(3番目)
翌日。前日に叔母から叩かれた頬の痛みは感じながらも、その脳裏には広場での事が過っていた。腕を掴まれたせいとはいえ最終的に逃げるように立ち去った自分の行動は、一晩経過した今となってもやはり失礼としか感じないものだと改めて思っていたからだ。何より若い男の歌声は良くなかったが、あの歌を演奏していたギターの音色は決して悪くなかったのだ。むしろ人前で歌う事は苦手だというのに、演奏が途中で止まっていたのに気付けないほど歌い続けてしまうぐらいには…。
(やっぱり良い歌だな。)
『深沢 美香』は女性歌手だったが、デビューしてからずっと人気があったわけではない。そればかりか娘・愛を生む前にはテレビ番組やイベントにも呼ばれない、いわば『下積みの時代』と呼ばれるであろう時期も短くはなかった。そしてその時期は当然、自分だけの歌というのも用意されず、また美香自身も持っていなかったからか。関係者への宣伝も兼ねて他の歌手達の持ち歌や楽曲を歌唱していた。その中には昨日、広場で若い男がギター演奏をしていた歌もあり、愛も大好きな1曲でもあった。そして昨日の事をきっかけに、それらの思い出が過り懐かしくも感じたからだろう。美香が生前、カセットテープに録音していたのを携帯で保存し直していた愛は再生。片耳だけにイヤホンを装着すると聞き始めた。
だが、無意識だったとはいえ、自分でも思っていた以上に『聞く』という行為に集中してしまっていたらしい。近付いてくる人物がいる事に気が付けなかったのだ。こう声をかけられるまで…。
「校内で携帯ばっかり触るのは誰かな~?」
「っ、翔子…。」
「おはよ~、愛!」
携帯を操作している事を責めるような言葉が急に聞こえてきた事で思わず愛は息を呑みながら振り向く。だが、そこにいたのは自分によく話しかけてくるだけでなく、自ら行動を共にしてくる『小松 翔子』だったからか。気付かない内に入ってしまっていた体の力を愛は抜く。そして小さく息を漏らすと応えた。
「少しね、歌を聞いていたの。」
「歌?…ああ、この歌ね。新しくはないけど良いよね。…でも、何で急に?」
「…後で話すわ。」
耳に入れていない、もう1つのイヤホンを渡すと愛が聞いていた歌がすぐに分かったのだろう。自身も気に入っていた歌だった事もあり嬉しそうな様子で翔子は聞き始める。そして数分後に教師が来る為にこの時は言えなかったが、昼休みの際に弁当を食べながら始業前に尋ねられた事について話す。叔母に頼まれた買い出しの後に通りがかった広場で若い男がこの歌をギターで弾き語りしていた事。歌声の音程は外れていたものの、ギターの演奏は思わず歌ってしまったぐらいに原曲と合っていた事を…。
「…で、歌ったら絡まれたのよ。『ちゃんと歌える奴を見つけた!』って感じの事を言われて、腕まで掴まれたりもして。そのせいで帰り着いたのが叔母さんの後にもなっちゃって。」
「っ、それで叩かれたんだね。その…大丈夫じゃ、ないよね?痕が残ってるぐらいだし。」
「まぁ…確かに残ってはいるけど。でも、拳じゃなくてまだ平手だから。見た目ほど酷くないわよ。」
「っ、分かった。」
愛の事を強く慕っているからか。昨日の話の中でも広場で起きた出来事よりも、頬に残された痕の方が翔子は気になってしまったらしい。それを物語るように言葉だけでなく表情までも心配そうにしながら愛を見つめる。だが、翔子が自分の事を心配してくれている理由すら分かっていないからか。昨日の出来事とはいえ頬に痕が残るほどの傷が残っているというのに、何事もなかったように話してしまう。そして愛の様子に自分が心配しているというのを未だよく分かっていない事を察知。何より自分に出来る事は何もないというのも自覚しているからだろう。心配そうに見つめる事は止められなかったが、理解したように頷いてしまうのだった。
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