後編 にし

「A先生。新作の原稿まだですか?」

担当編集からのメールが溜まっている。

もう少しだけ待ってもらっていいですか。そう返すのも何回目だろう。

最近模様替えした、廃れたアパートの一室。ここも最近引っ越した新居だ。部屋にあるのは、デスクとパソコン、本で溢れそうな棚とソファ。無機質な空間に白く浮かび上がるパソコン画面は何も書かれていなくて、追い詰められているみたいで、目の奥が痛くなる。


私の筆が思うように進まないのは多分、ある本のせいだ。



その本は、B先生の新作「もがき苦しんで、そのあとはどうしようかな。」



読んだ直後は、言葉では言い表せないくらいの衝撃だった。読んでいて、感情移入し過ぎてしまって、具合悪くなるような、吐き気がこみ上げてくるような、そんな一品だった。

でも同時に、これが私が作家業界に飛び込むことを決めた、B先生の作風なんだよな、と懐しかった。

主人公が、業務用冷凍庫に閉じ込められて、じわじわと死んでいく中で今までのことを思い出す、という斬新な話。人間の汚い部分が嫌でも伝わってくるシーンが多く、グロテスクさもあった。


読みながら、どう頑張ってもこの人には勝てないんだな、と思った。この人を越えられないのに、何の為に小説を書いているんだと思った。伏線の張り方。一つ一つの言葉の選び方。登場人物。構成。全部負けていた。いい本を読んで、表現方法とか全部インプットして、それらを真似た言葉を必死に積み上げて、世間の流行にハマるモノを何とか生み出して、売れたら胸を撫で下ろしている自分とは、あまりにも違った。


悲しかった。才能の差を、改めて感じてしまったから。



でも、悲しかったのはそれだけじゃなかった。






B先生はもうこの世にいないという事実も、悲しかった。しかも、自殺だった。



B先生の悲報を知ったのは、B先生の担当さんが、できたばかりの本を持ってきてくれた時だ。二か月ほど前のことだ。


「書いたよ。ごめんね。できれば、貴方の反応見たかった。」


本には、そう書かれた紙切れが挟まっていた。死んだ人、しかも自ら死を選んだ人からの贈り物だったので、ちょっと気持ち悪かった。冷たい手が、首元をぺたぺたと触ってきるような、そんな感じだった。


B先生の担当さんは、少し目が赤かった。それからぽつぽつと語り出す。

「B先生は、幸せな話を紡ぎ出すことで、自分も幸せな気分になろうとしていたんだと思います。選考に残ったデビュー作があんな感じで、それからほのぼのした話しか書かなくなったんで、一回問い詰めたんですよ。何でデビュー作みたいなの書かないんですかって。そしたら…。」


Bは腕を組んで、窓の外の世界を忌々しそうに見つめながら


「小説の中でくらい、幸せでいいじゃない。現実は辛いことばかりだよ。」


「そう、仰ったんです。何が辛いとか、そういうことは絶対に言わなかったけど、この現実世界が好きじゃなかったんだと思います。小説をずっと書いてましたね。」

「……本は読んでたんですね。」

「私が勧めた本、読んでくれてたんですよ。私本が好きで、どんなジャンルでもお勧めしていたんで。」

「…そうなんですか。」

「ネットで取り寄せてたみたいです。外に出るのが嫌いって言っていたので。A先生の本も、読んで勧めました。面白かったから。」

「……ああ、それで。読んでくれてたんですね…。」

「A先生。……先生は、やめませんよね?」

曖昧に微笑むことしかできない。やめませんよ、なんて無責任なことは言えない。でも、はっきりと言えるのは。

「今はやめません。」



あの頃の記憶にぼんやりと想いを馳せながら、デリバリーで取り寄せた焼き鳥を齧る。タレなのか塩なのかわからない味。食感だけかろうじてわかる。


そう。二か月経った今でも、これだけは言える。




私も、今はやめない。






今は。

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