第2話 赤き巨星、落つ

 金響世が共産党議長への再任が決定された党大会から2ヶ月後の2037年11月下旬の朝。


 昭拓邦は、北京市内の自宅で新聞を読もうとしてその第一面を見た。しかし、その記事の内容に衝撃を受けて思わず目を見開き、叫んだ。


「な、何だこれは⁉」


 その記事の見出しには、


『国家中央軍事委員会。朝鮮への人民共和国軍派遣を決定』


 と書かれていた。


 「朝鮮」とは「朝鮮民主主義人民共和国」の略で朝鮮半島の北部に形成されており、中華人民共和国に隣接している別に「北朝鮮」とも言われている国家である。なお南部は「大韓民国」通称「韓国」が国家を形成している。


 その朝鮮に人民共和国軍を送り込むことが決定されたのだ。ちなみに、このことを決定した国家中央軍事委員会の議長は、響世が兼任している。


「まったく、何て気が狂った決定をしたんだ‼」


 拓邦は、そう言うとその記事が載っている新聞紙をその場で勢いよく投げ捨てると、勤務先の厚生労働部が置かれている庁舎へ向かった。


      ※


「国家中央軍事委員会は何故、こんな気の狂った決定をしたのでしょうな?」


 拓邦は、厚生労働部長としての仕事の合間の休憩に、首相官邸とも言われる国務院総理府から今後の基本方針を書き記した書類を提出しに来た政務官と、自動販売機の前で缶コーヒーを飲みながら2人だけで会話をしていた。


 拓邦のこの問いに対して政務官は言葉を返した。


「昭厚労部長。あなたもご存じでしょう? 朝鮮は2030年代に入ってから国内の秩序が乱れて平壌の中央政府も手に負えなくなっている、いわば無政府状態なんですよ。その火の粉が我が国に飛び火するのを防ぐのと……」


 と言うと政務官は一旦沈黙した。拓邦は、その政務官の話を缶コーヒーを飲みながら、じっと聞いていた。


 その政務官はまたしゃべり始めた。


「朝鮮の秩序を建て直すという名目で主に韓国に軍隊を派遣されたら、韓国主導の半島統一は確実です。それによる我が国への影響は未知数です。今回の決定はこれらを踏まえて考えられた結果だ」


 実は、韓国がこの機に乗じて朝鮮に軍隊を派遣するという情報が入っていた。


「今回の国家中央軍事委員会の決定は正しいということを理解してもらいたい。では私はこれで……」


 と言うと政務官は空き缶をゴミ箱に捨てると、立ち去った。


 拓邦も空き缶を捨てると仕事に戻った。


      ※


「何が『理解してもらいたい』だ‼」


 拓邦は、激怒しながら自分の執務室へ向かう廊下を進んでいた。そして進みながら、


「これから、軍事費が増えるはずだ。つまり、この社会保障費は削減させられるということになる」


 と言って、3秒間沈黙すると、


「ただでさえ社会保障と福祉行政は、これからのこの国の最重要課題だって言うのに、そんなことをしていていいのだろうか?」


 と言って立ち止まると、廊下の壁に頭を突き付け、


「この国の人民が、健康で文化的な最低限度の生活を営めなければどうしようもないじゃないか……」


 とぼやいた。


 実は今日、その政務官が持ってきた書類は、厚生労働行政費の削減に関する内容のものだった。


      ※


 中国が朝鮮への人民共和国軍駐留をある程度完了させてから3日後のある日、大韓民国国家安全保障会議が、首都ソウル某所の庁舎の一室で行われていた。


 議長を務める韓国大統領が、


「中国が北朝鮮に軍を派遣した。これは我々の手で半島を統一するチャンスかもしれない。何か方法はないだろうか?」


 と言うと、国防相が、


「簡単なことです。北朝鮮国内の反体制勢力に武器を秘密裏に売ったり、我が国に在住している北朝鮮からの亡命者いわゆる脱北者同士で解放戦線を作らせて送り込ませる等をして、北朝鮮国内を『ゲリラ戦の嵐』にするんです。我々は手を汚さずに済みますし、我が国民と脱北者間の対立の緩和としても期待できます」


 と言ったことに対して大統領は笑みを浮かべて、


「なるほど、それはグッドアイディアですな。もっとも人道的に見ればバッドアイディアですが……」


 と言うとしばらく沈黙してからこう言った。


「北朝鮮を中国にとってのベトナムやアフガニスタンにしてやろうではないか。そして中国を泥沼に追い込んで見せようではないか」


 韓国大統領の目論み通り、人民共和国軍の朝鮮派遣は泥沼化することになる。


      ※


 人民共和国軍が朝鮮に派遣されてから2ヶ月後の年が明けた2038年、1月中旬の上海市内のとある家電量販店街。その一軒の店に画面が外に向かって掲げられているテレビがある。


 そのテレビの画面には、キャスターがこの国家・中華人民共和国のプロパガンダをやっていた。


 中華人民に対して愛国心を植え付けさせる目的の多種多様な演出が行われていた。キャスターもそれに比例してやはり中華人民の愛国心を鼓舞する鼓舞することを意識した口調で映像の説明をしていた。


 そのプロパガンダも最後になり、キャスターが今まで通りの口調で、


「中華人民よ、いざ立ち上がれ! 君たちにその自覚があるならば、今自分の目の前にいる者たちと手を取り合い、誇りある中華文化、中華民族の復興・発展させて、その栄光を全世界に、そして健全な秩序を建設しようではないか‼」


 と言うと、画面はスタッフロールになり革命歌「インターナショナル」がエンディングテーマというので終わった。


 この映像を通りすがりの一般市民の男性が最初から最後まで見ていた。


 男性は、その映像を見終えると、


「ふざけたものを流しやがって……」


 と言って3秒沈黙すると、


「『国を愛せ』って命令するってことは、その裏返しに多くの人民がこの国に対して不信感を抱いているってことだな。そうでなきゃ、こんなもんテレビに流さねえって」


 と言って立ち去った。


     ※


 人民共和国軍が朝鮮に派遣された結果、現地はいわゆる泥沼状態になったため軍事費が国家の財政を圧迫した。それが原因で、年金等の社会保険の属する厚生労働行政費にもシワ寄せが来た。


 そのため、中国各地の厚生労働部に属する機関には、連日人だかりができ、ついには暴動にまで発展した地域もあった。


 それだけではなく、今回の人民共和国軍派遣の結果、世界各国は中国に対して様々な制裁を行ったため、主に経済的に孤立した。その結果、国内は不景気に陥った。そして失業率が増加して、各地で失業者による暴動が相次いだ。暴動のスローガンで共通していたのは、失業率増加の直接的原因でもある「軍の朝鮮派遣を取りやめて、即時撤退」を訴えるものだった。


 このように、朝鮮に人民共和国軍を派遣したばかりに、今まで何とか持ちこたえていた国内の社会・経済秩序は乱れていった。


 余談だが、2038年夏に北京でアジアのオリンピックに相当する「アジア競技大会」が開催されたが、前年末のことを理由にアジアの主要民主国家は軒並み不参加を表明した。そのため、中国の一人芝居の状態で大会は進み、その大会の開催国の中ではメダル獲得数と入賞者数は圧倒的に多かった。


     ※


 北京市内のとある公園のベンチにそれぞれ「白髪でふさふさ」と「黒髪薄毛」の二人の年配男性が、とりとめのない会話をしていた。


「ああっ、もうこの国の寿命は近くなっていますなあ」


 と白髪でふさふさの男性がこう言うと、もう片方の黒髪薄毛の男性が、


「ああっ、そうですなあ。何で私たちはこんな時代を生きなければならないんでしょう? こういうときは酒を飲んで、いい気分になっていたいんですが……」


 と言い切ると3秒沈黙して、


「酒も、酒を買う金もないんだあ! 酒を飲んでいるときが一番だっつーのによ。すべてが嫌になるぜ‼」


 と黒髪薄毛がぼやき、直後にため息をついた。白髪でふさふさも続いてため息をついた。


     ※


 2039年4月8日。7午前7時20分。


 拓邦は、厚生労働部長の執務室で椅子に腰をかけて、天を仰ぎながら、今後自分はどうしたらいいのかを考えていた。


 そのとき、机の上に置いていた携帯電話が振動した。


 拓邦は、その電話を手に取り「はい、もしもし」と言った。


 電話の向こう側の人物は、


「昭同志。落ち着いて聞いてください」


 と言うと、次にこう切り出した。


「つい50分前、金響世議長がお亡くなりになりました」


 これに対して拓邦は驚くことなく冷静に、


「そうか、分かった」


 と言うと電話を切った。


 響世は、人民共和国軍の朝鮮派遣以降、それに関する問題の責任を問われて鬱状態に入り、体力の衰えも始まり、今年の3月上旬に倒れて入院をしていた。しかし響世の体力が戻ることはなかった。


 そして、3039年、4月8日の午前6時30分。心不全のために死去した。67歳だった。


      ※


 響世の死去からわずか3時間後の午前10時。共産党中央委員会館の一部の会議室に、響世を除いた44人の中央政治局委員が集まり、後継の議長を推薦するという名で事実上選出する中央政治局委員会が始まった。


 建前上、共産党中央委員会総会で出席者の過半数で決まることになっているが、中央委員300人の中から選ばれた中央政治局委員45人で構成されるこの中央政治局委員会が事実上、共産党と国家の最高指導者で国家元首を兼任し「紅帝」という通称を持つ共産党議長を兼任する機関だ。


 中央委員会総会は「追認」機関に過ぎない。


 今回の中央政治局委員会は、響世が死んだため中央政治局常務委員14人と中央政治局委員30人が対面している構図で会議が行われた。


 今回の「ポスト金」の有力候補に、国家保安委員会議長の安優あんゆう理りと国務院総理つまり中央政府首相の張煌ちょうこう陽ようの2人が挙がっていた。この内、安優理は拓邦と同じチベット自治区の出身だ。


 拓邦が今まで党内の出世街道を進んでいけた背景には仕事の実績はもちろんだが、同郷出身の優理に将来性を見出され可愛がられたからだ。1982年生まれで拓邦とは10歳の年齢差だ。


 優理の支持基盤には、長年勤務していた国家保安委員会と人民共和国軍が中心だったのにたいして煌陽は、党と中央官庁等の官僚組織を支持基盤に置いていた。


「それでは、会議を始めます。最初に、今回中央政治局委員と同常務委員の中で、党議長に立候補したい、またはこの人を党議長に推薦したいと思っている方は挙手をしてください」


 党議長被選挙権を有しない、中央政治局委員の1人が仮議長として議事を進行していた。


 仮議長がこう言うと、」会場内には沈黙が1分以上続いた。沈黙の不気味さが、会議に出席しているすべての者たちに異常な緊張感を抱かせたので眠っている者たちは皆無だった。


 そして、中央政治局常務委員の誰か1人が挙手をした。中央政治局委員も含めて会議室にいた全員がその人物に注目した。その人物は張煌陽だった。


「では、張同志にマイクを……」


 と仮議長が言うと、会議室の端にいた党の官僚の1人が煌陽にマイクを渡した。


 そして煌陽は、


「では同志の皆さん。私は今回、党議長に……」


 煌陽はこう言うと、少し沈黙してこう言った。


「安優理同志を党代表に推薦したい」


 その言葉に会議室内にいた全員が、言葉を封印して心の中で一斉に驚いた。


 煌陽はその後、優理の推薦演説を3分間して着席した。


 仮議長は、煌陽が演説を終えたことを確認すると、気を取り直して、


「ありがとうございました。それでは、推薦されました安同志、何かしゃべってください」


 と言った。そして中央政治局常務委員経由で優理にマイクが渡された。


 優理が演説を終えたことを確認すると、3分間自分の政策公約を演説した。


 優理が演説を終えたことを確認すると、


「ありがとうございました。この他にも立候補や推薦はございませんか?」


 仮議長がこう言ったが返事がなかったので、


「では、党議長に安優理同志を推薦することに異議はありませんね?」


 と仮議長が言うと、会議室にいた出席者全員が一斉に「異議なし!」と叫んだのですべてが決まった。その後、裏で安優理派による張煌陽派への根回しがあったことが、後に発覚することになる。


 そして、金響世の国葬を経た10日後の4月18日の党中央委員会総会で、優理は中央委員全員の、満場一致の拍手で党議長に選出という形で承認され、紅帝になった。


 それから、6日後の4月26日の全国人民代表大会。


 優理は、国家元首の国家主席に、全議員の全会一致の賛成で選出された。


 拓邦は、厚生労働部長に再任されたと同時に国務院副総理に任命された。このとき46歳。この年の10月に47歳になる。


      ※


 優理は、実に積極的に政治を行った。しかし、それも10ヶ月で事実上終わることになる。


 翌2月に優理は持病の糖尿病が悪化し、北京市内の病院に入院した。それでも仕事を休みたくない優理の意向を受けて、優理のいる病室の一部が、執務室であるかのように改装された。そこで優理は治療と執務を両立した。


 しかし、優理の容態は回復することなく、2040年11月24日、腎不全で死去した。


      ※


 優理の死去から、2週間後の12月8日の中央委員会総会で後継の代表に選出という形で承認されたのは、かつて優理と議長の座を奪い合いながらも、根回しによって、これを逃した張煌陽だった。拓邦も優理の後継者として周囲から有力紙されていたが「年の功」と党と国家の官僚勢力によって祭り上げられた煌陽が紅帝になった。


 煌陽はその後、翌2041年1月中旬の全国人民代表大会で国家主席に選出され、就任した。


 しかしながら、煌陽はこの頃から体の不調が目立ち始めていたため政界引退も考えていた。これが次期紅帝の座を奪い合っていた優理に譲った理由の1つだった。そのため周囲の者たちは、煌陽が何をするかよりも、1分間に何回呼吸するかを見て健康状態を知ろうとしていた。


 こうなった理由は至極単純で煌陽が1日7箱以上も吸うヘビースモーカーだったからだ。要するに、煌陽は「いつ倒れてもおかしくない」状態だった。事実、煌陽が国家主席に選ばれた際、その就任演説は自分の席に座りながらやった。しかも、その言葉は途切れ途切れだったので、その会議に出席した議員のほとんどは眠りに落ちていた。


 そして翌2042年1月、持病の肺気腫が悪化したので、北京市内の病院に入院した。


 優理のときと同じように、煌陽が入院している病室の一部は、あたかも執務室であるかのように改造され、そこで煌陽は治療と執務を両立したが、回復の兆しは見られなかった。


 そして、5年に1度の党大会の開会式を1週間前に控えた2042年8月25日に煌陽は死去した。62歳だった。


 ちなみに、煌陽の最後は病室を周囲の目を搔い潜って抜け出し、病院内の喫煙室で一服した後、安らかな表情を浮かべて仰向けになって倒れ、そのまま死去した。


 煌陽と喫煙室で一緒だった一般男性によると最期の言葉は、


「うまいなあ」


 だったそうだ。


          ※


 そして、煌陽の死去から1週間後の9月1日の党大会開会式の当日。


 大会は予定通り行われた。開会式の直前、出席者全員が煌陽に対して黙とうをした。煌陽の分の補欠選挙はすでに済んでいる。


 2037年から2042年までの党中央委員会と中央政治局委員会・同常務委員会の活動報告を行ったのは、拓邦に並ぶ後継の共産党議長、「紅帝」の有力候補で国務院官房局長の楊よう尚しょう賢けん中央政治局常務委員だ。


 活動報告が承認されると、新中央委員300人を選ぶ投票が始まった。党大会代表2400人の中から300人を選ぶが、得票数の多い者から順に当選する仕組みだ。そこで拓邦は、300人中3人目、尚賢は300人中1人目で選出された。


 そして、党大会の最中に中央委員会総会が開かれ、45人の中央政治局委員が選出された。このとき、尚賢は45人中1位だったが、拓邦は45人中2位という感じで、段々と順位を上げて尚賢に追いついてきた。


次の事実上の党および国家の最高機関である15人の中央政治局常務委員が中央政治局委員の中から選出され、拓邦は15人中1位、尚賢は2位で、拓邦は尚賢を逆転した。


尚賢は、自分の不利を悟った。


 党大会開会から1週間後の9月7日に事実上の新党議長を選出する中央政治局委員が開かれた。


 拓邦は、もちろん立候補した。


「昭同志以外に、今回立候補する方または誰かを推薦する方はいませんか?」


 仮議長をやっている中央政治局委員の1人がこう言った。


 すると、尚賢が直後に手を挙げた。そして、会議室内にいる自分を除いた44人に向かって、


「私は今回、党代表に……」


 とまで言って自分の人差し指をとある中央政治局常務委員に向け、


「晋しん勝利しょうり同志を推薦します」


 と言い、国家主席第一補佐官で煌陽の側近の晋勝利を推薦した。勝利はこう言われると、起立し自分を除いた44人に一礼をした。勝利は、こう言われると起立し、自分を除いた44人に一礼をした。


「他に誰かいらっしゃいませんか?」


仮議長がこう言っても誰も反応しなかったので、


「では、今回の党議長候補は、尚同志と晋同志で異議はありませんね?」


 と仮議長が言うと、会議室にいた出席者全員が一斉に「異議なし!」と言い、党議長候補者が2人出てきたので、3日後の9月10日の中央委員会総会は名実ともに議長を選出する会議になることになった。


 そして、9月14日の中央委員会総会。最初に演説するのは、拓邦の推薦弁士からということになっていたが、その推薦弁士に勝利も、勝利を推薦した尚賢も目を見開いた。


 何故ならその弁士は、金響世から張煌陽までの歴代政権下で「キングメーカー」を務め、今までの3政権では、国政を裏で動かしていた、財務部長で中央政治局常務委員の衛えい晴せい明めいだった。


 清明は推薦演説で、


「皆さん。この男はもうすぐ50歳になる人間だとは思えないくらい童顔だが、鉄の歯牙を持っているぞ……」


 という風に拓邦を強く推し、対して勝利の汚職を徹底的に追求した。


 この時点ですべては決まったものだった。


 投票結果は、拓邦=240票、勝利=60票で、拓邦は党議長に選出され、ついに紅帝になった。尚賢と勝利の派閥はその後、党と事実上国家の人事権を掌握した拓邦によって、要職等から解任と降格をさせられることになる。


 それは党大会が閉会してから実に2ヶ月後に起こることになる。


     ※


 党大会最終日の9月17日。


 議長に選出された拓邦は、2400人の代表に向かって就任演説をすることになっていた。


「中国共産党新中央委員会議長、昭拓邦‼」


 党大会議長が議長席から、こう発表すると会場内からどっと拍手が沸いた。


 拓邦は、自分の席から立ち、議長席の手前下の演台に向かい演題の前に立つと、2400人の代表に向かって演説を始めた。


「全国の共産党員および党友の皆さん。この私、昭拓邦を党議長に選んでいただき心よりお礼申し上げます」


 拓邦は演説の最初に、自分を選んでくれた党員および党友に対して感謝の意を伝えた。


 そして拓邦は、金響世政権下の2037年の朝鮮への人民共和国軍の派遣に触れて、響世を名指しで批判した。


「2037年の人民共和国軍の朝鮮派遣は、明らかに失策であることは誰の目から見ても明らかです」


 と言ったうえで、


「なるべく早いうちに、人民共和国軍を朝鮮から撤退させなければいけません。人民の生活や国益を尊重する意思が皆さんにあるならば、この政策を早急に打ち切るための努力を党員1人ひとりからしようと思わなければなりません」


 次に拓邦は、自分の政策のスローガンを「国家再編」と名づけたうえで、


「私がこれから行う国家再編政策について、私が納得できる対案を出さないでただ反対する者は去るべきです。また時代の流れに乗り遅れる者はその命をもって贖わなければなりません。私たちは、進むべき道が限られていることを理解しなければなりません」


 拓邦はその後、様々な内憂外患についてと、それらの解決策を探し、見つけられたらそれを何が何でも実行しなければならないとする旨を述べると、演説の最後にこう述べた。


「私たちは、国家が未曽有の危機的状況に陥っていることを自覚しなければなりません。そして、何が何でも解決しなければなりません。何故なら何度も言うように、それを怠ると命取りになるからです」


 拓邦の演説が終わると、会場内はどっと拍手で沸いた。


 拓邦は、拍手の中自分が今まで座っていた席ではなく、代表席と対面している中央委員席の中の「中央委員会議長」と書き記されている席に座った。


 拓邦が席に着いたことを確認した党大会議長が、


「昭同志ありがとうございました。それでは、党員および党友を代表し、中央委員の李調りちょう世せい同志から祝辞があります」


 というと、李調世は今まで座っていた中央委員席から立ち上がると、会場内の拍手で迎え入れられて演台へ向かった。そして演台の前に立つと、持っていた原稿を広げて、読み始めた。


 その内容は、最初に「昭同志の中央委員会議長就任を心よりお祝い申し上げます」等のまさに祝辞の定番的な内容だ。だが、最後は今までの共産党や国家の上層部の政治を痛烈に批判した内容で、


「国家の威信や人民の意識と生活を今日のような状況に追い込んだのは、国家はもちろん、政権与党である私たち共産党にあります。中でも歴代の党中央委員会の責任は最も大きいものです」


 という言葉で祝辞は終わった。拍手はちらほらあったが、今までのようにどっと沸くことはなかった。


 それから15分後、党大会も終盤に差し掛かり、


「それでは最後に昭議長から一言をお願いします」


 党大会議長がこう言うと、拓邦は自分の席から立ち上がり演台へ向かい、その前に立つと、満面の笑みを浮かべ、陽気な口調で身振り手振りを交え、


「やあ、皆さん。今日は本当にありがとう。これから私と一緒に新しい仕事をしましょう」


 と言った。すると会場内はどっと沸いた。


 党大会議長は、拓邦が自分の席のあるところに立ったことを確認すると、


「一同、ご起立願います」


 と言うと、拓邦を含めた中央委員と党大会代表は一斉に起立して、党大会代表は正面を、中央委員は背面を向いて直立不動になり、紅地に黄色の槌と鎌がクロスしているという旧ソビエト連邦の国旗にそっくりな共産党旗に注目した。ただし旧ソビエト連邦国旗は赤い星があるが、この共産党の党旗には星はない。


 すると革命歌『インターナショナル』のイントロが聞こえてきて、会場内にいる全員でこれを合唱した。


 合唱が終わると、党大会は閉会した。


      ※


 翌2043年、1月20日。


 拓邦は、全国人民代表大会の演台に立ち代表たちに、


「私は今後、国務院総理として国務院を通じて政治を行うことを希望する」


 と自分は国家元首である中華人民共和国主席、通称国家主席の職に就くことを拒否した。理由は至極単純で実権のない「お飾りの閑職」だからだ。


 次に拓邦は、


「そこで共産党中央委員会は衛晴明同志を、新しい中華人民共和国主席に推薦します」


 代表席と対面している閣僚席の1つに着いていた晴明は、このことに対して何の反応もしなかった。晴明は事前に、拓邦とこのことについて協議をして了解をしていた。


こうして、2027年以来就いていた財務部長の職を追われた。


 晴明はその後、国家主席に選出され、その晴明の形だけの指名により、拓邦は国務院総理に就任した。そして、国務院を総理と構成する行政部長、つまり財務部長等の閣僚も決まり、昭拓邦政権は名実ともに始動した。


     ※


 2044年、4月24日、昭拓邦の政権基盤を揺るがす深刻な事態が起きた。


 この日、内モンゴル自治区のゴビ砂漠内にある人民共和国軍関連の施設で電子機器の不具合による電子回路のショートで爆発事故が起きた。


 このことが何故、深刻な事態かというと、その軍関連施設は人造ウイルス等の人造病原体、いわゆる生物兵器の研究施設だった。しかもその爆発現場は試作生物兵器の保管区だったのだ。


 これは、その周辺地域に人間の手により新たに作られた未知のウイルスが四散したことを意味した。


      ※


「これは一体どういうことなんだあ‼」


 拓邦は、周囲の人間を圧倒する剣幕で国務院総理執務室で、呼び出してきた朱煌しゅかこう明めい国防部長に向かって怒鳴り散らしていた。


 拓邦は、今回の事故事体についても憤りを感じていたが、このこと以上に怒りを覚えていたのは、


「何故この私が、この深刻な事故を、発生から9日後の昨日5月3日に知らなければいけない!?」


 と言った後、こう切り出した。


「それも、外国大使の抗議でだ‼」


 拓邦はそう言うと、机の引き出しから何か書類を出した。


「昨晩、モンゴル国大使の抗議についての外交部からの報告書だ」


 と煌明に対してこういうと、1分近く沈黙した。


 室内を不気味な静けさが漂っていたが、その後拓邦は右平手で机を勢いよく叩くと、煌明に対して、


「情報をよこせ! 良いも悪いも関係なく、真実の、今現在の情報を持ってこい‼」


 と言うと、煌明は、


「は‼ 承知しました!」


 と言って執務室を後にした。煌明はその後、今回の事故の責任を取り国防部長を解任された。


 拓邦1人となった執務室で、拓邦は携帯電話を取り出して、閣議に相当する国務委員会総会はもちろん共産党の中央政治局委員会と中央委員会総会の開催日程の調整を始めた。


      ※


 内モンゴル自治区のゴビ砂漠内にある人民共和国軍生物兵器研究所事故の影響は、時の流れとともに段々と目立ってきた。


 感染による死者は、火の元の内モンゴルでは総人口の3割、寧夏回族自治区は5分の1近く、甘粛省では2割、そして隣国のモンゴル国では総人口の4分の1以上という結果だった。ただしこのデータは2047年までのものだ。


 ちなみに、この間に該当の2自治区1省では、5月1日のメーデーで、事故のことをまったく知らない末端の共産党員と一般市民がメーデーの行進をするために外を歩いていたところが多くあった。


 また共産党甘粛省委員会書記は、事故のことをまったく知らされてすらいなかったので、事故発生から3日後に末の孫を連れて外出をしていた。


 今回の事故は、まさに犯罪そのものだった。


      ※


 2044年10月2日。


 北京市内の共産党中央委員会館で、中央委員会総会が開かれていた。


 中央委員を前に拓邦は、議長席手前の演台から、


「今年の4月下旬に内モンゴル自治区の生物兵器研究所の事故は、ここにいる全員が分かっていることを信じたいですが、もはや国内だけの問題だけではなくなりました」


 中央委員全員が、拓邦の演説に注目していた。


 拓邦は演説を続ける。


「事故の深刻さは重要な議題です。しかしそれ以上に大事な議題は、現地・現場との情報伝達の不徹底さです。これは決してあってはなりません。官僚と政権与党組織内にはびこる『事なかれ主義』と『自己保身』というものを何としてでも改めて情報伝達が効率よく行われるようにしなければなりません」


 拓邦は、要するに情報の公開と管理制度の徹底を呼びかけたが、それだけではなく、


「国家再編の促進の重要性が増しました。今回をきっかけに、国家再編政策に一層取り組まなければなりません」


 と言って演説を締めくくった。


 この中央委員会総会では、事故の収束と感染者の救済そして感染拡大防止のためのワクチンの製造を緊急に実行するとともに、情報公開の決定や官僚・行政組織の効率化と再編成の徹底等の行政改革を促進させることが決定された。


 この中央委員会総会で決定した政策実行のための諸法案は、それから3日後の10月10日に全国人民代表大会が閉会中の常設機関、全国人民代表大会常務委員会に提出され、その常務委員全員一致の承認により可決成立した。


 しかしながら、感染による死者数が「ほぼ収束」と言える状態になるには、事故発生から10年以上を要したように、これは、中国国内だけではなく東アジア全体に影響を及ぼすパンデミックだった。


      ※


 昭拓邦政権が軌道に乗っていくにつれて、共産党内の権力闘争が目立ち始めた。


 それは、国家再編を加速すべしと主張し、急進派の代表格で拓邦の党議長就任の際、祝辞を述べた李調世と国家再編は急がずに漸進的に行うべきたとする朱しゅ建けん徳とくの対立だった。ちなみに調世は党大会の後、晋勝利の後任として国家主席補佐官として衛晴明を監視していた。


 そして2046年7月中旬の中央政治局委員会で調世は建徳に対して、


「朱同志は、私の仕事の邪魔ばかりをしている……」


 と建徳を名指しで批判し、建徳は、


「それは、根も葉もないデマで、李同志こそ中央政治局常務委員としての仕事はもとより国家主席補佐官としての仕事すら満足にこなしていないではないか!」


 と言う等、両者の一歩も譲らない言い争いの末、調世は拓邦に辞表を提出。政治局を追われた。


      ※


  2047年7月5日。


 昭拓邦政権の2期目を目指した党大会代表選挙を2ヶ月後に控えた北京市内の共産党中央委員会館。


 現在ここでは、党大会での活動報告案や今回大会で提出する党名変更等の議案が審議されていた。このうち「党名変更」とは、これまでの「中国共産党」から「中国社会民主労働党」に変更し、共産主義、マルクス主義の建前の下急進的な社会の変革を目指す極左派政党から絶縁し、自由主義社会の中で穏健的に活動をする社会主義政党、いわゆる社会民主主義を建前とした中道左派政党へと再編することを意図したものだった。


 この党名変更の議案は、総会に提出する前の中央政治局委員会でも激論が交わされたが、共産主義、マルクス主義そして急進的な社会の変革の部分は、保守派政治局委員数名の反対で党規約からの削除は難しくなった。


 結局、妥協案として「共産主義、マルクス主義に立脚した社会の変革」は「機が熟した、または遠い未来の人民の多数がこれらを求めている場合に限り実行」する時期までは「封印」するという意味の文章を規約に明記することと、「実行するためには基本的に議会などを介し穏健的」に行っていくという、いわゆる「平和革命」を意味した文章を明記することが提案された。


 拓邦は、これらに対して、


(『平和革命』てなんだ? 革命自体が暴力またはそれに準ずるもので成り立っているものじゃないか……でもやむをえないかあ)


 と思い、明記することに賛成した。


 そのような過程を経た諸議案である。党名変更の議案は、中央政治局委員会での事前の修正もあり、全中央委員の全会一致で可決された。


 そんな中、調世と建徳の間の激論がまた始まった。


「私はこれから意見を述べます。しかし……」


 調世は総会の演台で中央委員に向かってここまで言うと2秒沈黙して、


「しかし、皆さんが私の意見を聞く気がないのならやめます」


 と言い、読んでいた原稿をたたみ、自分の席へ戻る準備を始めた。


 この様子を背後の議長席で聞いていた拓邦は、


「待つんだ李同志。皆さんも、李同志の話を聞きましょう」


 と言うと調世は気を取り直して、原稿を開き、語り始めた。


「国家再編政策は、次々と実行していかなければなりません。それも成果が1年以内に現れる程の速度でです。国家再編政策により、一般人民の生活水準が向上したと名実ともに思うことで、私たちの党信頼と支持を多くしてくれるからです。ところが、現実は全く逆で、成果は何一つ挙がっていない。このままだと一般人民の党に対する信頼も支持も段々と減っていき、党消滅という結果を招く可能性があります。私も含めてここにいる我々は、もっと危機意識を強く持つべきです」


 調世は、こう言い切ると、そのまま自分の席へ戻った。


 拓邦は、調世が戻るのを確認すると、


「では次、朱建徳同志」


 と自分の席に座っている建徳に呼びかけた。


 建徳は、これを受けて演台に向かってその前に立ち、


「私は保守派でも急進派でもありません。漸進派つまり穏健派です。私は自分自身を物事の分別がしっかりできる人間だと思っております。改革は始まったばかりです。結果はすぐ出てくるはずがありません。改革はもちろん物事には順序というものがあります。そのときそのときに応じて穏やかに、でも確実に行っていくことが物事の道理なのです。急進的な改革・変革は社会に混乱を招くだけです。李同志、ここにいるということはそのことを理解しているはずだ。君の主張は危機ばかりを煽って、この世の道理に混乱を招くだけだ! 私はここではっきりと言う。李同志よ、もう君とは仕事はできない! 今すぐにでも離党してくれ! 昭議長、あの不逞の輩にこの名で党からの除名を宣告してください!」


 と終始強い口調で言い切った。


 拓邦は、建徳がしゃべり終わったその瞬間、目を見開いて体を「ビクッ」と震わした。


 調世は、建徳が話終わると自分の席で腕を組んで、相手を下に見ている呆れた感じの深いため息をした。


 拓邦は、建徳が自分の席に着いたことを確認すると、議長席から演台に向かい、そこから中央委員に対してある提案をした。それは、


「次期の全国人民代表大会代表を直接選挙で選ぶということにしたいのですが、どうでしょうか?」


 一般的な国会に相当する全国人民代表大会代表は、各省・自治区・直轄市等の議会に相当する各省・自治区・直轄市等の人民代表大会の議決により配分定員分選挙されていたが、これはその地域の有権者の意思と全国人民代表大会の議決に大きなズレが生じる可能性が指摘されていた。


そして、この2047年以降に部分的に認められる複数政党制が人民の間に馴染んできて、今後国内の各議会で共産党を改め社会民主労働党が議席を減らすまたは失うということになると政権が危くなる可能性があるため、各選挙区から有権者の投票で選ばれる直接選挙に変えるという提案だった。


こうすることにしたもう一つの理由に、社会民主労働党の代表のほとんどが、選挙されていた地域内で、一定の強固な地盤を個人名義で形成していたことが挙げられる。


中央委員会総会は拓邦のこれらの諸提案を賛成多数で可決した。


これにより、次期の全国人民代表大会代表は有権者に直接選挙されることに決まった。それだけではなくその選挙では、部分的な複数政党制の導入による総議席の内4割を自由選挙とすることそして、党名を「中国共産党」から「中国社会民主労働党」通称「社民労党」と変更する党大会用の議案が通過した。


またこの総会では、憲法改正草案も審議の対象になった。


そして2047年10月5日。


2期目を目指した党大会が、北京市内の国立球技体育館を貸し切って開かれた。拓邦はそこで、これまでの中央委員会の活動報告及び党名変更や部分的な複数政党制の導入等の議案を提出した。そして、すべての議案の承認をもらった。


これにより、中国共産党は党名を中国社会民主労働党へと変更されることが正式に決まった。


その後、中央委員会総会や中央政治局委員会そして中央政治局常務委員会を経て、拓邦は党議長に再選された。いや、党名が変更されたため、社民労党議長に就任したと言った方が妥当だろう。


     ※


2047年11月20日。全国人民代表大会本会議で拓邦は、代表一同に向かって、


「2047年11月1日現在、人民共和国軍の朝鮮からの撤退は5割以上完了した」


 と伝えた。


 実は2046年8月、スイスのジュネーブで行われたアメリカ、朝鮮、中国と韓国の4ヶ国協議の結果、中国の人民共和国軍の朝鮮からの撤退が決定・約束された。


 この全国人民代表大会で、拓邦は党内でまとめた憲法改正案をいくらかの修正を行ってこれを通した。


 この改正憲法では、前文の「中華人民は、中国共産党との間で一党万民そして党民共治の考えの下、相互に相対的な団結と協力をして祖国、中華人民共和国の社会を含めたすべてを発展させていく」という意味の文章の「中国共産党」を「中国社会民主労働党」に書き換えることが行われた。


 また、国家主席の通称で知られる中華人民共和国主席の地位と権限を、儀礼的・形式的行為しか行えない「お飾りの閑職」から、名実ともに実権のある国家元首、国家の最高代表者へと強化し、名称もそれまでの「中華人民共和国主席」から「中華人民共和国総統」通称「共和国総統」に変更となった。


 その一番の特徴として、人民共和国軍の最高指揮権を有していた国家中央軍事委員会主席が、今まで国家主席とは建前上独立した役職だったが、今回の改正によって共和国総統が選出と同時にこれを兼任できるようになったことである。


      ※


そして、2048年2月12日。


 全国人民代表大会代表の初の直接選挙の投票が行われた。代表全員を選挙するため、この選挙の正式名称は「全国人民代表大会代表総選挙」だ。


 選挙制度は、一選挙区において投票率は別として過半数の得票を得た者が1人だけ当選するという過半数小選挙区制だった。これは、1回目の投票で過半数の得票を得た者がいなければ、上位2者で決選投票をすることになっている。


 投票率は、一般人民の関心の高さを物語って8割前後だった。


 定数2700議席中各党派の獲得議席は次の通りになった。


・中国社会民主労働党=1901議席。


・中国国民党=72議席。


・無所属、非社民労党諸派=727議席。


 この選挙で社民労党は、改選前の7割前後の議席を維持したものの、大半の選挙区で対立候補とは接戦だった。そして今回の総選挙では、1949年まで本土の覇権をめぐって社民労党が名称変更する前の共産党と血みどろの内戦の末、台湾に追われていた「中国国民党」が本土に復帰し、中国国民党革命委員会を吸収合併して初の国政選挙で、72議席を獲得した。


 ちなみに拓邦の地元であるチベット自治区の配分議席の内、社民労党は拓邦も含めて半分の議席を獲得し、新疆ウイグル自治区では全議席を失った。


 拓邦は、今回の選挙結果を受けて記者会見で、


「今回の選挙結果を人民の意思だと自覚し、真摯に受け止めなければならないと思っています」


 と言った。


そして、今回の選挙では杜徹と牧星輝がそれぞれ無所属で立候補し、当選した。そして政治生命を回復した。


 徹は、当選確実直後の記者たちのぶら下がり会見で、


「今回の選挙で、人民は初めて自分の意志で行動ができたのだと思います」


 と言った。


      ※


 そして、2048年2月20日。新しく選挙された代表の下で全国人民代表大会が開会した。


 全国人民代表大会議長でもある全国人民代表大会常務委員長を含めた同大会常務委員の選挙が行われた後に、


「本会議は昭拓邦君を、中華人民共和国総統に選出します!」


 拓邦はこの日、巨大な権力を持った共和国総統に就任した。


      ※


 時代は大きく動き始めていた。


 ベトナム共産党に一党独裁体制だったベトナム社会主義共和国では、2047年の中頃に首都ハノイの党中央委員会本部で行われた中央委員会総会で、党名を「ベトナム共産党」から「ベトナム社会民主労働党」に変更することと憲法改正による複数政党制の導入や、社会主義体制から完全離脱することを決定していた。


 当然ながら国号も「ベトナム社会主義共和国」から「ベトナム民主共和国」に変更することも決定された。


 また人民革命党の一党独裁体制だったラオス人民民主共和国でも、2045年ごろから党中央委員会が一党独裁の放棄と複数政党制の導入、憲法改正による民主化そして「人民革命党」の名称を「人民民主党」に変更すること等の改革を実行することを決定していた。


 そして朝鮮民主主義人民共和国では、中国の人民共和国軍が完全撤退した後の2047年3月上旬に、国会に相当する最高人民会議で憲法改正が行われて、同じく一党独裁体制を敷いていた朝鮮労働党が自ら、一党独裁の放棄、社会主義体制の完全放棄と政治体制の民主化を宣言した。そして、次の最高人民会議代議員選挙は自由選挙とすることが決定された。


 また、中華人民共和国でも拓邦が共和国総統に就任した後に行われた直轄市である重慶市の市議会に相当する市人民代表大会と四川省の省議会に相当する省人民代表大会では、それぞれ定員の過半数は維持したものの改選前の議席数を大幅に減らした。またかつて長安と呼ばれた西安の市人民代表大会では比較第一党ではあったが過半数を割りこむ大敗が起きるという社民労党や昭拓邦政権にとって衝撃的な地方選挙の結果が目立った。


 これら一連の東アジアの社会主義国の民主化運動について、欧米の知識人たちは、1989年の東欧諸国での民主化運動になぞらえて「東亜革命」と呼んだ。


      ※


 そして中国の社民労党中央委員会は、もちろん警戒感を抱いた。


「やはり、このような変化が起こるだろうと思っていたんですよ!」


 この事態を受けて、2048年4月下旬のある日、党中央政治局常務委員会が行われていた。


「もうこの際、戦車でガーと……」


 と言いだした中央政治局常務委員に対して、


「暴力で治めても一時的なものにしかなりません。変なことを言うのはやめていただきたい!」


 と言ったが、


(まずい。覚悟はしていたが、人民の共産党及び改称して社会民主労働党の100年近い連続長期政権にたいする飽きというものが、これ程のものだったとは)


 と思っていた。


 また別の中央政治局常務委員には、


「まったく、衆愚政治とはよく言ったものだが、人民はブームとなるとブームに魅かれてなびいていく。政策の実行力のある結社について等なんかまったく考えないままにだ。政策について考えずにブームにつれられていくならば、後で地獄を見るのがこの世の歴史的常識だというのに」


 という者もいた。


 これには拓邦は、


(そう言うあなたは、一体何様のつもりだ。あなたみたいな高慢な人間がこの党の幹部になっているから人民は幻滅して、あなたの言うブームに乗っていくことも歴史的常識です)


 と思い、頭を抱えてうずくまるしかなかった。


 そしてまた別の中央政治局常務委員は、


「いやあ昭議長、いや総統でしたね。総統は本当のところこのような社会の変化が起こることを考えて政治を行っていたのでしょう。しかし、予想していた以上に社会の大変動が起こっているのを見ますと昭総統そうとう相当そうとう戸惑っておいででしょう? はあはははははははははは。あ……」


 と言った。その直後、会議室内に木枯らしがピューと吹いた。寒気で一瞬身震いをした者もいた。


 このことに拓邦は、


「戸惑ってはいません。覚悟はしていましたが」


 と返した。


 このように中央政治局常務委員が、時代の変化について「あーだ」「こーだ」とまとまりのない議論を交わしている中、拓邦は机を叩き中央政治局常務委員を自分に注目させると、


「今日の時代の大変動というものを踏まえると、我々も決断をしなければなりません」


 と言い、今回の会議の本題に移ろうとした。それは憲法再改正についてだった。


「議長。本当に憲法から我々社民労党の事実上の一党独裁の放棄、つまり党の指導を謳った意味のすべての文章を改正憲法から削除するのですね」


 と言った中央政治局常務委員に対して、


「もちろんです、私たちは国家の最高法規である憲法で政権基盤を裏付けているだけでは党も国家も発展しません。人民つまり国内の有権者の期待に答えることができてこそ、その政権基盤を裏付けられるようでなければならないからです」


 拓邦は、憲法を再び改正し、党の国家・人民の指導を意味する文章を憲法から削除し、いわゆる事実上の一党独裁を放棄することを、今回の会議で提案をしていた。


 会議は中央政治局常務委員同士の発狂・怒号そして奇声が飛び交う中続き、ついに一党独裁を放棄することが決定されたのは、それから2ヶ月後だった。


      ※


 2048年5月1日。


 拓邦が、強大な権力を持った共和国総統になって初めてのメーデー。出席者は4年前の事故のことも考えて全員ワクチンを注射されている。天安門広場で行われているメーデーの行進は、ワクチン接種者に限定されていた割には広場を埋め尽くす程の群衆で溢れかえっていた。それは、広場に入る人間を社民労党員に限定という規制を完全に撤廃したからだ。


 中華人民共和国の建国以来、歴代の国家最高指導者たちは天安門のバルコニーの中央に立つことが慣例だったが、この日拓邦はその中央を労働組合の全国組織である中華全国総工会の議長に譲った。


 今回のメーデーでは、広場に集まっているのは一般市民であるため、社民労党の指導者の拓邦が門のバルコニーから現れると、メーデーに参加した一般市民は一斉に、


「帰れ‼」


 等のブーイングの集中砲火を受けたので、拓邦は門のバルコニーに来てから30分も満たない内に広場に集まった市民の前から姿を消した。


      ※


 2048年9月12日の午前中。


 拓邦は、中国全土の人民に国営放送のテレビ演説でメッセージを送った。


「親愛なる皆さん。私は、中華人民共和国総統及び中国社会民主労働党中央委員会議長の昭拓邦です。私たち社会民主労働党中央委員会は、先月20日から今月13日までの総会での議論の結果、国家の最高法規である現行憲法から、党の指導を意味する文章を削除した改正案を来年の全国人民代表大会に提出することを決定しました」


 拓邦は、党の一党独裁を放棄することを宣言した。そして、ついでに憲法から社会主義体制を意味する文章も、全面的に改定することも表明した。すなわち民主化を宣言したのだ。


 このテレビ演説が行われた直後、国内の一般市民は画面と言う画面の前で、歓喜の声を上げた。


 それは、家の外へ飛び出し、面識のない老若男女同志が抱き合い、喜びの涙を流し合いそして拳を天高くつき上げ、


「万歳! 万歳! 万々歳々‼」


 とこれまでにない声で叫び合い、何か心が一つになりそうな歌謡曲を合唱するほどだった。


 拓邦のこのテレビ演説の宣言は、発表された日付から「9・12民主化宣言」と呼ばれることになった。


      ※


 翌2049年1月20日に開会された全国人民代表大会では、再び憲法改正が行われた。これにより、特に憲法の前文からは、いわゆるプロレタリア独裁や社会主義革命体制的な、またはそれらを示唆するような文章は削除され、世界の一般的な民主国家・福祉国家に書かれていそうな内容に変わった。


 色々と混沌とした部分もあったが、今回の全国人民代表大会では、国家の予算案等の大事な議案は何とか通過し、無事に閉会した。


 しかし、拓邦は知らなかった。この後、自身の政権崩壊をもたらす止めの一撃が刺されようとしていることを。


      ※


 2049年2月18日。


 拓邦は、来月5日までの静養のため、長江中流域にある保養地へ向かった。


 このときを見計らって、策謀を練るものたちがいた。


 楊よう孝こう徳とく国務院総理と王景おうけい国防部長そして菅かん泰斗たいと国家保安委員会議長等の8名が「国家緊急権執行委員会」を密かに組織し、政権奪取と行き過ぎた改革の阻止を目的としたクーデターを企てていた。


「このままだと社民労党が政権を失うだけではなく、国内の社会秩序が混乱する可能性があります」


 孝徳がこう言うと泰斗も、


「同感ですなあ」


 と言い、景も、


「もはや、手段を選ぶ時間はない」


 と言うと、残りの7人は首を縦に振った。


 もはや、クーデターの実行は明らかだった。


 作戦名は、拓邦が静養のためにいる別荘がある場所の暗号を取って「日の出作戦」と命名された。


      ※


2049年2月26日の午前10時。


 拓邦は、別荘のリビングで今後のことを考えていた。


 そのときインターホンが鳴り、家政婦の「ハアーイ」と言う声が聞こえたかと思ったら、家政婦の「キャアー」という悲鳴が聞こえた。


 拓邦は、一体何事かと思い、今まで座っていたソファーから立ち上がった。その直後、拓邦の目の前に数十人の黒服と黒サングラスの男たちが現れ、そのリーダー格と思しき男性が拓邦に向かって、


「中華人民共和国内に無期限戒厳令の発布と楊孝徳総理にあなたの共和国総統としての権限をお譲りください」


 と言った。


 拓邦の答えはもちろん、


「すべて拒否する。それらは到底受け入れられない」


 だった。


 するとそのリーダー各の男は、


「ではあなたをここに軟禁します」


 と言うと、


「それから、あなたは自覚すべきでしょう。もはや自分に従う人も組織も皆無だと言うことを」


 と続けて言った。それから、男は全員をリビングから先に出してから出ていき、拓邦は1人になった。


 リビングでたった1人になった拓邦は、


「これが今まで僕が頑張ってきたことの答えなのか……」


 と呟くと、両膝を床につき、憔悴しきった表情で天井を仰いだ。


      ※


 同じ頃、テレビ・ラジオ等のメディアでは、


「昭拓邦共和国総統が、体調不良で職務執行不能な状態に陥る」


「全国に無期限戒厳令が発布。楊孝徳国務院総理が共和国総統に就任した上で『国家緊急権執行委員会』を結成することが発表されました」


 等の報道をした後に孝徳の演説が始まり、市民は落ち着いているように等の注意を呼びかけた。


 しかし、最近の市民はバカではない。


 このことを知った一般市民は、見知らぬ者同士、隣同士団結して国内各地で反クーデター勢力デモが行われた。


 李調世や杜徹そして調世と対立していた朱建徳も、このときばかりは共闘し、市民とともにクーデター勢力に対抗することを宣言した上で、


「クーデターは違法。国家緊急権執行委員会は明らかに非合法。私たちは最後まで戦いましょう‼」


 と市民に呼びかけた。そして、北京市中心部の天安門広場に建てられており、全国人民代表大会の議事堂である、人民大会堂へ市民とともに向かい、着いた人民大会堂を抵抗の根拠地とした。


 反クーデターの運動に参加するためにビルの中へ入る人の中には、野党勢力はもちろん社民労党員の姿もあった。


     ※


「これは、一体どういうことなんだ?」


 天安門広場からある程度離れたところにある共和国総統府に本部を置いている国家緊急権執行委員会は、狼狽していた。


「人民たちは我々の言うことに耳を貸そうとしない」


「え、何、ふざけんな! もしもし? もしもーし!」


 景は怒りながら電話をかけていた。どうやら相手の方から切ったようだ。


 孝徳は、景に、


「王部長、一体何があったのですか?」


 と怒っている理由を尋ねた。答えは驚くべきものだった。


「今、人民共和国軍総参謀議長にデモ隊の鎮圧と天安門広場及びそこにある反乱分子の根城と化している人民大会堂を制圧せよと命じたら『我々人民共和国軍は市民方につく』と返されました」


 この発言には孝徳の開いた口がふさがらなかった。


      ※


 その頃、天安門広場には多くの市民が集まっていた。その市民の中には赤を基調とした現行の中華人民共和国の国旗や初代国家最高指導者、毛沢東の肖像を焼いている者もいた。


 その一方で青を基調とした、中華人民共和国の前の国家である中華民国の国旗を振りかざす者や中国社会の近代化の父である孫文の肖像を掲げる者がいた。


 市民が天安門広場で騒いでいると、突然数十台の装甲車がやってきた。市民たちは自分たちを鎮圧しに来たのかと思い悲鳴を上げる者もいれば、その装甲車部隊に注目する者もいた。それらは、市民の目の前で一斉に停まった。


 すると、その先頭の装甲車から階級が高そうな将校が出てきて市民に向かって言った。


「心配しないでください。我々はあなた方、正義のために集まった市民を守るためにやってきました。さあ、我々とともに立ち上がりましょう!」


 その言葉に市民たちは歓声を上げた。その直後市民の1人が、


「あ、おい、あれを見ろ!」


 と言って指を指した方向には先に到着した舞台とは別の装甲車部隊がやってきた。すると、さっき市民に呼びかけていた将校の表情が険しくなった。


 そして市民に向かって、


「我々の装甲車に隠れてください。あれこそあなた方を鎮圧しにきた部隊です」


 と言うと将校は、装甲車の中に入った。


 そして数分も経たないうちに「装甲車部隊と一般市民対もう一方の装甲車部隊」という戦火を交えずに、睨み合う構図が出来上がった。


 ちなみに最初に来たのは人民共和国軍の装甲車部隊である。対して後から来たのは国家保安委員会の第一機動部隊だった。


      ※


 そして3月1日。クーデターを起こしたグループ「国家緊急権執行委員会」は組織としての体をもはや成していなかった。何故なら全メンバーが、持ち主不明のウイスキーでヤケ酒を始めていたからだ。


「国内の秩序を安定させる目的で戒厳令を発したのに……」


 孝徳は、1人こう呟いた。


「天安門で発砲命令を下しますと、最悪、内乱に突入するかもしれません」


 景はおもむろにこう言った。


 しかも泰斗からは、こう言う言葉が出てきた。


「我々の頼みの綱である国家保安委員会の最新鋭、第2機動部隊は、事態を静観することを求めており、鎮圧には消極的です」


 もはやすべてがきまっているに等しいことを悟った孝徳は、しばらく沈黙してこう言った。


「国家緊急権執行委員会は、現時刻をもって解散。そして、委員は全員投降すべし」


 解散後、人民共和国軍の憲兵に全員拘束されたが、ヤケ酒で500ミリリットルのウイスキー14本をすべて空にしたからか、全員自力で歩けない程にまで泥酔しており、彼らを連行した憲兵たちは、


(この人たちは、これでよく国家緊急権執行委員会なんて名乗っていたよな……)


 と思っていた。


 今回のクーデターの名称は、天安門広場で大規模な睨み合いがあったことと、発生した2月26日は「2・26」とも表記されることから「2・26天安門事件」と呼ばれることになる。


 ちなみに、委員全員がヤケ酒として飲んでいたウイスキーは、クーデターが成功した後の「祝い酒」として飲まれる筈のものだった。


      ※


 そして、2049年3月5日の午前中。


 北京首都国際空港に一機の政府専用機が着陸した。


 新聞やテレビ等の主要なメディアの記者・アナウンサーたちは、その飛行機から降りてくる人物に注目した。


 それは、今まで軟禁状態に置かれていた共和国総統・昭拓邦だった。


 拓邦は、飛行機から出ると、たくさんのカメラのフラッシュを浴びながらタラップを降り、迎えの車に乗った。そして、事件の後始末をするために人民大会堂へ向かった。


      ※


『もはやあなたに従う人も組織も皆無だ……』


 拓邦は、自分を軟禁した黒ずくめの集団のリーダー格の男に言われた言葉をふと思い出していた。


 拓邦は今、全国人民代表大会の本会議場で代表たちを前に、主に今回の事件の処理とそれを未然に防げなかったことへ謝罪等の演説をしていたが、野党代表はもちろん、与党社民労党の代表たちですら、拓邦の言葉に耳を貸す者はいなかった。このような状態であったために、これ以降、拓邦の発言はやたら長いだけで、説得力に欠けるものになっていくことになる。


 今回のクーデターを企てたのは、国務院総理や国防部長等の国家の中枢にいる高官だっただけではなく、拓邦が任命した者たちだった。このため当然ながら事件以後、拓邦の特に社民労党内での求心力は低下することになった。


 クーデターに対して市民を率いてクーデターに対抗した李調世は、


「党や国家をまとめきれない指導者がトップの党にいても未来はない」


 と言った上で、自分の考えを支持する全人代代表と社民労党を離党し、新党「中国社会自由憲政党」を結成した。そして、非代表の党員にも社会自由憲政党に移籍を促し始め、それを考えている党員が現れ始めた。


 また、共産主義と急激な社会変革を謳う社民労党の急進左派に属する一部の代表たちは、


「昭議長の行ってきた政策は、右転落以外の何物でもない」


 と言い離党し、新党「中国人民民主党」を結成した。そして例によって非代表の党員にも人民民主党に移籍を促し始めた。


 この結果、社民労党の全人代の保有議席は、総議席の70パーセントから43パーセントにまで激減した。これらはすべて選挙を経ないでだった。


 このため拓邦は、中央委員会や中央政治局内でも求心力は低下していった。そして、


(確かに、もう自分に従う人も組織も皆無だな)


 と思うようになった。


      ※


 2049年4月3日。


 拓邦は、中央委員会総会で党中央委員会議長を辞任することを表明した。


「今回の騒動による、離党者の続出と全人代での過半数割れは、私の求心力の低下が影響していることは、皆さんが知っている通りです。一連の出来事は私の責任です。最後に、時代は大きく変わっています。それぞれの時代に応じた政策を人民に提供でき、信頼と支持をつかめる新しい指導者にこの社民労党とこの国の未来を託します」


 と言い、最後にこう言った。


「私は中国社会民主労働党中央委員会議長を辞任します」


 すべてを言い切ると、今まで述べていた演台の上に辞表を置いて、中央委員席へいった。


 その後、拍手喝采の全会一致で辞表が受理されると、立ち上がり、総会会場から去って行った。


 それから3週間後の4月24日。


 後任の党議長に就任した朱建徳に呼び出され、議長執務室にいた。そこで拓邦は、


「昭拓邦同志。一連の出来事の責任を鑑みて、あなたを今月付で党から除名します」


 と社民労党からの除名を宣告された。そして建徳は、


「自身の机とロッカーの引き払いをしてください」


 と言った。拓邦はこれに対して、


「私を除名しますと、この党は自動的に政権から下野ということになりますよ」


 と言ったが、建徳は、


「我が党は、全人代で過半数割れをしています。その結果新しく選出された国務院総理及び閣僚はもちろん、全人代常務委員も人民民主党と我が党を除いた勢力が主導権を握っています。もう事実上下野していますので、お構いなく」


 と返した。建徳が言ったとおり、現在の全国人民代表大会は、社民労党と人民民主党以外の勢力が統一会派「立憲自由民主連合」を組んで単独過半数に至っていた。拓邦もこの統一会派の意見を丸のみにして受け入れなければ、共和国総統としての職務を遂行できない状態だった。


「謹んで、除名処分をお受けします」


 拓邦は、建徳にこう言うと、軽く一礼し退出した。


 共和国総統という国家元首についていた社民労党員を除名したことにより、社民労党は共産党時代を合わせた100年近い連続長期政権の座から身を引くこと、いわゆる下野することになった。


 そしてこれにより、1991年のソビエト連邦の消滅で一区切りがついていた東西二大勢力時代は「完全」に幕を閉じた。


 こうして拓邦は「最後の紅帝」になった。


      ※


 無所属になった拓邦は、国家元首の共和国総統の地位に就いたままだった。しかし、その地位も危い状態だった。


 2月26日の事件以降、調世の求心力が日を追うごとに高まっていった。


 調世の支持者たちは、調世を迎えるときは今まで使用されていた紅を基調とした国旗と毛沢東の肖像から、クーデターの抗議デモで一般市民が掲げて振っていた青を基調とした旧中華民国の国旗と孫文の肖像を掲げ「万歳」を連呼するシュプレヒコールを挙げて迎え入れられるということが社民労党からの離党ラッシュが起こってから、よくあることになった。


 そして、2049年4月5日から、調世は自身が党代表を務める社会自由憲政党や中国国民党及び社民労党と人民民主党に属していない無所属諸派の代表たちと統一会派を結成に向けての協議を始めた。そして4月17日に統一会派結成に関する合意が成立。ここに全国人民代表大会内に総議席の単独過半数を占める統一会派「立憲自由民主連合」が成立。もちろん、トップは李調世だ。


 そして、2049年8月下旬に統一会派・立憲自由民主連合は1つの政党にまとまり、新党「中国自由主義憲政党」の結成までに至った。


「おお、おお、やっているな。歴史が大きく動いているな」


 拓邦は、ここまでの経緯を新聞・テレビそして携帯電話のメディアニュースチャンネルで見ていた。


 また、2049年9月1日。全国人民代表大会常務委員会は、天安門に掲げられている毛沢東の肖像画の撤去とその場所に孫文の肖像画を代わりに掲げることを定めた法律を議決した。


 拓邦は、この決定に対して、


(ああ、とうとうこれも受け入れなければならなくなったのか……)


 と心の中でぼやきながら、今月20日に施行されるその法律に大勢の記者やカメラに囲まれる中、公布文書に署名をした。


 その後、1人になった共和国総統の執務室で考えごとをしていた。


(今までのことを振り返り、現時点の自分の状況を考えると僕には中華人民共和国の建国100年記念式典で演説をする資格はないな)


 来月には、中華人民共和国の建国100周年記念式典が行われることになっていた。そして拓邦も2月26日の事件さえなければ、手元にある原稿を10月1日の式典でイキイキと読む筈だった。しかし、


「どう考えても無理だな」


 全人代で単独過半数を占めている自由主義憲政党には操り人形状態になっており、古巣の社民労党からは除名されている。等々で全人代は拓邦にとって四面楚歌の状態になっていた。


「政策を実行するための法案を審議する議会が、四面楚歌だというのに、総統職についている意味はあるのだろうか?」


 拓邦は、目を閉じてジッと考えていたがその後建国記念式典用の原稿とそのデータが入っているパソコンを起動し、改稿作業を始めた。


「そろそろ僕も潮時だな」


 拓邦は決意を固めた。そして建国100周年記念式典用の原稿を、共和国総統辞任演説用の原稿に改稿する作業を始めた。


      ※


 2049年9月8日の午後7時。


 拓邦は、テレビとネット動画を通じて国内にいる全人民に向かって演説をした。


「親愛なる皆さん。私は中華人民共和国総統、昭拓邦です。先月下旬、全国人民代表大会にて『中国自由主義憲政党』が結成された今、私は中華人民共和国主席を辞任します」


 拓邦はまず、自分が共和国総統を辞任することを表明した。


 次に、自分が今まで行ってきた諸政策やそれらの不徹底により有権者・人民の期待に答えられなかったことに対する謝罪と建国100周年記念式典で言いたかったことを述べた。そして最後に、


「今後私たちだけではなく、私たちの国が人間的で文化的な意味での健全な民主主義社会を、皆さん1人ひとりが考えて知恵をしぼり建設していくことを心の底よりお祈り申し上げます」


 拓邦は、ここまで言うと何故か5秒以上言葉がつまった。そして沈黙を破りこう言った。


「それでは皆さん、さようなら」


 その共和国総統辞任演説では、明らかに自分の気持ちの整理がついていた様であった。


      ※


 辞任演説の終了後、拓邦は記者団との会見に臨んでいた。


「ロンドンタイムズの者です。昭前総統、あなたも随分時の人となりましたね。私はあなたがこの国の最高指導者になったから、一連の東アジアでの大変動、東亜革命が起こったと思っているのですが、あなたはどう思っているのでしょうか?」


 拓邦は、この質問に対してこう答えた。


「確かに、あなたの言う通り、今回の大変動のきっかけに私が行った諸政策も考えられるでしょう。しかしながら、今日の変化は起こるべくして起こったことです。そして私が現れていなくてもこのような変化は起こっただろうと、私は思います」


 拓邦のこの回答に対して、その質問をした記者は「ありがとうございます」と答えてそれっきりだった。


 そして拓邦は、自分に質問する者が1人もいないことを確認すると、記者団に一礼をし、全国人民代表大会常務委員長に、名実ともに辞任するための辞表を提出しにいくためにその場を立ち去った。


 カメラのフラッシュを浴びながら去っていくその姿は、まさに歴史の表舞台からその闇へと立ち去って消えていく時の人だった。


      ※


 同じ頃、天安門の中央に100年近くの間掲げられていた毛沢東の肖像画。その肖像画は、警備員や土木作業員の手により下され、撤去された。そして、布にくるまれ、トラックに積まれて運ばれた。


 そして変わって、毛沢東の肖像画が掲げられていた場所に、孫文の肖像画が同じく警備員と土木作業員の手により掲げられた。




                                          (完)


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最後の紅帝 佐藤 裕太 @8573t23

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