第6話 秘密の呼び出し
フラン先輩との手合わせを終えて、アストさんの待つ旧図書館へ向かった。特に約束しているわけではないが、彼女に会いたい時はここに来れば高確率で会うことができる。だから自然と足がここへ向く。
そういえば、俺とアストさんとが初めて出会ったのも、この旧図書館の前だった。
「今日も随分と派手にやられたね」
アストさんは旧図書館前のベンチに腰掛けて、ここの蔵書なのか何か本を読んでいた。俺の気配を感じたらしく、本を閉じてこちらへ視線を寄越すと、そんなことを淡々と投げかけてきた。
俺の随分なやられように、あまり笑わないアストさんでも、微かに口元を緩めているように見えた。
結局あの後、俺は怒り狂ったフラン先輩に、半殺しにされるかというほどボコボコにされたのだった。
自分で軽く手当をしたとは言え、まだところどころ患部が痛む。あの挑発染みた台詞もアストさんのアドバイスによるもので、それを試した結果がこれだ。アストさんとしては、この結果は予想通りだったのだろう。
「でも、動揺を誘うのは効果的でした。試せてよかったです」
「フランは素直な子だからね。わたし相手でも同じようにはいかないでしょう?」
「だから、相手をよく知ることが大事ってことですね」
あれ、その理屈だと、俺ってアストさんのこと全然知らないんじゃないか? 確かに、彼女の考えていることはいまだに掴めないところが多い。もう一年半以上も師事しているというのに。
「そうだね。だから今回の
敵を知り、己を知ることが勝利の鉄則と聞いたことがあるが、己を知ることは、彼女にとってはもはや当たり前のことなのだろう。相手をよく知ることが大事、と口を酸っぱくして俺に言ってくれているように。
アストさんが促すので、彼女の隣に並んで座る。さすがにこの距離まで近付くと、ほんのりいい匂いがして落ち着かなくなってしまう。アストさんはそんな俺の様子には気付いていないのか、普段と特に変わらずに話してくれた。
「じゃあ今日は、
俺の分析力が試されているということか、それとも前期生の評価を参考にしたいということだろうか。どちらにせよ、アストさんの言うことを深く考えても俺の頭ではドツボにハマるだけだ。言われた通りにしよう。
俺は
「この中で、クロが負けるかもしれないと思える相手はどれ?」
「まずは首席のルーツィアですね。タイプとしてはアストさんに近く、隙が少ないタイプです。
「まあ、そうだよね。他には?」
アストさんも、俺がルーツィアに負けるかもしれないと判断しているのだろうか。少し悲しいが、アストさんは情に流されたようなことは言わない。アストさんがそう言うのなら、恐らく本当にそうなのだ。
「後は、レイチェルと、新入生のグレーテですかね」
「グレーテを警戒するのはわかるけど、そんなにかな。名家エッフェンベルクの正統な血筋で一年生首席という点だけ見れば、たしかに未知という部分はあるけれど、必要以上に警戒する相手じゃないよ」
それは、俺もそう思っていいのか。それともアストさんから見たら、という話だろうか。ルーツィアの時と違う反応に、俺は俄然期待してしまう。
何しろグレーテの姉は、
「グレーテと対戦すれば、俺の方が優勢、と思っていいんですか?」
「わたしはそう思う。フリティラリアの妹の方は、どうしてそう思う?」
「やはり戦術的な相性ですかね。姉のロレッタは、フラン先輩のおかげである程度対応は可能だと思うんです。ですがレイは、超近距離タイプの
これまで何度か対戦してはいるが、戦績はほぼ互角だったように記憶している。特に負けた試合が印象に残っているせいで、勝つイメージが浮かびにくいのかもしれない。
「じゃあ、悪くても四位には入れるってことでいい?」
そう言われると、想定外のことが起きないとも言い切れない。そう断言できるほど自信に満ちているわけではないが、あくまで目標ということで、言い切ることに決めた。
「はい。最低でも準決勝には残ります。その先の優勝も目指しますよ」
応援してるよ、と優しく頭を撫でてくれるアストさん。彼女から見たら、俺はまだまだ子ども同然なのだろう。見た目も中身も、実力も。この扱いがまさにその証拠だ。
「明日、用事ある?」
不意に、アストさんが思いついたように発した。
明日は学園も休みで、予定も特にない。アストさんからの誘いはいつも突然なので、普段から予定はできるだけ空けておくようにしているのだ。こうしてせっかくいただいたアストさんのお誘いを、断りたくはないから。
「いえ、特にありません。あ、フラン先輩のいつものはありますが」
あのお方は休みでも関係なく、本当に毎日付き合ってくれる。律儀なのか暇なのか。気分屋なところはありつつも、きちんと継続してくれるのは、根は真面目ということなのだろう。
「そんなのサボっちゃえばいいよ」
こういうことを平然と言うアストさんの方が、よっぽど根は不真面目なのだと思えてしまう。実際のところ、どの程度本気で言っているのかはわからないのだが。
「いや、フラン先輩のは……サボったら後が怖いですし」
「わたしとフランと、どっちの方が大切?」
そう言われてしまうと、選ぶ方は決まっている。ズルい質問だ。
「それは……アストさんの方が大事ですけど」
「大丈夫。フランには、明日わたしから連絡しておくから」
それはそれで心配だ。アストさんとフラン先輩は犬猿の仲というか、一方的にフラン先輩が嚙みついているだけの気もするのだが、とにかく仲がいいとは決して言えない。穏便な話で済むとはとても思えないのだ。
「明日の朝、またここに来てね」
帰り際には、この時だけいつも見せてくれる微笑みを、今日もアストさんは浮かべていた。相変わらず、笑うとその端正な顔立ちがより際立って美しい。この時のこの笑顔は、俺だけが知っているのだと思うと、なんだか誇らしく思えるのだった。
◆◇
その晩、部屋のベッドに寝転んでいると、微かな電気信号を耳が拾った。学園から支給されている端末とは別の、簡易通信機に通信が入ったのだ。これは学園側に見つからないよう、密かに持ち込み、使用しているものだ。
『彼女の瞳は』
「夕焼けを映す」
互いを識別するための、俺と彼女との間で決めた合言葉だ。この通信機が見つかるとは思えないが、念には念を、ということらしい。互いの声も、男か女かもわからないような合成音声に変えられているという念の入れようだ。
それくらい、これを通して話すことは他所に漏らすわけにはいかなかった。
『何か変わったことは?』
「
そんなわかりきったことを、と通信相手に鼻で笑われてしまう。あの試合を見ていたかはともかく、学園に通う学生ならば、
『知ってるわ。あなたの師匠は残念だったわね』
「他は特に、目立った報告はありません。小さなことなら、いくつか処理しましたが」
『ならいいわ。
「はい。敵となるものに、容赦はしません」
俺の仕える主人の命を狙うもの、俺の仕える家を脅かすものを特定し、排除する。それが、俺がこの学園にいる意味でもある。自分の技術を磨いたり、大会でいい成績を残したりなんかは二の次だ。その使命を忘れたことは、一度たりともない。
『たとえそれが、アストリットやフランシーヌだとしても、容赦しない覚悟はある?』
「ええ。必要があれば。ですが、俺ではさすがにアストさんには勝てませんよ?」
『勝てはしなくても、殺すことはできるでしょう? 私だって、アストリット相手じゃ勝つのは簡単じゃないわ。もし向こうが本気で命を狙ってくるとなれば、なおのこと』
「よく言いますよ」
その返しは、冷たく流されたと思った俺のジョークへの、意趣返しのつもりだろうか。
俺だって、アストさんに本気で殺されそうになったらさすがに敵わないと思う。フラン先輩は、良くも悪くも全力でぶつかってくれるから、普段から半殺しにされ慣れてるけど。
『それにあの子、ヘザーちゃん、だっけ? あの子の何がそんなにいいのかわからないけど、私とレンフィールドの仲が悪かったのを知っていて、あの子と関係を持ってるの?』
突拍子もなく、不機嫌そうにそんなことを言われてしまう。レンフィールドって、ヘザーのお姉さんのリリアナさんのことだろうか。仲が悪かったなんて初耳だが。
「言ったじゃありませんか。彼女とは特別な関係じゃありませんよ。表向きは仲良く見せているだけですから」
『なら、そういうことにしておくわ。とにかく、レンフィールドには注意しておきなさい』
「わかりました。とりあえず、引き続き警戒は続けます」
『よろしく頼むわね』
それを最後に通信が切れた。月に一度の定期報告が終わり、俺は天井をぼうっと眺める。
アストさんやフランさん、それにヘザーと敵対する可能性か……。考えたくはないな。
フランさんなんかは一見野心家っぽいけど、思いのほか健全な野心家だから、心配はないと思いたい。今は打倒アストさんに燃えていて、五年生首席の座をなんとしても奪ってやりたいのだとか。そのくらいなら、全然可愛いもんなんだけどな。
ヘザーとの関係も、そろそろ一度見直してみた方がいいのかもしれないな。今のこの関係をいつまで続けるつもりなのか。結局このままでは根本的な部分は何も変わらないし、そろそろ向き合ってもらわないといけないのだろう。俺はそれに手を貸してやった方がいいのだろうか。
いずれ互いの本当の気持ちを話し合わないといけないな。
そんなことを考えながら、俺はそのまま眠りについた。
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