囚われの皇女将軍ですが、影の宰相となることを請われました。

柚子故障

第1話

気がつくと、敗軍の将であり、亡国の皇女である私は見知らぬ天井を見上げていた。


部屋には朝の淡い光が差し込み、上品な調度が整えられている。まるで貴族の館の一室のように豪奢で、美しい。だけど、どこかひんやりとした静けさが、この場所が決して安らぎの地ではないことを告げている。窓には堅牢な鉄格子がかけられ、私が自由の身ではないことを、無言で語っていた。


胸の奥が締めつけられる。


あの光景が、脳裏に焼きついている。燃え盛る炎、崩れ落ちる城壁……私が命を賭して守ろうとした国が、祖国の象徴そのものが、無残にも瓦礫と化していく瞬間。私は皇女であり、出城を預かった将軍でもあり、最後まで前線に立ち続けた。だが、それでも……私には、祖国の滅びを止める力など残されていなかったのだ。


そして僅かに残った部下の将兵の助命と引き換えに、私は降伏した。


「……こんな終わり方なんて」


ぽつりと漏れた自分の声が、静かな部屋に溶け込んでいく。すべてを失った今、私の心は虚無に包まれている。どのようにしてこの部屋に運び込まれたかは、覚えていない。だが、私を待つものは凌辱と処刑台しかないだろう。それは、降伏した時から覚悟していることだ。そう、まるでゲームに出てくる悲劇のヒロインのように――


ゲーム? 聞き覚えのない言葉を反芻する。すると、胸の奥から不思議な懐かしさが込み上げてくる。


青い空、争いのない街並み、平和な人々の暮らし――それは、遠い記憶の中にある令和の日本の姿だった。心に浮かぶその情景が、心の奥底に潜むかすかな温もりを蘇らせる。


「ははっ、そうだったんだ。私は……前の世界から来た人間だったのね。でも今更、そんなことを思い出しても――」


呟いた言葉が、心の中にじわりと染み込んでいく。かつて平和を知っていたからこそ、今の自分が余計に哀れに思える。滅びた祖国も、そして心に残るかすかな希望も、すべてはもう遠い幻のようだ。

視線をゆっくり巡らせても、誰もいない。だが、ここが貴人用の牢獄であることは確かだった。


「……ここはきっと、向こうの王都よね。私を即座に公開処刑せずに、ここに閉じ込めている理由は何なの?」


祖国を失い、仲間を守れなかった私には、もはや何の価値もない。なのに、ここで生かされている理由――それが一体何を意味するのかも分からず、ただ心の中に重い沈黙が広がっていくだけだった。


*********


私は、ここ最近のことをしっかりと思い出せないまま、窓の外に差し込む微かな光をただ見つめていた。この部屋に閉じ込められて、どれほどの時間が過ぎたのだろう。潔く自害をしようとも思ったけど、何かの取引で軟禁されている可能性もある以上、迂闊なことはできない。


「私を生かす理由――そうね、身体くらいしか……」

一応、皇女であった私の身体は純潔を保っている……はずだ。だけど、それを確かめるすべはない。


ギシ……ィ。


不意に扉が静かに開く音がして、私の意識は現実に引き戻された。

そこに立っていたのは、堂々とした体躯の男。その鋭い目つきと落ち着いた佇まいから、ただの騎士や兵士でないことはすぐにわかった。私は思わず身を固くしたけど、彼の眼差しには敵意ではなく、どこか穏やかなものが宿っているのを感じた。


「……やっとお会いできましたね」


低く、優しい響きの声。想像していたよりもずっと温かく、初対面のはずなのに、なぜか懐かしさを感じさせる不思議な響きだった。


「フィリシア殿下。私の名前はライザーク、あなたと対峙していた部隊を率いていた将軍です。再び貴女にお会いできる日を、ずっと待ち望んでいました。」


フィリシア――そう、それは私の名前である。ライザークと名乗るこの男は、私を「殿下」と呼び、今もなお、失われた祖国にいた頃の私を尊重するかのようだった。それがかえって、私の心を複雑に揺らしていく。


私は、できる限り冷静を装って尋ねた。


「……なぜ、私をここに?」


彼は私の言葉を受け止めるように、一瞬視線を落とした。そして、少し考え込むように息をつき、静かに答えた。


「……貴女をここにお連れしたのは、私の個人的な願いです」


その言葉に、私は息を詰めた。敵国の将軍が、滅びた国の皇女を「個人的な願い」でここに囚えているというのか。理解が追いつかない。


「つまり――私を愛妾のように扱いたいと?」

「いえ、そう言うつもりではありません。その証拠に、あなたの純潔は保たれています。名誉にかけて、誓います」

「では、なぜ」

「貴女に敬意を払うべきだと、私はそう考えています。あの戦場での貴女の姿を、私は忘れることができません。勇敢であり、実に理知的な指揮でした。それでいて、捕虜となった私の部下への敬意も忘れない――本当に、素晴らしいお方です」


戦場での私の姿――その言葉に、胸の奥がずきりと痛む。守るべき人々を失い、国を失ったあの日々。敵国の将軍がそれを称賛するなど、私には受け入れがたかった。


「身体が目的でないのでしたら、なぜ処刑しないのですか? 私をここに閉じ込めている理由は……」


自分でも意外なほど冷静に、そして控えめに問いかけると、彼の表情が微かに揺れた。しかし、すぐに真剣な眼差しでこちらを見つめ、静かに答えた。


「貴女は私にとって、ただの敵ではありません。貴女を失うことは、この国にとっても私にとっても、大きな欠落を生むと思っているのです。」


その言葉に、私の心はさらに揺れる。この方の言葉は、実にあいまいだ。冷静さを保って尋ねる。


「国にとっても、というのはどのような意味合いでしょうか、ライザーク将軍」


彼は少しの間、視線を中空にさまよわせた後、ゆっくりとした口調で答えた。


「私の部下たちは貴女に多くを救われました。実は、その中には私の妹もいました……深手を負った妹を懸命に手当てし、亡骸は丁重に送り返してくださいました」

「覚えております。あの魔法士の少女ですね……閣下の妹様でしたか」

「はい。戦場での死です。ですが、殿下に受けた恩義を、私は決して忘れません」


彼の穏やかな表情に小さな温もりが宿るのを見て、私の心にもまた、小さな灯火が灯るのを感じた。死なないことが彼の望みであれば、私は敗軍の将の責務として、甘受すべきだろう。


「殿下、どうかご安心ください。ここでは、貴女を守ることこそが私の誓いです……そして、申し訳ありません。私の政治力では、公開処刑を回避してここに軟禁するのが精一杯なのです」

「構いません。このような厚遇をいただき、感謝申し上げます」


ライザークの言葉に、私は静かに頷いた。彼に対するかすかな信頼の芽生えを、感じながら。


*********


部屋の扉が静かに開く音がした。ライザークが、いつものように現れる。軟禁生活に少し慣れ始めたとはいえ、彼の訪問は一日の中で唯一、外の世界とつながる瞬間だった。彼が部屋に足を踏み入れるたびに、この閉ざされた空間がほんの少しだけ和らぐ気がした。


けれど、今日は何かが違った。ライザークの顔には、見慣れぬ疲労と深い悩みが滲んでいる。肩に漂う重苦しい雰囲気が、私の胸中にかすかな緊張を呼び起こす。


「どうされましたか、閣下。随分と重苦しいものを抱えているようですが」


しばしの沈黙のあと、彼は静かに視線を私に向け、絞り出すように言葉を発した。


「フィリシア殿下、少し……お力をお借りしてもよろしいでしょうか」


その一言に、私は思わず戸惑いを覚えた。囚われの皇女である私に、助言を求めるなんて――けれど、彼の眼差しが真剣であった。


「私でお応えできることであれば、どうぞ」

「はい。実は――」


彼は改革派に所属しており、保守派と対立していることを語り始めた。


「多くの貴族たちは保守的な立場を崩そうとせず、新たな提案には耳を貸してくれません。この国には新しい政治が必要だと信じていますが、彼らの強い抵抗に悩まされています……お互いの貧しさゆえに、先日の戦争も引き起こされたというのに……」


ライザークの言葉には、彼の胸に秘めた苦悩が滲み出ていた。国の未来を真剣に考え、平和を実現するために奮闘する彼の姿が、痛いほど伝わってくる。私は、かつての祖国のことを思い出していた。


あの国もまた、変わることができずに貧しかった。結果として戦争が引き起こされ、破滅を迎えた。彼が目指す平和を支えることが、人々の平穏な生活を守る一助となるなら――そう思うと、私は彼の悩みを具体的に聞き出し、助言を与えていた。


そこには、転生者である私の知恵も新たに盛り込まれており、斬新なものとなっていた。彼は、驚きと共に聞き入ってくれる。


「貴女は、そこまで深いことを考えていらっしゃるのですか」

「ええ、ライザーク閣下……保守派だからといって、悪と決めつけてはいけません。貴族たちが守ろうとするものは、伝統や秩序だけではなく、国民の日々の安寧のはずです。より多くの人々が安心して暮らせる道筋を示すことが、遠回りなようで最善最良の策でしょう」


私は、できる限り穏やかで控えめな声で言葉を紡いだ。彼はじっと耳を傾け、何度か小さく頷いた。その瞳には、わずかながらも希望の光が宿っている。それを見ると、私の心も軽くなる。


「貴女のご助言には、深い知恵を感じます。囚われの身でありながら、まるで影の中から私を支えてくださっているかのようだ……」


彼の感謝の言葉が、静かに私の胸に染み渡った。ただの囚人ではなく、彼を支える存在として役立つ――それが、この国で暮らす罪なき人々の平和に繋がるのなら、私にも生き恥をさらす意味がある。


「私にできることがあるのなら、喜んでお手伝いします。この国の人々が安心して生活できる未来のために、閣下と共に進んでいけるのなら……」


思わず漏れた言葉に、胸の中に不思議な温もりが広がる。かつて祖国を守るために戦ったように、今度はライザークと共に、この国の人々の平和を支えていきたい――そんな思いが、静かに胸の奥で膨らんでいくのを感じた。


「ありがとうございます、フィリシア殿下。貴女の存在は、私にとって何よりも心強い支えです」


彼の言葉が、私の孤独をそっと溶かしてくれる。囚われの皇女である私が、影ながらこの国の人々を支える――私は、積極的にその役目を果たすようになった。


徐々に、私の評判は広まっていったらしい。世話のために出入りするメイドから、私は聞かされていた。最初は無表情で素っ気なかったメイドたちも、私が役に立つに連れて、まるで私が主君であるかのようなものに変化していった。


しかしそれは、保守派にとっては面白くない事態でもあった。


*********


その日は、感謝祭の楽しげな喧騒が私の居室に伝わってきた夜更けのことだった。


静まり返った部屋で、私はふと目を覚ました。胸騒ぎが、眠りの中から私を引き戻す。外は闇に包まれ、廊下も物音ひとつしない。しかし、私の将軍としての経験が、どこか異様な気配が漂っているのを感じ、警戒を発していた。


その時、扉が音もなくゆっくりと開く。暗闇の中から現れたのは、一人の男だった。彼はまるで影そのもののように滑らかな動きで、冷たい光を帯びた短剣を手にしている。鋭い目つき、無駄のない身のこなし――この男はただの刺客ではない。戦場で鍛えられた、確かな腕を持つ手練れだと直感した。


「ほう、気付いていたか。穏やか黄泉へお送りするつもりだったのだが」

「お生憎さまね。将たるもの、暗殺はもっとも警戒すべきものよ」

「そうか……滅びた国の皇女、フィリシア。すまないが、あなたにはこの世から消えてもらう。安らかに殺せなかった我の無力を、どうか許してほしい」


冷え冷えとした声が闇を裂いた。謝罪を口にしつつも、その声には一片の情もなく、ただ任務を遂行する冷徹な殺意だけが宿っている。おそらく、暗殺者を送り込んだのはライザークの最近の活躍に不満を抱く対立勢力の貴族たちだろう。


暗殺者が私に向かって歩み寄ってくる。もちろん、この部屋に武器の類は存在しない。私は逃げ場を探そうとしたが、すぐに部屋の隅に追い詰められてしまう。彼の冷たい眼差しと短剣が迫る。


「苦しませたくはない。どうか、お覚悟を決めて――」

「残念ね。私は最期まで、もがかなければならないの」

「そうか。虜囚とは思えないその気迫、殺すには惜しいが、死んでいただく」


ドカァッ!


その瞬間、蹴破る勢いで扉が開かれた。

そこに現れたのは、ライザークだった。


「閣下!」

「ご無事ですか、フィリシア」


彼の瞳には怒りと決意が宿り、暗殺者に鋭い視線を投げかける。ライザークもまた、ただの将軍ではない。目の前の刺客を圧倒するほどの、並外れた力と覚悟を持つ戦士だった。


「貴様、フィリシアに手を出すつもりか!」

「これは……困ったな。皇女殿に敬意を表しすぎたようだ」


暗殺者は一瞬たじろいだが、すぐに刃を向けてライザークに向き直る。彼の動きは素早く、無駄がない。だが、その手練れの動きすら、ライザークの前では一歩も及ばなかった。刃が交わされるたび、ライザークの技量と冷静さが際立ち、まるで彼が暗殺者を弄んでいるかのように見えるほどだった。


「フィリシア、どうかお下がりください」


ライザークの言葉に従い、私は身を引いた。暗殺者の短剣が再び襲いかかるが、ライザークはまるで見透かしたように攻撃をかわし、反撃の一撃を加える。彼はまるで意にも介さないように、涼やかな表情のままだった。


「閣下……ライザーク、無理はしないで……」

「大丈夫です。貴女をきっとお守りしてみせます」


やがて、暗殺者の動きが鈍り、ライザークの鋭い一撃が相手を無力化する。暗殺者は膝をつき、力尽きたように刃を落とした。冷たい視線をこちらに向ける彼に対して、私は動じることなくライザークの背中越しに見つめ返した。


ライザークは刺客の胸元を掴み、冷ややかな声で問いかけた。


「誰の指示でここに来た?」


暗殺者は一瞬口を閉ざしたが、私を見つめ、ライザークの強い眼差しに押されるように視線を伏せ、やがて小さくつぶやいた。


「……貴族たちの中には、将軍閣下の考えを快く思わぬ者がいる」

「そうか。では、その名前を吐いてもらおう」


衛兵たちが駆けつけ、暗殺者は拘束されて連れ出されていった。その背中に、私は声をかける。


「待って……一つだけ聞かせて。あなた、援軍が来るまで待っていたわね?」

「……知らんな。我はただ、郷里を皇女殿の助言で救われただけだ。そして皇女殿をこの目で見た。やはり傑物だと感じた。ただ、それだけだ」


部屋には再び静寂が戻り、私たちはしばらく言葉もなくお互いを見つめ合った。


「フィリシア、ご無事で何よりでした」

「ライザーク閣下、貴方がここにいてくれたから私は生き延びることができました。私も……これからも、貴方と共にこの国を、国民を支えたい。今だからお伝えします。私は、閣下をお慕い申し上げています」


私の言葉に、ライザークの瞳が驚きに見開かれる。しかし、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、そっと私の手を取り、力強く握った。


「ありがとうございます、フィリシア殿下。貴女のその言葉が、私にとって何よりも大きな支えです。今だからお伝えします。私は、貴女を愛しています」

「ですが……私はあなたの妹を討ち取った、仇でもあります」

「存じております。あなたの見事な策略により、妹が指揮を執っていた部隊が殲滅されたことは。ですがそれでも――どうか、この愛をお受け取り下さい」


その手の温かさに、私は私たちの間に芽生えた絆の強さを感じた。囚われの皇女としてではなく、共に国を支える影の存在として彼と共に未来を歩んでいく――その決意は、この日、私の中で確かなものとなった。


********


次の日の夜、私は閣下に純潔を捧げた。


私たちはベッドでお互いに横になり、微笑を浮かべ合っている。その瞳には、私への揺るぎない信頼と愛、そして国家の未来への確固たる覚悟が滲んでいた。


「フィリシア、貴女がこの国にとって必要な存在であることは、誰よりも私が分かっています。たとえどんな困難があろうとも、私は貴女と生きて、共に未来を築きたいのです」


その言葉が、まるで私の心の奥深くに突き刺さるようだった。これまで囚われの身としてただ生きてきた私が、新しい未来を目指す――それは、かつて失った祖国に対する贖罪であり、そして私自身の使命でもあるのだ。


「ライザーク、私も貴方と共に歩みたいと思います。この国を守るために、影から支える存在として……」


あまりにも激しく身体を重ねすぎたようだ。窓の外から差し込む朝の光が、私たちの影を長く引き、部屋を優しく照らしている。


「私には、他の人にはない知識があります。きっと、お役に立てるでしょう」

「はい。貴女の聡明さには、これからも期待しております」


私たちは再び、唇を重ねる。お互いの情愛を、情熱的に確かめ合う。これから幾百幾千と行うであろう行為を、濃密に体感する。


「フィリシア、愛しています」

「ええ、ライザーク。私も愛しています」


そしてライザークは陛下の信任を得て宰相となり、私は「影の宰相」と呼ばれるようになる。敵国の皇女であった私は愛妾以上の地位を得ることはなかったけど、国民の笑顔のために尽くすという、幸せな生涯を送ることができたのだった。

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囚われの皇女将軍ですが、影の宰相となることを請われました。 柚子故障 @yuzugosyou456

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