死にいたる痒み

老々堂つるきよ

前編 痒みの始まり


 痒くない!


———冷静になるのだ。痒みとは畢竟弱い痛みでしかない。であるならば度を越した痒みなどというものはあろうはずがない。それは自己矛盾した概念だ。


 また、意識的に訓練することで痒みを痛みに感じ変える事も可能だという。その程度のものが、私の40年積み上げてきた堅牢無慈悲な理性の砦を打ち崩すことなどできるはずもない。


 痒みという幻想に屈してはならない!たとえ脳の芯に痒みが到達しても!たとえ全身1.6㎡の皮膚全てが痒みに占領されても!たとえ血管に鳥肌が立ち、肉が浮き、骨がふやけても!痒みに支配されるな!俺は痒くないぞ!痒くないんだぞう!悪邪なる痒みよ立ち去れーーー!!!!


痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない

痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない痒くない


 そうしては私は正気を失った……


―――――



 私はS県T市で大学教授をしている渡瀬宏丸、今年で47才になる。7才で数字に取り憑かれ、40年の間数学の深淵を極めんと生きてきた。


 ところが、この歳になって人生を振り返りなかば後悔することがある。恥ずかしながら私は独身であり、必然的に子もない。


 地位を得て歳をくった私を責める様な人間は誰もいないだろう。私のひたむきな研究を皆褒め称えるだろう。しかし、この頃になってわたくし周囲の虚空が全てわたくしの人生を絶えず責め立てているように感じるのだ。


夥しい棘!


 わたくしを取り巻く無数の棘たるや!空間の圧力に押し出され、獄卒どもが突き立てる大針の鋭さたるや!


棘!


棘!


棘!


棘!


棘ェ!!


 そう、私は少し疲れていた。


 そんなある日、帰宅途中に一軒の店に出会った。ささくれの目立つ汚い木の扉に、割れやすそうな厚みのあるガラスが張ってあり、カビ臭い店内の臭いが歩道にまで漏れ出していた。そんな古ぼけた店が私にとっては入りやすかったのだ。


 喫茶店次郎 珈琲・廟座あり 喫煙スペースあり


(廟?さて、なんだろうか……)


 カランカラン

 店内に入ると、一層強くなったカビ臭と線香の煙の中に、歯茎の剥き出しになった店長らしき人物がひそんでいた、長座体前屈で。

「すみませんね、体が固いので」

「……いえ、開いてますか?」

「へへ、お客が少ないもんでね。油断しとりました」

 店長は特異的に突き出た前歯へ丁寧、丁寧、丁寧に唾をつけながらおしぼりを差し出してきた。私はそれで顔を拭い、それから手を拭い、汗ばんだ体を拭った。


 そういえば私は必ずおしぼりで顔を始めに拭く、その次に手だ。つまり私は顔より手、手より体の方が汚いと感じているのだろうか。理性では手が最も汚いと分かっているのだが、不思議なものだ。


 そんなことを考えているうちに、店長はメニューを持ってきた。

「夜はお酒も出しとりますんで。」

 メニューの文字は小さく、老眼には少しきつい。私はアゴを引きながらメニューを見た。


         menu


コーヒー

・ブレンド(hot/ice)

・キリマンジャロ(hot/ice)

・エチオピア(hot/ice)

・アメリカンコーヒー


軽食

・サラダ

・BLTサンド

・ケーキ(日替わり)

・ホットケーキ


アルコール

・ウイスキー各種

・ハイボール

・ジントニック

・モヒート

・焼酎各種


 ふむ、久しぶりに酒でも飲むか。しかし、酒に合わせるようなつまみがない。コーヒーになら合いそうなケーキやサンドイッチばかりだ。

「ウイスキーをロックでもらおうかな。それと、何かつまめるものが欲しいのですが」

「ああ、つまみならあられか廟座がありますよ。うちの廟座は本場から取り寄せてますから、モノはいいですよ。懐に余裕があるならぜひやってみてください、ええ」

「では、その廟座というやつと、それに合うウイスキーをください」

「へい、廟座とウイスキーですね、旦那。やっぱし廟座に合わせるならこれですよ、これ」


 男は変わった瓶のアイラウイスキーを一本選び、それを見事なカットの氷の上に注ぎ、私に差し出した。ひとくち口に含むと、あまりに強いピート臭と樽臭に顔を顰めた。氷のカッティングは透き通るように見事であるが、一見に勧めるにしては癖の強すぎるウイスキーだ。


 顔を顰めて店長をみると、彼は我が意を得たりと言わんばかりにニコリと笑った。その歯茎は目の冴えるような青さの血管がイスラム圏の街の道路より複雑に浮き出ていた。そしてその歯は先ほどまで口を閉じていたというのに既に乾燥しており、その全くのツヤを瞬く間に失い、表面はすりガラス越しに見たすりガラスのようですらあった。彼の口中にはどれほど唾液が少ないというのか、その口臭は想像するだに恐ろしいであろう。


 そのようなことを考えていると、次に店長は見事なかんなのついた鰹節削り器をカウンター上にどすんとおいた。そしてカラカラの干し肉のようにも見える薄青色の乾物を取り出し、それをカショカショと削り始めた。


「どうぞ、廟座の薄けづりです」


 舌の上においた瞬間に舌根まで響き渡る旨みは恐ろしく深く、舌の芯にまでピリピリとした感覚を伝える。唾液に溶けじわりと広がり続ける廟座の旨みに思わず笑みが溢れる。

 感動を悟られるのはなんとなく恥ずかしかったため、必死にいかめしい顔を作り廟座の旨みを味わう。店長と目が合うと彼はアイコンタクトをしてからこう言った。

「旦那、ウイスキーを」


 この感動を洗い流したくないと思いつつ、言われた通りにくぴりと少し口に含む。その瞬間、あれほど臭かったアイラウイスキーの薬液のような匂いとアルコールのエグ味が、廟座の破壊的な旨みと乾いた良い香りと合わさって、恐ろしき香ばしさとなって鼻腔を通り抜けた。


 私はとうとう笑みを我慢できなくなって未曾有の旨さに身を任せた。店長はその笑みを見て少し自慢気に微笑んだ。その歯茎はまるで500人の僧侶が生涯をかけてお経を掘り込んだかのようにしわしわに乾燥しており、僅かに見える歯はやはりエアーズロックのように乾いていた。


 むき身の感情を初対面の店長に見られたことは恥ずかしかったが、これほど感情を揺さぶられたことも最近はなかった。そして、この店長へ僅かに尊敬の念が生まれていた。


「驚きました、こんなに濃厚な旨みと乾いた良い香りのするつまみは初めてです。それにこの匂いのきついウイスキーも、廟座と合わせると薬臭さや埃っぽさが全て香ばしさに変わりました。見事なマリアージュですよ」

「そうでしょう、私若い頃ずいぶんと世界中旅しましてね、それでエジプトに行った時、これを見つけたんですよ」

「この廟座というものはエジプトの食べ物なんですか?」

「ええ、この廟座はね、ピラミッドや権力者の墓に埋められていたモノなんです。廟座というのは権力者の棺桶の下にある台座のことです。生贄の生肉を様々な薬液につけて、台座の形に固めてカチカチに乾燥させた物で棺桶を固定していたんですね。いわば数千年ものの干し肉といったところです。盗掘者たちが様々な品物を売り捌く時に、金銀宝石と違って、この廟座は売れませんでね、ほとんど残っていたんです。」

「なるほど、それを安価で輸入しているというわけですな」

「ええ、実は半年に一度自らエジプトに行って仕入れているんですよ。これはクフ王のピラミッドに敷き詰められていた廟座です。いわば4500年ものの味ですな」

「時間を味方につけるのはワインも廟座も同じですか」

「旦那は博識ですな!」

「「はっはっはっはっ!!」」

 久方ぶりの酒のおかげもあり、私たち2人は大いに語らい、すっかり意気投合してしまった。こうして私はこの店の常連となったのだった。まるで廟座のようにカラカラに乾燥した私の人生に潤いが戻ってきたかのようだった。


 私はその後もこの店に通いつづけた。

そして2週間が経過したある日、私はいつものように仕事を終わらせ、すっかり行きつけとなった喫茶店次郎へと足を運んだ。

「マスター、いつもの頼むよ」

「はいはい、おまちどうさま!」


 私の顔を見るや、すぐにウイスキーの用意をしていた店長は、手早く酒と廟座を差し出した。

「うん、うまい」

 生け贄の生肉を平行四辺形の形に固めて、かりかりに乾燥させた棺を横たえるための台座、様々な薬液につけてあり、湿度の極端に低い墳墓のなかで、何千年と熟成されたものだ。これを荒ら削りにして、ピーティなアイラウイスキーでやるのが最高であった。


「お、もうこんな時間か。明日も朝から講義なんでね、そろそろ帰るよ」

「へい、お会計ですね。お気をつけてお帰りくださいね」


程よく酔った私は良い気分で家路につく。その時だった……



ボリ……ボリポリ

バリバリ

びりびり

ぶりぶりぶり

ブルりブルり

びきびきッ

かちょ、かちょかちょかちょ!


 気がつくと私は自分の首筋を掻きむしっていた。

「!?」

 なんだ、全く手が止まらない。自己防衛本能が狂ったかのように、または体に侵入した異物をむしり取るかのように私は首を掻きむしっていた。


 そしてそのことを意識した瞬間に、身体が内側から爆発したかのような衝撃が襲ってきた。初めはその衝撃がなんなのか全くわからず、ただただ地面に倒れ伏し悶えていたが、少ししてその衝撃の正体が分かった……痒みだ――!それはかゆみだった……!!


 私は初め、あまりにも強い痒みを認識できず、五体が爆ぜるかのような衝撃として認識したのだ!!

 なんという痒さ、あまりにも冒涜的で理不尽で、荒唐無稽な痒みの奔流!!その超攻撃的な痒みに一瞬我を失った私だが、次の瞬間には培ってきた鋼の理性で原因を考え始めた。


 病気か毒か、はたまた虫刺されや脳の障害か……。なんにせよ、このような暗い道路に横たわっていては轢かれてしまう。


「立ち上がらなくては……」


 ひとまず目前の家を目指して、私は歩き出した。一歩一歩踏み締めるごとに足の裏からゾワゾワとした感覚が登ってくる。私はほとんど気が狂いそうになりながら、玄関に倒れ込んだ。


「救急車だ、救急車を……」


 それからややあって救急車が到着し、私は私の勤めている大学の大学病院まで運ばれた。


 鎮静剤を打たれ、何種類かの投薬が終わった頃、痒みはほとんどなくなっており、自傷を防ぐための拘束具も取り外された。


 落ち着きを取り戻した私は、治療をしてくれた2人の医師から説明を受ける。1人は夜勤の医師で、もう1人は珍しい症例ということで様子を見に来たこの大学の教授だ。

「渡瀬さんの血液や皮膚片を検査に回しました。一応サンプルとして皮膚片を見てみたのですが、特に気になる細菌の類は見つかりませんでした。私もこのような症状は見たことがありませんので、最近あった出来事をできる限りお話ししていただけませんか?」

「わかりました」


 こうして私はここ1ヶ月の生活をつぶさに語った。そうして、廟座の話になった時、私の対処をした2人の医師が初めて興味を示した。

「なるほど廟座ですか、寡聞にして存じませんが、少し私の方でも調べてみます」

「はあ、ありがとうございます」

 こうして私は薬を渡されてから家路についた。


 それから6日が経ち、検査が終わったという報告を受けて私は大学病院の外来を訪れた。そこには私が運ばれた日に様子を見に来た教授が待ち構えていた。


「渡瀬さん、大発見ですよ!!渡瀬さんの体液中から全く新種の細菌が見つかったんです!!そして例の店を尋ねてみたところ、廟座からも全く同じ細菌が見つかりました!」

目の色を変えた教授がヒステリーを起こしたように叫んだ。


「なるほど、ではあのすごい痒みはその細菌のせいなのですね?」

「いえ、まだそうであると決まったわけではありませんが、状況から見るとその可能性が高いわけです。実際、他の客は発症していないところを見ると経口感染はしないのでしょうが、渡瀬さんは運悪く傷口か何かから感染したのかもしれません」


 私はもう廟座であの癖の強いウイスキーをやれなくなるのかと思い憂鬱な気分になった。そしてあの気さくな店長の笑顔が頭に浮かんだ。

「さて、渡瀬さんにお願いしたいことがあります。この度の細菌なのですが、その正体が分からず、また感染経路も不明のため、しばらく検査入院をしてもらいたいのですが……」


「ええ、お願いします」


 自分でも驚くほどに、休職することへの抵抗は無かった。


「大丈夫ですか?仕事のこともあるかと思いますが……」

「はい、大丈夫です。実は、私も少し、最近は疲れてしまっていたので、ここらで休むのも良いのかなと思ってしまいました」


 40年以上の間、私はこの数学という細く険しい夜道を歩き続けてきた。もちろん、まだまだ数学への熱意は滔々と燃えているままだ。しかし、そんな人生への虚しさを感じていた所へ、喫茶店次郎が数学以外の楽しみ、人生の違った見方を教えてくれた。そして今度はその潤いが失われたことで私は一種の無気力状態となっていた。


「決まりですね、では看護師が病室へ案内します」


検査入院初日、私は薬が切れてもあの恐ろしい痒みが襲ってこないことに安堵していた。あれ以来、際立った痒みは感じていない。今日は慣れない病室での疲れもあるため検査はないらしい。明日からいくつかの検査を行なっていくそうだ。


検査入院2日目、今日はいくつかの簡単な検査を受けた。結果が出るまでにはしばらくかかるらしい。私はいくつかの数学論文を読みながら過ごした。


検査入院3日目、ベッドに横たわり本を読んでいると、例の教授がナースと共に入ってきた。

「渡瀬さん、例の細菌と廟座について、いろいろ論文を調べてみたんですが、廟座の記述がある論文は2つしか見つかりませんでした。その文献によると現地の言葉ではティムラプティ・パトと言うらしくて、適する訳語がないため直訳で廟座と翻訳したそうです、ヒァー!」


 絞められたニワトリのような息継ぎをして、さらに教授は続ける。

「今、マウスを使った検証などもしているのですが、どうやら渡瀬さんの症状はこの細菌のせいで間違いないかもしれません。もしかするとピラミッドの呪いと言われる原因不明の体調不良などはこれらの菌やその亜種によるものかもしれません。これは大発見ですよ」

 興奮している教授を無視して、私は久しぶりのゆっくりした時間を楽しんでいた。


 そして検査入院4日目に事態は急変する。


 その日は強烈な痒みで目が覚めた!


 ナースコールを押そうとするが、手が掻くことをやめられない。自分の意思とは全く関係なく、身体中を掻きむしり、もんどりうって体を床に擦り付けた。ぶちぶちという音が身体中から聞こえ、肉や骨が千切れているような感覚がするのに痛みがなく、隕石のような痒みだけを感じるのが恐ろしい。


(かゆい、かゆい、おかしくなってしまいそうだ……!どんどんと痒みのことしか考えられなくなる、私の大事なものがひとつずつ、無数の細いピンセットで抜き取られていくようだ。消えてゆく、あらゆる自我や理性や、論理性、倫理、想像力……。支配される!支配されてしまう!痒みに、この骨の髄にまで響く大いなる骨痒みに!!)


「が、かっ!た、耐えろ!たえるんだ!手放してはいけない、理性を、命を!あと少し耐えれば教授が朝の診察に来る、それまで耐えろ!」


 そして、ようやく9時となり、教授がナースを連れて病室を訪れた。1時間ほどの長さであったが永遠のようにも思える、地獄の時間であった。

「渡瀬さん!大丈夫ですか!?!?ど、どうしたのです、やめてください!手を止めて!!おい、三井くん!!手伝ってくれたまえッ」


 私は取り押さえられて、緊急措置として拘束された。しかし、ここからが本当の地獄の始まりであった。その後私は自傷を止めるための簡易的な拘束をされ、投薬が続けられていた。


「かゆみ!がゆみを止めてくだざぃっ!!」

「すまない、渡瀬さん。驚くべきことだが、どんな薬も、鎮静剤の投与も君の痒みには効かなかった……おそらく一度君の痒みが治ったかに見えたのは単に細菌が休眠状態に入ったか、もしくは初めに身体が起こした拒絶反応による痒みだったのだろう。今の我々には君の痒みを止めることはできない」

「が、がゆみっ!がゆみとめてっ!がゆびっ!!」

「すまない、しかし、この細菌の存在は大いに人類の進歩に貢献するだろう、今は耐えてくれ!」

「か、かゆび……!」


(か、かゆい!かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆい!!むしろ憎い、痒みが憎い!いや、痒みを止めてくれないコイツらが憎い!痒みを掻かせてくれないこの拘束がにくい!!)


 一瞬、頭の中が痒みと憎しみに支配されそうになったが、長年積み上げてきた私の強固な、要塞の如き理性と論理性はすぐに私に正気を取り戻させた。


(いかんいかん、教授は手を尽くしてくれている。教授が痒みを止められないことを憎むのはお門違いだ。それにこの拘束も、私が掻きむしりすぎて死んでしまわないようにするためのものだ。我慢しろ、我慢するんだ!諦めるな!命を守れ。そして何より人生を賭けて積み上げてきたこの私の理性を守るんだ!!)


 こうして私は無限に続く痒みの地獄を耐え続けた。自身の命が無くなったとしても、唯一の私の生きた証、人生の意味であるこの頭脳と論理性だけは手放してはならない。

 私はこの後に及んで、ようやく自分がどれだけ数学というものと自身の論理性を愛していたかを悟った。やはり数学は、論理性は私の尊厳とアイデンティティの全てであった。これだけは何者にも渡しはしない。特に悪邪暴虐なるこの骨がゆみには、決して!


 3日が経った、痒みは治るどころか日に日にその勢いを増し、とうとう私は噛み締める歯すら全て砕けて失い、歯茎と歯茎を強く打ちつけながら痒みに耐えていた。


(疲れた!痒みのあまり一時たりとも体から力が抜けない。3日間寝ることすらできなかった。それなのに痒みだけは慣れることなく新鮮に痒いのだ。身体が爆発したような痒さ、無限の火薬庫に火をつけたような痒さ、肉体の細胞ひと粒ひと粒がかゆみ細胞に置き換わっていくような痒さの恐ろしさ!)


 疲労の限界に達した筋肉がぶちぶちとちぎれてゆき、筋肉の圧力に耐え切れなくなった骨がバリバリと砕けてゆく。それでも痛みはなく、全て耐え難き痒みとなって私の生命と理性を脅やかす!


(ただただ点滴に繋がれ、痒みを感じ続けるだけの肉の塊に何の意味があるのだろうか……。いや、やけになるな!今こそ数学を考えるのだ、身体を動かすこと叶わずとも、思考せよ!思考こそが私を作る城であり生垣なのだ!)


 すると、けたたましい音を立てて教授と数人のナースが入ってきた。

「渡瀬さん!新発見です!!」

「なんと!廟座の細菌をマウスに注射したところ、異常行動を繰り返すようになったのです。そしてその後この細菌の凄まじい性質が明らかになりました!」

 教授は目を血走らせ、研究結果を報告していく。

「自傷行為を繰り返したマウスなのですが、肉眼で確認できるほどのスピードでその傷が回復していったのです。そしてそのマウスの骨の造血作用や骨密度を調べてみると通常のマウスの18倍もの数値が出て、しかもそれはまだまだ上昇しているのです」

「そして、ここからが謎だったのですが、細菌に感染したマウスの部屋に健康なマウスを入れたのです。そうするといきなり病気のマウスが健康なマウスに襲いかかり、口の中や、切り裂いた内臓の中に入ろうとしたのです!」


 あまりの興奮に教授はよだれを撒き散らしている。その粘性のある唾液は口の端から二筋になって垂れ、教授の激しい動きに合わせて、それぞれが別の意思を持つ生き物のように暴れ、たびたび横で待っているナースの頬に浴びせられていた。


 とうとうそのだえきは凶悪な遠心力でもって発射され、ナースの頬に強力な打撃を与え始めた。ついにはナースも眉間に皺を寄せ舌打ちをしはじめた。

「ちなみにこの細菌、私が見つけたのでビソモペラソン網ビソモペラソン目ビソモペラソン科ビソモペラソンと名付けたのですが、これらは全て骨に張り付き、骨の内部に根を張っていたのです!通りで皮膚や血液中にほとんど見られなかったはずです、この細菌は骨に住み着くのです!ちなみに名前の意味は———」


もはや、興奮した教授の叫ぶニワトリのようなけたたましい声も私には聞こえていなかった。


とうとう私の意識と理性は限界を迎えた。


「あゆみっ!あゆびっ!かゆびっ!あゆ、あ、あゆっ、あゅっ、あゅび!!びみにッ!!!」

 とうとう私の血管はゲーミングチェアのように七色に光りだし、極限の力を入れ続けた首の筋肉はウエストと言っても過言ではない太さになっていた。


 崩れてゆく、友人もなく恋人もなく、雨の日も風の日も研鑽を積んできた学問の巨城が!私の唯一の生きた証たる、この輝ける脳細胞が、論理の巨城が!く、崩れてゆくぅー、うぅ〜、うううぅ〜!


ほぷんっ!


 私の頭の中で何かが弾けた、とうとうわたくしの全身くまなくの神経はおぞましき菌類どもに占領され尽くしたのだ!

か、か、か、か、か、、、、、、、、


「あ、あれ?渡瀬さん?そんなに首太かったですか?」


 私は簡易拘束を引きちぎり、何かに操られているかのようにナースたちへ歩み寄った。


「痒い!かゆゆゆ!かゆっしゅ!しゅぴぴ!」


 私はたまらずその場にいたナースの口へ手を入れた。驚くべきことに、ナースの口内粘膜に触れた瞬間、私の主人たる痒みが少し和らいだのだ!

「あ、あがっ!」

 驚きの表情を浮かべ苦しむナース。しかし理性を失った私はそのまま腕までの喉の奥に押し込んだ。

「ごえっっっ!!」

「渡瀬さんっ!何をしているんですか!!山田くん!応援をよんでくれたまえっ!」

 慌てふためく教授やナースたちを無視して、私はさらなる痒み止めを手にすべくごりごりと腕を突っ込んでいく。とうとう喉を肘が通過し、右手はナースの膀胱を貫通し肛門から突き出た。激しい痙攣ののちナースは絶命した。

 すると、突然我が絶対の主人たる痒み大明神様が私の体の中で暴れ狂った!!

 分かったぞ、この痒みはさらなる生贄を求めているのだ!

 すぐに私は恐怖のあまり立ち尽くすもう1人のナースの口にも手を突っ込んだ、すると少しだけ痒みが治っていく。


 私は浮力の原理を発見したアルキメデスの如く叫んだ!

「エウレーカ!エウレーカ!痒くないぞ!痒くないぞう!!」


 驚愕と恍惚の表情を浮かべた教授がボソリと呟く。

「そうか、細菌によって操られた保菌者は他の生体の粘膜に接触し、傷をつけるようになるのだ!恐ろしい痒みを引き起こし、保菌者が他の生体に接触すると痒みを和らげるという報酬を与える、そうして感染を拡大させるのだ!すごい!すごいぞ!これは素晴らしい論文が……」


 教授が言い終わる前に、その口には私の腕が差し込まれた。異常発達した筋力によって教授の内臓をさらに奥へ奥へと掘り進めた!もっと痒みを止めてくれ、もっと!もっとだ!!

 異物を排除しようと必死になった教授の歯がガリガリと私の腕に突き刺さるが、その抵抗も私の痒みの前では脆弱な孫の手に過ぎなかった。

 私の右胸までもが教授の口の中に押し入り、手刀が膀胱を貫いたとき、教授は絶命した。獲物がその生命を失うとすぐにまた地獄の痒みが戻ってきた!


 とうとう私は非人間的な行為を躊躇なく行う化け物へと変貌してしまった。

廟座に潜んでいたビソモペラソン菌類がもはや分かち難く私の骨の髄まで根を下ろしてしまったのだ!


 教授が言うには、この菌類はこのようにして宿主を他の生体に接触させ宿主を増やすのだろう。ではそれを知りつつ、痒みを抑えることへの欲求を抑えられない私は悪か!?

 わかるまい、このほねがゆみは!!!!


 私はさらなる獲物を求めて院内を彷徨った。


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