10

 言葉は不要だった。自分たちが分かり合えないことは、今では分かり合わないことが、どちらにも分かっていた。

 ディランは前に出た。それは蛇のように滑らかで、瞬きの間に完了していた。

 攻撃の際には「起こり」があり、たとえ相手がなにをするのか分かっていなくとも、脳が瞬間的に判断して防御指令を出す。

 しかし、ディランの動きには起こりがない。

 棒立ちで自分を見つめるホープの目の前。ディランは、またしても滑らかに右の拳を動かし、ホープの心臓の位置に、優しく拳を置いた。


「…………は?」


 ディランはそのまま背を向けた。

 ホープの顔に、自分は許されたのかもしれないという安堵と、得体の知れない恐怖が同居している。


「お、お前は……なにを……」


 最初は、冬が春へと変わるようなゆるやかさで、続いて桜が散るような繊細な激しさで、ホープの身体が最後の窓に吸い込まれていく。


「ホープ!」


 血を強く受け継いだ息子の名を叫び、ウィリアムは指の痛みすら忘れて、窓の様子を確認した。

 彼の心はすぐに萎びた。屋敷を守るように囲んでいた大樹の太い枝がホープの身体に突き刺さっている。

 それはまるで、罪人が処刑されているかのようだった。

 ディランはまだ背を向けたままで、自分が入ってきた扉を閉めた。


 ・


 セルゲイはフォルモンドの屋敷に辿り着いた。

 あたりは恐ろしいほどに静かで、周囲の様子を探りながらも、おそらく誰も生きてはいないだろうと、そんな予感がする。

 門をくぐると広大な中庭が目に入った。

 よく手入れされた芝生が広がり、その真ん中には石造りの噴水が据えられている。この場の王だとでも主張しているような噴水。

 事実、この館の主人が命を落とせば、王になるだろう。哀れな水音を聞きながら、視線を散りばめる。

 美しく剪定された生け垣が四方から庭を囲み、美しい花々が咲き誇っている。うっとりしてしまうような芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

 しかし、今のセルゲイには花の赤色が、人間の血の色に見えた。

 誰もいない。もう少し屋敷に近づくと、入り口らしき大扉を見つけた。

 二人の兵士が血溜まりを作っている。


「本当に来るとは思わなかった」


 屋敷の扉を開くと、すぐに声をかけられた。


「……どうして自分の存在を明かしたんですか? 黙っていれば、僕を殺せたのに。その……ボロボロだし」


 いまだにダメージが抜けていないのか、暖炉の近くで座り込んでいるアレクセイを見て、言った。


「他の人間が来れば、あるいは。君を殺そうとは思ってない。ただ、足止めをしろと頼まれた」

「誰に?」


 ――ディランさんか。

 返事はなくとも、名前を出さずともセルゲイにはそれが理解できる。


「通してください」


 男は首を横に振る。

 

「どうして!」

「その理由は、君が一番よく分かってるんじゃないのか?」


 推し黙ったように見えたセルゲイだったが、ここで引き下がる気にはならなかった。


「自分の家族を助けるために無謀になるのは、間違ってますか?」

「いいや、間違いじゃない。私もそうだ」


 上階で銃声が聞こえた。


「私もそうだから、こうやって君を止めるのさ」


 男はふらふらの足取りのまま構える。

 若者は躊躇っていたが、自らも戦闘体勢を取った。


(こんな、こんなにボロボロなのに、どうして――)


 先んじて動き出したセルゲイが大ぶりのパンチを繰り出す。

 もう相手にはロクな抵抗はできないだろうという甘い考えは、すぐに打ち下されることになった。


 (――――ッッ?!)


 知らぬ間に鳩尾に突き刺さる拳。セルゲイは入り口まで吹き飛ばされる。


「死に体の相手だからといって油断するなと、教わっていないのか?」

「あ、生憎、僕は討伐依頼は数えるほどしか受けたことがないんです」

「身体で覚えることができて良かったな。このままだと寝かしつけられてしまうぞ」


 ギルドでディランと戦った時よりは目に見えて弱っていたが、それでもアレクセイの動きは素早く、性格無比だった。

 息が吸えるようになって、おぼつかない足で立ち上がったセルゲイに向けて追撃する。

 それを紙一重で躱し、時に喰らってはいたが、セルゲイは決して倒れない。

 上階でガラスが割れる音が聞こえる。鳥が飛び去る音も聞こえた。


「……そろそろ終わりにしよう。私は行かなければいけない」


 誰にやられたか、という違いはあれど、二人は共に限界が近かった。

 セルゲイは理解していなかったが、攻撃を加え続けていたアレクセイももはや体力の限界で、互いに次の一撃が最後になる。


「さぁ、すべて出し切ってみろ」


 ・


「さぁ、すべて出し切ってみろ」


 目の前の男が本気で戦っていないことは自分にも理解できた。

 ディランさんにやられたダメージが残っているとしても、それでも僕との戦力差は歴然。

 殺そうと思えば、いくらでも殺す機会はあった。

 それなのに、どうして彼は僕を殺さず、ディランさんを通したんだ?

 問いかけてもきっと答えてくれないだろう。

 ウィリアムに仕える人間なんて、みんなガレクや悪魔面の男のように外道ばかりだと思っていたが、彼ばかりはそう見えなかった。

 どこか懐かしさのある――そう、ボンフォルトさんがオリビアを見る目だ。彼は同じものを持っていた。

 もしかしたら、彼も誰かの父親で、その生活を守るために敢えてウィリアムの下にいたのかもしれない。

 でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 鳩尾を殴られたことで呼吸が浅く、満足に動けない。次の攻撃が最後だ。

 僕には奥の手がある。一日に一度しか使うことができない、奥の手が。

 使うしかない。勝負に出るのはここだ。


 ・


 上階からもう一度大きな物音が聞こえた。それを合図に、アレクセイは真っ直ぐに突き進む。

 シンプルな右ストレート。これが勝負の一手。

 拳がセルゲイを捉える直前、アレクセイはあることに気がつく。

 両者の足元には煙のような魔力が蓄えられていた。

 そして、既に勝負は決していた。

 拳が激突する音が、他に生者のいない一階に響く。

 立っていたのはセルゲイだった。


 セルゲイの痕跡魔術は、現実世界に影響を与えることはできない。

 何かを探したり、記憶を読み取る用途しかなかった。

 だが、一つだけ例外がある。

 一日に一度、一瞬だけ、周辺で起こった出来事を物理的に再現することができる。

 屋敷に入ってアレクセイの姿を見た時から、セルゲイにはこの考えしかなかった。

 完全に相手の意表を突いて放たれる、ディランを模した一撃は、直前に喰らった技とはいえ、アレクセイを貫いた。


「――――それが奥の手か。見事だ」


 もともと、セルゲイに相手を殺すつもりはなかったが、攻撃の威力を完全に再現することはできなかった。高みに並ぶには、あまりにも未熟だった。

 しかし、戦いに勝つことはできる。アレクセイはもはや立ち上がることもできず、砕けた煉瓦を枕にしている。


「トドメは刺さなくていいのか?」

「自分を殺す気がない人を殺すことはできません」

「そうか。確かに、彼が言っていた通り骨のある若者だな。きっと、君の親も誇りに思っている」

「……僕には親はいません。ギルドのみんなが家族です」

 

 アレクセイは満足気に笑った。

 セルゲイは加えて何か言いかけたが、口を閉じた。

 上階から銃声がした。


「終わったようだ」


 ・


「ま、待ってくれ!」


 息子の死体から目を背けると、今度は悪魔の姿が目に入る。

 ディランの姿があまりにも――あまりにも恐ろしく感じて、ウィリアムは腰が抜けてしまった。

 向こうは近づいてきていないのに、どんどん存在が大きくなっていく。


「い、いいのか! わ、私に手を出したらギルドマスターと娘の命はないぞ!?」


 その言葉を聞いて、ディランはようやく一歩踏み出した。


「好きにすればいい。彼らはもう助けられているはずだ」

「う、嘘をつくな! レイズンには魔導連射銃まで持たせてるんだぞ……負けるはずがない!」


 階下から音がする。先ほど、同じような音を耳にした。

 ディランは薄く笑みを浮かべる。

 

「きっと、もうすぐわかるだろう。ただ――」


 足取りは軽く、もう一歩。

 もはやウィリアムの命乞いなど耳に入らない。


「お前がそれを知ることはない」


 銃声。


 ・


 たかが十数段そこらの階段が、妙に遠く感じる。

 それは、セルゲイが薄々理解していたからだ。登ったとしても、すでにディランはいないのだと。


「…………」


 先程まで四つの命があった部屋には、二人分の死体しかなかった。

 もう一つは――頬に触れる優しい夜の風。ウィンドモアの風が入り込む窓の外にある。

 まるで一家心中があったのかと錯覚してしまうほど、綺麗に痕跡が消されていた。

 セルゲイだけは分かっていた。

 ここに、自分たちのために命懸けで戦ってくれた男がいたことを。彼がもう戻ってこないことも。


 自分は帰らなければならない。悲しみと感謝を皆に伝えなければ。

 セルゲイが階段を降りると、ウィリアムの部下だった男の姿すらなかった。

 高そうな絨毯に足跡は残っていたが、彼も同じく二度と顔を合わせることはないだろうと察してしまう。


「……僕は、ここで強くなります。あなたが守ってくれた街を、今度は僕が守りますから。だから、安心してください」


 セルゲイは振り返らなかった。

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