5
ドラゴンが口から炎を吐き出すように、闘技場は天に向けて黒い煙をあげていた。それを背にして、確かな足取りで一歩二歩と進むのはディラン。
白いワイシャツや黒いスラックスには煤こそ付着していたものの、傷ひとつない。
ディランは手首や首を軽く回しながら歩いていたが、我を忘れたように向かってくる見慣れた青年を目にして立ち止まる。
「セルゲイくん、どうしてここが?」
「どうしてもこうしてもありません! そ、それよりディランさん、大丈夫なんですか!?」
自分が痕跡魔術を使ったが何の成果も得られなかったこと、諦めずに考えてディランを見つけ出せたこと、伝えたいことはたくさんあった。信頼に応えられたのか聞きたかった。
それでもまず、セルゲイはディランの無事を確認せずにはいられなかった。
炎は間違いなくドラゴンのものだろう。そうでなかったとしても、あの規模の炎属性の魔術を使える者は人間離れしている。化物だ。
セルゲイの記憶の限りでは、ディランに魔術を使うことはできないはず。であれば、あの炎が標的にしたのはディランのはずなのだ。
それなのに、目の前の男は、白いシャツに彼の髪と同じ色の煤を付けているだけ。何が起こった?
「あぁー、えっと」
ディランは言葉を詰まらせている。
それもそのはずだ。次に彼が口にしたのは、全く信じ難いことなのだから。
「まぁ、運良く勝てたみたいだ」
「え、あ……運、よく……?」
「状況によっては喰われていただろうからね。日々の行動の賜物、かな」
意味がわからない。もしかして、闘技場の中で起きたことは、自分の想像とは全く違っているのではないか?
そんなことをしている暇はないのかもしれない。
今この時にも、エマは陵辱に怯えている。だが、セルゲイはコロッセオに入らずにいられなかった。
自分のことを心配している、子犬のような瞳で見る男を置き去りにして。
果たして、セルゲイの想像はピッタリと当たっていた。
灼熱の化身。見上げるほどの巨体を赤黒い鱗が包み込むように生えている。一対の翼は天をも覆い尽くし、鱗よりも数段純度の高い紅い瞳が見るもの全てを射抜くようだ。
きっと、踏みしめれば大地は恐怖し、震えるだろう。
きっと、それを目の前にして生きていられる生物などいないだろう。
全ての支配者だと言われれば、セルゲイは納得せずにいられないだろう。
――だが、それは「きっと」という想像に過ぎない。
かつてウィンドモアの街を、そして世界を蹂躙せしめたドラゴン。
生物が根源的に炎を恐れるということを思い出させるような、一目見ただけですくんでしまうような存在。
「……………………嘘だ」
それが今――絶命しているのだ。
身体にも翼にも傷はなかった。死してなお、セルゲイの恐怖を煽り続けている。
だが、その瞳がセルゲイに焦点を合わせることは永遠になく、虚空を見つめるばかり。
魂というものがこの世にあるのなら、ドラゴンの魂はとっくに天に召されているのだ。
(わけが……わからない。実際にドラゴンがいるとか、そういうことじゃない。どうしてドラゴンが……勇者でもなければ倒せないような存在が殺されてるんだ?)
セルゲイにとってのドラゴンとは、ゴブリンのような低級な魔物が一匹でAクラスの冒険者を倒すようなもの。
または、Dクラスの冒険者が一人で魔王を撃破するようなものなのだ。
生憎、彼は魔王を見たことも、ドラゴン自身と戦ったこともなかったが、おそらくそのくらいの生物としての強度の違いがあることは理解できる。
目を見開いたままの青年は気が付いた。正しくは、自分の魔術を思い出した。
(痕跡魔術なら……何かわかるかもしれない……)
普段のセルゲイならば、ディランの言い淀む様子を汲んで痕跡魔術を使いはしなかっただろう。相手は気遣いをするに足る賢人だからだ。
しかし、今ばかりはそんな優しさよりも好奇心が優ってしまった。
自分の力をひた隠しにし続けてきたディランがどんな特異な能力を持っているのか――我慢することができない。
セルゲイは魔力をコロッセオの地面に、幾多の戦いが行われてきた石畳に流す。
前回、ボタンから記憶を読み取ったのとは違って、今回は投影を試みているのだ。
闘技場の記憶を呼び起こして、それを幻影のように再現する。「何か」が起きたのはつい先刻のことで、セルゲイの未熟な腕前でも鮮明に投影することができると確信していた。
身体に流れる血液のように魔力を張り巡らせ、それらは揺れて波紋を広げる。朧げながら人とドラゴンを形作る。
春の日差しのような、柔らかな光のようなそれは、徐々に鮮明になっていく。
透き通っていたとしても、ディランとドラゴンが相対しているのがわかった。
・
細い目のレイズンという男と、もう一人の男――彼はセルゲイの記憶にはいなかった――はそれぞれディランの脇と足を持ち上げ、苦労して彼を運んでいた。
人を運ぶのは簡単な仕事ではないが、それでもフォルモンドに雇われている男たちが非力なはずがない。
だというのに、二人の男は振り子のように揺れながら、時折吐息を漏らしながらディランを動かしている。
その後ろからはウィリアムとホープがニヤつきながら歩いてきた。
「こいつ、多分すごい筋肉質なんですよ」
「ヒヒッ。ならさぞかし美味い餌になるだろ。そう思いませんか、坊ちゃん?」
レイズンは坊ちゃん――ホープに問いかける。
「どうだろう。筋肉質な肉って硬いんじゃないか? 父さんはどう思う?」
「確かに硬くはあるだろう。しかし、それなりの強者でないとコイツも満足しないだろう。これからは量より質だな」
ウィリアムが顎でしゃくってみせたコイツというのは、もちろんドラゴンのことだ。
やはり絶望を体現しているかのような風貌だったが、なぜかドラゴンは人間を見かけても意に介していないようだった。
いや、意に介していないというよりも、自分へ得をもたらすものを見るような卑しい目つき。
フォルモンド家とドラゴンの関わりが、ここ数日ではないというのは誰の目にも明らかだ。
「そら、餌をやろう。レイズンがやられるほどの相手だぞ。感謝して食うんだな」
「や、やめてくださいよ旦那ぁ。俺だって、ヒヒッ、それなりに反省してるんですよ?」
そう言いながら、二人の男は勢いをつけてディランを投げる。両手足を荒縄で縛られたディランはぴくりとも動かない。
人間が地面に擦れる音を聞いたのか、強者の匂いを感じ取ったのか、ドラゴンはしばし閉じていた瞳を開いて獲物を眺めている。
しかし、不機嫌そうに再び眠りだす。
「……あぁ、お前は見られるのが嫌なんだったな。そら、行くぞ」
「良いのですか? ま、万が一にも彼が逃げ出すことがあれば――」
「お前は逃げられるのかよ? 両手と両足の自由を奪われた上で、ドラゴンなんていう化物から」
「い、いや、それは……」
レイズンとともにディランを運んでいた、おそらくこの中では一番地位が低いであろう男が口をつぐむ。
「あんまり父さんに無駄な質問をしない方がいいぞ」
三者がクスクスと笑いながら踵を返し、男はそれについていく。
「それにしても、どうして見られながらの食事が嫌なのだろうな。私であれば、むしろ見られるからこその快感もあると思うが」
「見せつけるのがいいんだよね。女たちの恥辱と快感が混ざった顔が一番興奮する」
「強いばかりで内向的なのかもしれんな。外に出て行こうという気概がない。そのせいで、あの時は被害が予想以上に出た」
フォルモンドの人々が帰っていったのを確認すると、伏していたドラゴンが起き上がった。
ただ身体を起こしただけだったが、一気に体長が何倍にも伸びたかのような錯覚を起こすほどの威圧感。
ウィリアムが言ったように、この個体は屈折した性質の持ち主なのかもしれないが、それでも人間からすればどれも同じ。簡単に命を奪われてしまう化物なのだ。
ドラゴンは飛ぶこともなく、一歩、進んだ。
ズン、と地面が揺れ、石畳がカタカタと音を立てる。
目の前の人間が異常な振動に目を覚ますかなど、どうでもよかった。
起きたところでなにができる、餌はどこまでいっても餌なのだと、物言わぬドラゴンでも、そのような矜持があるのではないかとすら感じられる。
無防備な男とドラゴン。どのような面でも対極に位置する二つ。その距離はみるみるうちに縮まっていき、捕食者は喰らうためにその首を――後ろに飛び退いた。
絶対的と言える強者が、翼を使ってまで後退した。
攻撃の意思はないとはいえ、羽ばたきによる風圧が物言わぬ男に襲い掛かる。
経年劣化した石畳が吹き飛ばされ、砂嵐が舞い、一面を覆う。
しかし、ただ一つ。ただ一人の男だけは。
視界が開けた時、一センチたりともその場から動いてはいなかった。
「………………」
相手を射抜くような視線が発せられている。ディランは目を覚ましていた。
続いて、天を裂くような咆哮が響き渡る。
自分の居場所を悟られてはいけないと理解しているのか、実際には本意気から程遠い声量ではあった。だが、それでも並の人間なら意識を失ってしまうだろう。
喰うものと喰われるものという変えようのない状況から、自分が視線一つで下がってしまったことへの怒り。
動くこともできない相手に抱いた恐怖。
自分の羽ばたきの影響を何一つ受けていないことへの疑問。恥じ。
それら全ての掻き消そうとしているかのような叫びだった。
――いつの間にか立ち上がっていた人間が、いとも容易く縄を引きちぎり、それを落とした。
一言も発することがなく、手首や肩を回して調子を確かめる。
眼前で目を見開いている――ように見える――巨大な魔物を無視して、自分の身体を検査している。
仮にドラゴンに思考があるとするなら「どうしてコイツは自分と戦う準備のような行動をしているのだろう」と考えるだろう。
それは現実だった。
ディランは臆することも己を鼓舞することもなく、ただ自然にドラゴンと相対す。
先に動いたのは――ドラゴンだった。
・
天幕のような翼で羽ばたき、一本一本が鎌のように鋭い牙で噛み砕き、相手の恐怖ごと溶かしてしまう炎を吐く。
ドラゴンはその一挙手一投足で敵を薙ぎ倒すことができるため、手足は少しばかり退化していた。
自分を支えることはできるが、使う意味はあまりない。
――そんなドラゴンがいま、自ら足を使って前方へ躍り出る。
まるで、先ほどの後退は間違いだったと誇示しているように、腕を振り下ろした。
先ほど、五体満足の状態のディランを見たにも関わらず、セルゲイはこの一撃で彼が無惨に殺されてしまうのではないかと肝を冷やす。
だが、目の前の男は、過去の事実を写した透明の男は、それを半身で避け、続くドラゴンの尻尾による薙ぎ払いも、身を極限まで低くすることで躱したのだ。
(あ、ありえない。完全に視えているんだ)
ドラゴンの恐ろしさは巨体や炎だけではない。
その攻撃速度、反射神経、空間把握能力にも優れている。
何度も避けられるはずがないのだ。
それなのに、ディランはこともなげに生命活動を維持し続けているではないか。
脳内を「ありえない」という言葉が飛び交っている。
しかし、実に数秒後、セルゲイはさらに困惑することになった。
鋭い爪の振り下ろしを避けたディランは、一度深呼吸する。
その間にもドラゴンは次の攻撃動作に入っていたが、ピタリ。動きが止まった。
それを見ていたセルゲイも呼吸を忘れていた。
痕跡魔術に不備があったからではない。
――世界の記憶から、ディランだけが、すぅっと消えてしまったからだ。真っ黒なコーヒーに落とした角砂糖が溶け出すように。
ドラゴンは情けなく首を振り、目の前からすっかり姿を消した餌を探している。
これは自分の落ち度ではないとセルゲイが気づいた時、突如としてドラゴンの頭が、上半身が跳ね上がった。
続いて、ドラゴンの口内から炎が弾け飛び、辺り一面に広がる。
それが現実のものでないと理解していても、セルゲイはへたりこんでしまう。
(うわぁっ!? な、なにが起こったんだ!?)
おそらく、その疑問は当のドラゴンの脳裏にもよぎっただろう。
否、そんな時間は残されていなかったのかもしれない。
ドラゴンはそのまま力なく倒れ伏し、絶命したのだから。
・
「そういえば」
ディランをドラゴンの食事として提供したウィリアム一行が屋敷に到着してすぐ、レイズンが口を開いた。
「あのおっさん、名前はなんて言うんだ?」
「確か、ディランだったと思います」
下っ端の答えを聞き、レイズンは口の端を釣り上げる。
「ヒヒッ。ディランか、名前負けもいいとこだな」
「それは……どういう意味で?」
「お前、知らないのか? ディランって聞いて思い浮かぶのは、【毒蛇】のディランだろ」
「なんの話だ?」
ホープが会話に加わると、レイズンは声のトーンを一つあげて続ける。
「魔王を倒した勇者パーティに暗殺者がいたらしく、そいつの名前が、ヒヒッ、ディランって言うらしいんですよ」
「勇者パーティに暗殺者か。なんていうか、あんまり合わないな」
「肩書きは大層でもやってることは殺しだからな。それも、失敗できない殺し。存外、汚い手も使うんだろうよ」
耳ざといウィリアムの言葉に一同は声を出して笑う。
「まぁ、よっぽどの臆病者なのは確かだろう。勇者は魔王と相打ちになって世界を救ったというのに、その毒蛇とやらは何を成し遂げたんだか」
「それなら、父さんの方がよっぽど偉大だね」
「まったくだ。毒蛇もあの男も、ディランという名には責任が足らんようだな。今ではもう、全てドラゴンの胃の中だが」
ウィリアムを取り巻く笑い声が大きくなった。
彼らにドラゴン落命の報が届けられたのは、それから1時間後のことだ。
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