相槌をうち、カクテルに口をつけている。同性愛。この国ではいまだ結婚は認められていないが、あと何年かすれば認められるだろうと思う。
届けを出せば公的に認める自治体も増えている。絶対的な禁忌に触れているわけではないのだから時間の問題だろう。俺は出来上がったカクテルをデザイナーに出した。
「あっども……ってトギさん超興味なさそうに返事すんじゃん。聞いてよこの間街で会って話しかけたんだけど死ね消えてって超冷たいの、うけるよね。あんだけ男と遊んでさ、チャラ飽きて童貞喰い始めてすげぇ巻き上げてたじゃん。
「どっか社長と結婚したんじゃない? それか訴えられてるか」
「確かに社長とか政治家秘書とか飼ってたもんね〜っていうかトギさんは何でクラブ来ないの? いいとことか可愛い女見つけたなら教えてよ」
「俺もうそういうの興味ない。彼女出来たし。大切にしたいからお前らとも付き合わない。街で見かけても話しかけてこなくていいから」
美容師はカクテルを煽り、こちらに視線を向けた。もう終わりということだろう。一方デザイナーは目を丸くしていた。
「はぁ? なんだよそれ、まさかトギさんも結婚とかクソみたいなこと言うわけ? どうしちゃったの? デキたとか? 脅されてんの?」
「違う」
「えぇ〜和泉もおんなじこと言ってたけど年とるとそんな違うわけ? 老後怖くなった的な?」
「違う。うるさいよ。お前もちゃんと好きな女出来たら分かるよ。ねぇ
話を振られ、奥の座席の注文を受け動かしていた手が止まる。何も答えず微笑むと、デザイナーのほうが「ほら、蔵原さんだってより取り見取りだろうし、しばらく遊んでたい派なんだよ」なんて軽口を叩く。
「俺は、カクテルが恋人のようなものなので」
「またまたぁ〜、蔵原さんこの間告白されてたの見ましたよ? 相手モデルだったでしょ。読者ランキング一位の、その子とどうなったんですか」
「どうもしませんよ」
どうもしない。どうもできない。どうにかなれば救いがあっただろうけど。
美容師に顔を向けると、男は値踏みするような目をこちらに向けていた。
何が一位でも、世界中に美しさを認められようと俺には一生関係ない。
世界で一番惹かれる存在は、呪いのように定められている。俺は頭の中に浮かぶ顔を打ち消すように薄く笑ったのだった。
◇
閉店時間になり、清掃と開店の下準備を済ませてから店を出る。
朝焼けがうっすらと滲む間に吹く風は凍てつき、呼吸を繰り返す度空気を白く染めていく。
灯りが消された街並みを歩く人は俺だけで、一人取り残されているみたいだ。
スマホに表示された時刻は午前三時四十分。バッテリーは五パーセントを切って赤く点滅している。
最近はやけに充電が減るのが早い。故障のせいか触れない間にも通信が発生しているらしいが、かといって携帯ショップに行くこともできず、俺に出来ることはせいぜい足を速めることしかない。
変わらない景色をいつも通りに進み家に帰った俺は、自分の革靴の隣に置かれた小さな靴から目を背けて廊下を進んでいく。
人がバーテンダーという職業を選ぶ理由は大まかに分けて四つあると聞いた。酒が好き、カクテルに興味がある。漠然とした憧れがある。俺が学んだマスターは、「モテたいからに決まっているだろ」なんて言っていた。
でも俺がこの仕事を選んだ理由はそれら全部当てはまらない。
「おにぃ、お帰り」
リビングに入ると、どうか眠っていてくれと願った姿がそこにあった。六歳年下の妹である
「ああ。ただいま」
「ねぇ聞いてよ。全然課題終わんなくてさぁ……これ終わったら寝ようと思ってたのに……もうおにぃ帰ってきたし、私も寝ちゃおっかな」
そう言って妹が駆け寄ってくるのを避けるように、俺は冷蔵庫に向かってペットボトルの水をあおる。
俺が、バーテンダーになった理由。それは妹に会いたくないから、ただそれだけの不純な動機だ。
◇
六年前のあの日は酷く暑く、そして土砂降りの雨が降っていた。
俺たちは田舎町に住んでいて、俺は専門学校に向け勉強をする莉羽を手伝いながら大学の課題をやっていた。
お互い順調に事を進めていたものの、途中でエアコンが不自然に停止したのだ。
激しい暑さと高い湿度で紙すら湿り頭は熱を持つばかりで働かない。
飲もうとしていた炭酸水はぬるく薄まって、コップの周りに水滴を纏うだけのものと化した。
「やっぱり、一度開いてみてみない? 何か詰まってるのかも」
妹はエアコンの設置してある場所へと椅子を運んでその上に乗り、修理を試みた。あれこれいじるより業者に電話したほうがいい。でも休日でどこも閉まっていることもあり、自分たちで何とかしなくてはいけない。危ないから自分が代わると声をかけたその瞬間、それは起きた。
莉羽の片足が椅子から離れ、身体が傾いたのだ。
咄嗟に衝撃から守るよう落ちてきた莉羽を包み込んで、一番感じたのは貫くような背中の痛みだった。そして次に感じたものは、無事である安堵感ではなく脳から眩んでいくような、妹の匂いだった。
自分の腕の中に在るのは家族の身体。守りたいと思っているものの身体。それなのに俺の心は果てしない欲に占められた。
柔らかい身体を、肌を滑る感触を、妹の存在の何もかもを奪ってしまえたらと思った。
ただの同じ年で家が近いだけの女であったなら良かっただろう。けれど俺の眼前にいたのは家族だった。
初めて見た時は潰れそうに小さくて、俺が守ってやらなきゃいけないと思った。両親が驚くくらいに世話を手伝い、近所の悪ガキに虐められたときは倍にして仕返しにいった。
誰よりも大切で、守らなくてはいけなくて、幸せにしたい唯一人。
その妹に俺は途方もなく悍ましい感情を抱いた。
妹を危険に曝してはいけない。俺は衝動のままに高校を卒業すると同時に家を出た。
活動時間が合うことすら恐ろしく、夜の世界に身を投じた先がバーテンダーだった。何もわからなかった俺にマスターは事情も聞かず本当によくしてくれたと思う。
しかし俺が上京を果たした四年後のことだ。両親から連絡がきた。
妹はあまり頭が良くなかったはずなのに、都内トップの大学に合格を果たしたのだ。
上京することになるから一緒に住んでやってほしいと両親に頼まれ、俺は生活時間が違いすぎると断った。
でも、それから女子高生の殺人未遂事件や連続通り魔殺人など不穏な話が相次いだ。
結局再会することとなった妹は、四年前行かないでと泣き喚いたあどけなさを持ちながら、間違いなく女へと成長していた。
そして俺は狂うほどに焦がれたあの地獄に、無理矢理引き摺り戻された。
◇
「あ、おにぃ何か食べてから寝る?」
シャワーを浴びてリビングに戻ると、妹は課題が終わらないらしくまだノートパソコンと向かっていた。同じ部屋に住むようになって、莉羽と顔を合わせることは日に一時間と満たない。
一緒に住んで防犯の役に立っているとは到底思えない。そう思う反面、まだ子供だから心配だと考える。心配なのに俺は莉羽を紛れもなく女として見る。一目でいいから会いたいと、妹のいる間に家に帰る。
「いらない」
「そっか〜じゃあ私もそろそろ課題終わりそうだし寝ちゃおうかな……」
「今日大学は」
「行かない日だよー、ちょっとトイレ行ってくる」
そうして莉羽が去ったテーブルにはスマホが置かれていた。俺はリビングの扉が閉まるのを見計らって、パスコードを入力する。アプリを開き男の名前がないことを一通り確認を終わらせ、またスマホを元の位置に戻した。
莉羽のスマホを覗くようになったのは、パスコードが分かってからだ。妹は俺の前では酷く無防備で、目の前で簡単にロックを解除する。何度も何度も繰り返せば、その四桁は嫌でも分かってしまう。
それほどまでに好きで好きで仕方がない。莉羽にしか、執着も劣情も抱けない。最近は殺す夢ばかり見てしまう。乱して壊して苦しめる前に、眠っている間に殺してしまえばと何度も何度も夢想する。
なんて身勝手で暴力的な想いなのだろう。
莉羽が過ごしていたリビングはいつになく甘い香りがして、俺は空気の凍るベランダに出た。
外はもうすぐ夜明けを迎えようとしている。あんなにも黒かった空が色を取り戻して、建物の隙間からは光が漏れてきた。もう、妹の時間だ。俺は眠って、息を潜めなければならない。住む世界を変えなくては。
一歩後ずさると、背中に柔らかいものが触れた。腰に華奢な腕が絡みつく。その腕が握りしめているのは手錠だった。無機質な金属のそれが俺の片腕に嵌められる。軽い金属音は間違いなく封じ込める音のはずなのに、鍵が開いたように感じられた。
「すき」
聞こえたのは、毒のように甘い妹の……莉羽の声。その声に操られるように、いや他ならない自分の意思で俺は妹の華奢な腕を掴む。
嵌められていないほうの手錠を掴んで莉羽の細い腕に押し付けると簡単に嵌った。真っ白くて細い腕に似合わない武骨な金属は、昇って来た朝日に照らされて反射し視界が眩む。
「俺は愛してる」
莉羽のパスコードは俺の誕生日だった。立ち並ぶ写真フォルダには俺と撮った写真が並び、他の想い出を排除するように並んでいた。何かの間違いだと何度も何度も確認した。
でももうそんな習慣も今日で終わり。
もう戻れないし、戻らない。
宵狂のベランダ 稲井田そう @inaidasou
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