呉沼くんは元ヤンだということを私は知っている
稲井田そう
第1話
心から嬉しい、助かると思うことをしてもらって、お礼を言わない人は最低だと思う。
でも私、
呉沼くん。
本名
サラサラした黒髪で、短すぎず長すぎず、清潔そうな髪型。
目元は涼やかで、はっきり言えばお顔の造りがとても良い。もっと言えば背も割とあるし、学年二位の成績と頭もいい。将棋部に入っていて夏場は扇子を持ち歩く、確かに皆と同じ制服に身を包んでいるのに、和の雰囲気がそこかしこから漂っているようなそんな人だ。
「呉沼お前バレンタインにわっぱの弁当かよ」
お昼の時間、教室で呉沼くんの机にガン、と足をぶつけて話すのは同じクラスの獅子井くんだ。獅子井くんは校則違反の金髪をしていて、よく後輩の風紀委員に怒られて逃げたりしているがっつりとしたヤンキーである。
「獅子井くん。今呉沼くんの机揺れたよ。謝りな」
そして風紀委員のほかに獅子井くんへ唯一注意ができる存在が、彼の幼馴染の朝日ちゃんだ。私は朝日ちゃんと友達になり、獅子井くんと呉沼くんの仲がいいことで、いつも四人でお昼ご飯を食べている。
「はい。今日は自分で作ってみまして」
「この練り物もか、すり鉢? フープロ?」
「ミキサーです」
「臭くならねえ? 洗うのダリぃだろ」
呉沼くんに獅子井くんはあれこれ質問をする。獅子井くんはがっつりとしたヤンキーだけど家庭的なところがあって、恋人でもある朝日ちゃんのお弁当を手作りしている。今、彼女がもそもそと食べている重箱は、本日がバレンタインデーということで可愛くデコレーションがされていた。
「やっぱハンドブレンダー買うかなぁ。どう思う朝日」
「どっちでもいいよ」
「お前の飯の問題だろうが」
さらに言えばとても重たい性格で、朝日ちゃんの隣にいないと泣いてしまう。だから今日も朝日ちゃんと獅子井くんは並び、向き合うようにして私と呉沼くんが座っているから、必然的に私は呉沼くんの隣でお昼を食べる……ということになる。
「うん。そうだねぇ」
「お前適当に返事してんじゃねえよ」
「食事中だから静かにしてほしい」
「お前俺がうるせえってのか!」
あれこれ言い合いをしている獅子井くんと朝日ちゃん。でも最初のころ二人はこのクラスでとても浮いていた。私はヤンキーの人に対してちょっとした事情もあり耐性があったし、呉沼くんも別だけど、他の皆はそうじゃない。
ただでさえこの学校は進学校で偏差値も高いのだ。それなのに入学式にクラスで集まり、「そこの錫立朝日は俺の女だから手出すんじゃねえぞ。出したら殺す」と教卓で啖呵を切った獅子井くんや朝日ちゃんに近づくなんて、勇気がいる。
「ははは。朝日ちゃんと獅子井くんは本当に仲がいいね」
それでも呉沼くんが獅子井くんと仲がいいのは、彼が元ヤンだからだ。
私が呉沼くんと初めて遭遇したのは中学二年生の冬。私は街を歩いている所を不良に絡まれ、通りがかったヤンキーの呉沼くんに助けてもらった。
当時お礼が言えればどれほど良かっただろう。でも彼は私がお礼を言おうとした瞬間、物凄い勢いで走り去ってしまったのである。
そして来る高校一年生の春、入学式で私は脱ヤンキーを果たした呉沼くんと対面した。というかぶつかりかけて謝罪をしあった。かなりの至近距離で。でも呉沼くんは一切私を認識していなかった。
呉沼くんは、ヤンキー時代、長めの髪をゆるく巻きオレンジのグラデーションに染め、服装もモッズコートを羽織っていた状態から和系男子に変化していた。
一方私は中学の制服が高校の制服に変わったくらいしか変化がない。
だから呉沼くんが私を認識することはかなり容易いはずなのだ。でも今に至るまで彼が私を思い出す気配は何もない。しかも私たちの関係は呉沼くんが獅子井くんと仲がいいから、私が朝日ちゃんと仲がいいから、そして獅子井くんと朝日ちゃんが付き合っているから一緒にお弁当は食べるという、まぁなんとも微妙なものである。
きちんと二人でした直近の会話は、確か二か月前の「あ、環林さん。そのちりとり終わったなら返しておくよ」だ。とても悲しい。すごく悲しい。本当に、非常に悲しい。
悲しい。私は呉沼くんのことが好きだから。とても悲しい。
不良に囲まれるなんて早々起きない危機的状況から助けられ、それまで男子と接することなんて殆ど無かった私はあの時から呉沼くんに普通に惚れていた。だから高校で彼と出会った時は、変貌に驚くとともに出会えたことが嬉しかった。仲良くなりたいと思った。
けれど、呉沼くんは私を覚えていないどころか脱ヤンキーをしていて、茶道部に入っていて、何故か和の雰囲気たっぷりの「京都老舗呉服屋の息子です」みたいな顔をして生きている。ヤンキーを辞め新しい姿で生活する彼に昔のことを持ち出し、話しかけていいはずがない。
だから、「お前あの時の女だろ」と校舎裏、壁際に追い詰められちゃったりみたいな、「バラさねえか見張ってやるからな」みたいな、「殺されたくなきゃ俺の女になれ」みたいな、そういう展開が来たりして、「そうです! あの時はありがとうございました!」なんてお礼が言えないかと期待しているけれど、まあ、普通に無い。これが現実だし、仕方ない。
でも妄想は五百回くらい繰り返している。
むしろ高校入学前からしていて、ヤンキーの人との接し方を学ぶためにヤンキーが出てくる恋愛漫画は呉沼くんと再会する前にめいっぱい読んだ。
そしていざ再会すると呉沼くんは真逆に変貌して降臨なさったのだ。予想外ながらも、呉沼くんの変化に対応しようと努力はしようと和系男子との恋愛漫画とか恋愛小説を読んだ。
読んだけど脱ヤン呉沼くんはどちらかといえば穏やかで品行方正タイプ。私の読んだ和系男子は腹黒とか、実は鬼畜とかすごくSみたいなそんな人が多くて、彼と似ているのは見た目や習い事だけだった。だからあんまり参考にならなかった。
結局私はこの一年むざむざと過ごしてしまい、バレンタインまで呉沼くんとの関係が進展することはなかったのである。
ということで今日のバレンタインこそはと、気持ち的には本命だけど見た目はあくまで義理に見えるチョコレートをポストに投函、「いつも助けてくれてありがとう!」とメッセージをつけ、呉沼くんに間接的にお礼を言うという強行作戦に出ることにした。
学校で渡そうと思ったけど下駄箱は汚いし、直接は無理。机の上は他の男子にからかわれそうだしポストに投函することにした。
強行というかもはや凶行感あるけど、もう後ひと月も経てばクラス替えだ。呉沼くんと同じクラスになれたらいいけれど、私は小さい頃から運が悪い。間も悪い。今日だって星座占いのランキングは最下位で、「欲しいものが手に入るチャンス! けれど大切なものを失うかも? 後悔先に立たず! よく考えて行動して!」と間の悪いアドバイスをもらった。
まぁ、間違いなく同じクラスになれそうもない。だからこのチャンスを生かすしかない。
呉沼くん家の住所は四月の下旬に、たまたま下校で呉沼くんが前を歩いていて知った。ちょっとストーカーっぽい。いやかなりストーカーじみてると思う。
逆だったら……いや嬉しいな、相手が呉沼くんというか好きな人だったら私は嬉しいけど、普通は怖いし気持ち悪い。好きな人でも無理な人が大多数だと思う。バレなくてよかった。
でもこうして悩むのももう終わりだ。来年クラスが同じになれば分からないけれど、クラスが離れたら完全にお別れになるだろう。話しかける勇気もないし、友達というほど親しいわけでもない。
ずっと呉沼くんにチョコレートを渡すことだけを考え放課後を迎えた私は、とうとう彼の家の前に立った。
でもすぐにポストに入れる気にはなれなくて、目を閉じて深呼吸をする。胸の高鳴りを抑えながら、私はポストにチョコレートを入れ……、
「……あら?」
横から声をかけられ振り返ると、近所のスーパーの袋を下げた女性が立っていた。隣には小学生くらいの男の子が同じスーパーの袋を下げている。
「あれ、もしかして兄ちゃんの彼女じゃない?」
男の子が私を指してそう言う。え、もしかして、呉沼くんの家族じゃ……。
「あらあらあら! 帝蔵の! あらあ!」
呉沼くんのお母さんらしき人が私を見るなり嬉しそうに駆け寄ってきた。やっぱり彼のお母さんだ。帝蔵なんて名前、あまり聞かない名前だし。
「いつも帝蔵と仲良くしてくれてありがとう!」
「えっ、あ」
呉沼くんのお母さんは嬉しそうに私の肩をぽんぽん撫でる。彼の落ち着いた印象と異なり、とても元気で明るくはつらつとしている。あれ、でも私、全然彼と仲良くしてない。
いや私は仲良くしたいけども。誰かと勘違いしてる? そういえば呉沼くんの弟っぽい子、私のこと「兄ちゃんの彼女」って言わなかった?
「本当もうあの子ちょっと変でしょう? 孤独死するんじゃないか不安だったけど、貴女みたいな可愛いお嬢さん捕まえてくるなんて……。もう本当に嬉しくて……あの子のことよろしくね……!」
涙目になりながら私に訴えてくるお母さんを前に、私は深い絶望を感じた。
駄目だこれ。完全に、失恋じゃん。
◇
「帝蔵もうすぐ帰って来るはずから、ゆっくりしてて」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃあ私はリビングにいるから、何かあったら言ってちょうだいね!」
「はい、すみません……」
呉沼くんの家でお母さんと弟くんに遭遇した私は、何故かあれよあれよという間に彼のの部屋にあがらせてもらっていた。
「……ここが、呉沼くんの部屋……」
テレビ台には所狭しとドラマや劇のブルーレイが並んでいる。壁には映画のポスターが貼られていて、机の上には付け髭や眼鏡などが置かれていた。なんだろう、劇とかやってるのかな……。前に歌舞伎を見るとか言っていたし、それの一環……?
「いや、それより本当に、どうしよう」
チョコレートの入った紙袋を握りしめる。本当にどうしよう。
家に入る前に何度も誤解を解こうとしたけど、「私ただのクラスメイトなんです」という言葉は照れ隠しにとらえられ、「突然家にお邪魔するのは……」という言葉は手土産を忘れたことへの負い目と解釈され瞬く間に部屋まで来てしまった。呉沼くんの彼女と誤解されたまま。
「はぁ……」
まぁ呉沼くんのあのハイスペックさとお顔の造形だ。恋愛に興味ないとかなら分かるけど、そうじゃないのに恋人いなかったらもう何か色々抱えてるとしか思えない。叩くのが好き、みたいな。いやいや、彼女いないわけない…なんだろう、彼のご家族に彼女と誤解されて彼の部屋にいるこの状況は。もし今、彼に彼女がいたとしても、今後彼女と別れた時のチャンスがあるかもと思うべき?
いや思えないし未来のことが考えられない。死にたいな普通にこの状況。何やってんだろ。何でこんなショックなんだろ。
これで呉沼くんが彼女連れて家来たらどうするんだろ。バレンタインだしデートしてるのかな。呉沼くんのお母さんと弟さんは幻を見たってことで、窓から出ようかな。駄目だここ三階だ。死んじゃう。
逃げ場がないかぐるりと部屋を見渡す。見渡す限り逃げられそうな場所は何処にも無い。ただ勉強机はあるのに椅子が無かったりちょっとずつ違和感があることに気づいた。
クローゼットの取っ手にも、鍵が付けられている。タンスも机の引き出しにもだ。
……すごく防犯に気を付けてる……? ……もしや、ヤンキー時代の戦利品がしまってあるとか?
そんな爆弾抱えた部屋に友達でも何でもない奴が入り込むとか、呉沼くんにとっては最悪でしかない。どうしよう。本当にまずい。嫌われてしまう。何でこんなことになった? やっぱ窓から飛び降りるしかないのでは?
「おかえり兄ちゃん! 彼女来てるよ!」
唐突に下から弟くんの声がして、直後ズドドドドと工事みたいな音がした。どうしよう、呉沼くんが帰って来てしまった。と、とりあえず部屋から出て、廊下に立ってよう。そう決めて部屋の扉を開こうとすると、ドアノブが私を避けるように後退した。あれ、ドアノブが勝手に動くなんてこと、ある?
顔を上げるとそこには目を見開いた呉沼くんが立っていた。え、嘘速くない? 一階から三階まで階段上がって来たんだよね? 瞬間移動してきたとかじゃないよね? なに?
「環林さん……!」
ぼそ、と呉沼くんが呟く。終わった。完全に終わった。嫌われた。
「呉沼くん、ごめ……呉沼くん!?」
呉沼くんはどんどんこちらに進んでくる。後退し続けると尻餅をついてしまった。それでも彼の足は止まらない。逃げ続ける私は、とうとう勉強机まで追い詰められた。椅子が無かったことで机の下に逃げ込む。しかし彼は無言のまま、やがて服を脱ぎ始めた。
え、嘘。もしかして私のことが見えてない!? いやそんなこと無いよね?「環林」って言ったし、認識はしてるはず……!
「く、くれぬ……!?」
呉沼くんがガチャガチャと音を鳴らす。べ、ベルト外してる。見たらいけないと顔を隠し、俯く。本当に何てことになったんだ? 何が起きてるの今。どういう状況なの? 少女漫画の最終話くらいのことされちゃう? なにこの状況? 耳を澄ませていると、やがて布が擦れる音が止んだ。
「環林さん」
呼んでるってことは、着替え終わったんだよね……? そっと目を開けるとタキシードに身を包んだ呉沼くんが嬉しそうにこちらを覗き込んでいた。
「……嬉しいです。俺も同じ気持ちです。最高のバレンタインをありがとうございます」
そう言って顔を近づけてくる呉沼くん。あれ? 何か色々おかしくない? 呉沼くん、もしかしなくても、キスしようとしてる……?
「ま、ま、待って待って待って呉沼くん、彼女いるんじゃないの」
「いませんが……?」
「だって、お、弟さんとか、呉沼くんのお母さん、私のこと呉沼くんの彼女と誤解してたよ……?」
状況がいまいち理解できない。何か呉沼くんキスしようとしてくるし、タキシード着てるし。
訳分からな過ぎて、「これ夢です!」って目が覚めたら朝でも納得できるくらい状況が把握できない。
「ああ、誤解ではありませんよ。まぁ、でも、誤解になるのでしょうか……」
「どういうこと?」
「実は、環林さんのことを待ち受けにしていたのです。そうしたら母に彼女と誤解されまして……今は違うと強く訂正したら、その度に信じてしまって」
「そうなんだ……」
ん?
待ち受けってなに?
「でも……まさか家にチョコ届けてくれるなんて思いませんでした。嬉しいです。好き。俺の部屋に環林さんがいるなんて。幸せ、夢みたいです……。好き、大好き。幸せにするから、結婚して……」
呉沼くんがうっとりした顔で私を見る。うわ、かっこいい……と見惚れている間に、はっとする。
待ち受けってなに?
「よそ見はしないでください」
がっしりと呉沼くんに頬を挟まれた。私が待ち受けについて問いかける前に彼の顔がどんどん近づいてきて、唇は重なったのだった。
◇
どうやら俺は環林梓に対して、ヤンデレているらしい。
「ヤンデレ彼女に注意」とかなんとかいう雑誌を読んだら、俺の可愛い可愛い環林梓に対する感情が当てはまった。
環林梓と出会ったのはお互いが四歳の頃だ。たまたま幼稚園が同じで、クラスだけ全部違っていた俺と、環林梓。本来なら話すこともなくただ互いを見かけ合うだけの関係性だったはずだが、それを彼女が壊したことが始まりだ。
忘れもしないあの夏。俺が飛ばした紙飛行機が木の上に引っ掛かり困っていると、石を投げ枝を揺らし、紙飛行機を取ってくれたのが環林梓だった。それまでは彼女について何一つ思うことが無かったが、紙飛行機を俺に渡し笑う彼女を見てから、俺は環林梓の恋の奴隷となったのである。
単刀直入に言えば一目惚れだと思う。
何故その紙飛行機を取ってくれた子供が環林梓だと分かったかと言えば、ネームプレートを見て、その後職員室で名簿を探って確認したからだ。「帝蔵くんいたずらしないの!」と先生に怒られて、以降俺だけ職員室の出入りを禁じられた。今思えば、昔からヤンデレの傾向はあったのかと思う。
ヤンデレなるものは相手の事を全て知りたいとか書いてあった。でも好きだから名前を知りたいと思うのはわりと普通の反応だと思う。今は住所も電話番号も生理周期も祖父母の名前も知ってるけど。
だが当時の俺は名簿を調べる根性はあっても、会話をする勇気が無かった。
その時の話をきっかけに仲良く出来れば良かったが、お礼を言っただけで特に関係を発展させることなく卒園を迎えてしまった。そして不運なことに俺と環林梓は学区が異なり、別々の小・中学校へと進んだ。
俺があの時話しかけていればと後悔をする一方で、環林梓はどんどん成長し、可愛らしく、守ってあげたくなるように育っていった。
だから、環林梓が可愛いから、あまりにも可愛いから、通学途中に後をつけ酷い目に遭わされたりしないようずっと見ていた。
同じ格好だったら俺がずっと見ていることがばれてしまうと、日替わりで装いを変えた。派手だったり、地味だったり、色々。元々スタイリストとして活躍する両親の仕事の関係で、ウィッグや衣装は大量に家にある。全く使っていない倉庫から一日三時間ほど持ち出しても問題は無かった。
そうして彼女を見守り歩く日々が続いたある日問題が訪れた。環林梓が下種野郎共に絡まれてしまったのだ。下種共ではない。下種野郎共だ。
当時幸いなことに俺は派手な格好をしたヤンキー風の衣装で、喧嘩をするには丁度良かった。しかし助け出す時に環林梓に認識されてしまった。
中学三年の時で、俺は環林梓の志望する高校も調べ上げ同じにしようと動いていた矢先だった。高校で俺が付き纏いだとバレれば終わる。よって俺は高校入学を機に完全に新しいイメージにチェンジすることにした。
ヤンキーとは対極であろう侘び寂び系日本男児。高校の受験勉強と共に日舞の稽古をし、剣道、弓道、茶道、華道を習い、高校に入学する頃には完璧な茶道男子に変わった。
そして高校に入学して環林梓と再会し同じクラスになれたのに、勇気の無い意気地なしの性根は変わらず、話しかけることが出来なかった。
ただただ環林梓と仲良くなりそうな男子を陥れたり潰したり、よくない噂を流したり環林梓が触った用具とかを後から触ったり、誰も教室にいない時に環林梓の席に座ったり休日に環林梓の家の周りをパトロールしたり、一人買い物に出かける環林梓について行き、環林梓が手に取り迷って買うことをやめた小物を買ったりしただけだった。
だから直近の会話は「ちりとり返しておきましょうか」だ。本当に、誰とでも出来る会話。俺は永遠に記憶しているけどきっと環林梓は忘れている。辛い死にたい。環林梓の触ったちりとりは舐めた。
そしてさらに俺と死にたくさせるのは今日のバレンタインだ。環林梓が明らかに本命らしきチョコレートを持参し学校に来ていた。
チョコレートの材料を買ったりしていたのは見守っていたから知っている。けれど義理堅い環林梓のことだ。女友達の錫立と交換でもするのだろうと思っていたら、環林梓は明らかに本命のチョコレートが入った紙袋をぶら下げて学校にやって来たのだ。
挙句の果てに錫立は彼氏の束縛がきつく義理チョコすら受け取れないという。つまり環林梓が誰かに本命チョコを贈ると確定したのだ。
絶対に欲しいけど、環林梓にとって俺は他人に近い存在である。友人の錫立の彼氏である獅子井と話すから一緒にお弁当を食べている存在。要するに友達の彼氏の知り合いだ。死にたい。死にた過ぎる。環林梓の前で飛び降り自殺でもすれば、彼女は好きな男に告白せずに済むだろうか。そして俺を一生忘れないんじゃないか。
バレンタインが来るたびに、バレンタインを意識するたびに、思い浮かべるのはチョコレートではなく俺の死体になるんじゃないか。
それ、いいな。そう思いながら今日一日環林梓を凝視していると、なんと彼女は誰にもチョコレートを渡さずに放課後を迎えた。もしや好きな男は学外……といつも通り放課後、彼女の後を追うと彼女の好きな男は俺の家の近くにいたらしい。
俺の家へ向かうように環林梓は進んで行く。そのまま俺の家に入ってしまえと祈っていると、なんと彼女は俺の家の前で立ち止まった。やがて母と弟がやってきて、いくつか会話を交わすと彼女は俺の家に入っていった。
は?
◇
そうして今、俺の部屋に環林梓がいる。部屋に彼女がいて動いて呼吸をしている事実に興奮して、うっかりプロポーズ用のタキシードに着替えてしまった。
キスまでしてしまった。手が早過ぎる男だと勘違いされただろうか。環林梓は相変わらず俺の勉強机の下に身を縮めていて、とてもかわいい。ベニヤ板を三十枚くらい打ち付けて出したくない。うっとり見つめていると、やがて彼女は机の下から這い出てきた。
可愛い。足が引っかかって手間取っている。可愛い。環林梓の視界に入る俺以外の人間はみんな排除したい。
なんだかヤンデレみたいな思考回路だけど、ヤンデレは想いが遂げられないから病んでるはずだし。今の俺は両想い。勝ち組。ということはヤンデレ卒業だ。元ヤンである。
今環林梓を俺だけのものにしたいとか、閉じ込めたいとか誰にも見せたくない、触れさせたくないのは、彼氏としてだ。母親には子供を守らねばという母性が芽生えるというから、これは彼氏性だろう。
だって両想いだし。
「えっと、これ、いつもありがとうってお礼と、ほ、本命です、はい」
おずおずと差し出してくる紙袋。朝に忌々しいと感じていた紙袋が俺のものだと思うと、神々しく輝いているように見える。お礼と本命。最高だな、一口だけ食べて後は防腐処理を施してコレクションに加えよう。
ということで、俺は元ヤンデレ。今は環林梓の彼氏であり、未来の夫だ。
それにしても、部屋にある環林コレクション、鍵かけておいて本当に良かった。
呉沼くんは元ヤンだということを私は知っている 稲井田そう @inaidasou
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