第14話


「あの新人、いつまで続くかな」


 615号室ジュニア・スイートルームで、ルームメイドのクイナはふと疑問をこぼした。浴室の鏡を拭くシーリンは、「さあ」と興味のかけらもない返事をする。


「ルームメイドって柄じゃなさそうだし、もって一週間ってところじゃない」

「やっぱそう思う? あの子、なんだか訳ありっぽいよね」


 数日前、前触れもなく現れた新入りには、角もなければ尻尾もなかった。立ち振る舞いは淑やかで、話し方には品がある。「あれはいいとこのお嬢様だね」と、他のメイドたちも囁いていた。

 ルームメイドの仕事はなかなか過酷だ。煌びやかな世界に憧れてメイドを志願する少女は多いが、みな内情を知ると逃げるように辞めていく。入職して二日目で職を辞す――なんて話も珍しくはなく、新入りが現れると「今度はいつまでもつかな」と予想するのが古参陣のささやかな楽しみだった。


 あんな手入れの行き届いた猫のようなお嬢様が、汗水垂らして他人の部屋を掃除するなど無理に決まっている。三日もすれば泣いて辞めたいと言うに違いない、というのが大半のメイドたちの意見だ。

 何よりあの新入りは、バーシャにひどく嫌われている。ホテル・アルハイム三大女傑の一人に目をつけられては、どんな人でも長続きはしまい。


「あーあ。もっと続きそうな人を雇ってくれればいいのに。これじゃ仕事が楽にならないよ」


 唇を尖らせながら、クイナは鏡台の掃除に取り掛かった。羽箒でほこりを落として、鏡を丁寧に拭き始める。

 現在、615号室にはギブソン夫妻が連泊中だ。なんでも夫人の方は化粧品会社を経営する敏腕女社長だそうで、日頃から市場調査のために各地の化粧品収集に勤しんでいるという。

そんな彼女が使う鏡台の上には白粉や頬紅、口紅など、目にも鮮やかな化粧品がずらりと並んでおり、その数たるやこのまま店を開けそうなほどだった。


「あ、シュシュメアリの新色だ。いいなぁ、ここの口紅発色がいいんだよねぇ」

「あんまりじろじろ見ちゃだめよ」


 浴室の清掃を終えたシーリンが、じとりと睨みをきかしてくる。


「この前、お客様の荷物を触ってえらく怒られたでしょう。自重しなさい」

「嫌なこと思い出させないでよ」


 過去の失敗を掘り返されて、クイナは不満げに唇を尖らせた。

あれは一ヶ月前、とある連泊客の部屋を清掃した時のことだった。本を乱雑に積み上げた机の上を丁寧に整頓してやったところ、客が顔を真っ赤にしてフロントに怒鳴り込んできたのである。


『メイドが本の順番をめちゃくちゃにしたんだ! どうしてくれる!』


 どうみても散らかった机にしか見えなかったが、客にとってはなにがしかの規則性があったらしい。

なら入室お断りの札をかけておいてよ、という不満の言葉を飲み込んで、クイナは謝罪をする羽目になったのだった。


『お客様にとって、ホテルの部屋は自分の家も同然。それなのに、他人に私物を触られたり、物の配置を変えられたりしたらいい気はしないだろう』


 のちに慰め半分、説教半分の口調でバーシャに言われたものだ。以来クイナは、宿泊客の私物の取り扱いに細心の注意を払うようにしている。


「はい、こっちも完了」


 最後の掃き掃除も終えて、クイナは屈めていた腰をぐいっと伸ばした。部屋には髪の毛一本落ちていない。完璧な清掃である。

 だが二人が最終確認を終えたところで、突然部屋の扉が開け放たれた。現れたのは、夫のギブソン氏である。


「き、君たち……」

「ギブソン様。お邪魔しております」


 クイナとシーリンはすぐさま軽く膝を折った。

荒い息、汗ばんだ肌、着崩れた礼服。どうやらギブソン氏は、走ってここにたどり着いたようだ。

 何か急ぎの用事があるのかもしれない。ここは早々に退室すべきだろう。


「お部屋のお掃除が終わりました。どうぞおくつろぎ――」

「君たち! 何か見つけなかったか⁉︎」


 被せるように、ギブソン氏が叫んだ。

 何か、という漠然とした問いに、二人はそっと顔を見合わせる。目線だけで相談すると、まずシーリンが口を開いた。


「もしかして、落とし物でしょうか。城内での落とし物でしたら、至急担当部署に確認いたします」

「あ、いや」


 ギブソン氏は目を泳がした。もぞもぞと、はっきりしない声で言う。


「この部屋に、何かあるかもしれないんだ。でも、何があるかはわからない」

「……はい?」

「でも見つけないと、大変なことになるんだ。とにかく、手伝ってくれ!」



◇・◇・◇



 昨日の晩、ギブソン夫人は郊外の友人宅に招かれ、そこで一泊する予定となっていた。一方ホテルに残された夫のギブソン氏は暇を持て余し、ホテル・アルハイムのバーで一人グラスを傾けていたという。

 するとそこに、一人の妙齢女性が現れた。同じくパートナーから置いてきぼりを食らったという彼女と、ギブソン氏は意気投合。夜半を過ぎても話題は尽きず、彼は女性を部屋に招くことにした。


「言っておくが浮気ではない。彼女とは部屋で飲み直しただけなんだ」

「左様でございますか」


 クイナたちは、無感情な相槌を打つしかない。

 結局朝まで飲み明かしたギブソン氏は、早朝女性をホテルのロビーに送り出した。

 女を部屋に上げた痕跡は、ルームメイドたちに消してもらおう。そう考えた彼は、部屋に戻らず近場のブラッスリーで優雅に朝食を楽しむことにした。そして食事を終え、葉巻を二本も嗜んだところで、見知らぬ紳士に声をかけられた。


『失礼。昨日、ホテル・アルハイムのバーで女性とご一緒ではありませんでしたかな』

『え、ええ。それが何か?』


 声をかけてきたのは、同じくホテル・アルハイムに長期滞在中の客だった。彼も昨晩バーにおり、そこでギブソン氏と女性が二人でいるところを見かけたのだという。


『気をつけた方がいい。彼女、前にも新市街のホテルで騒ぎを起こしているのですよ』

『騒ぎ……?』

『なんでも、奥方が不在の隙に既婚者の部屋に上がり込み、去り際にわざとハンカチやら指輪やらを置いていくのだとか。それを奥方が見つけて、夫婦喧嘩に発展――となったわけですな』


 この話は、アルハイムの既婚男性のあいだでは有名な話らしい。

女は夜になるとあちこちのバーに出没し、旅行中の既婚男性に声をかける。そして男性の部屋に上がり込んでは、上記の手口で夫婦の仲を引き裂くというのだ。


『どうしてそんなことを』

『ゴシップ記者と組んで、わざと著名な夫婦の仲を引き裂いているという噂もあります。とにかく、はやく部屋に戻ったほうがいい。奥方に見つかったら大変な目に遭いますよ』


 親切な紳士に礼を言うと、ギブソン氏は大慌てで部屋に戻った。そしてクイナたちと鉢合い、今に至る。


「というわけで、あの女が何か残しているかもしれないんだ。チップはくれてやる。部屋の隅々まで探してくれ!」

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