第13話
ふと気がつくと、ラヴィニアはバースタイン家の執務室に立っていた。
滅多に足を踏み入れることを許されなかった、一族当主の仕事部屋。革張りの椅子に腰掛けるのは、憎きセオドア本人である。
瞬間、胸の奥が燃えたぎるように熱くなった。溜め込み続けた不満と怒りが膨れ上がって、ラヴィニアは感情任せに声を荒げた。
「お父様。どうして私を裏切ったのですか!」
叫び慣れない喉のせいで、声がところどころ裏返る。
「私は一族のため、これまで努力してまいりました。それなのに、どうしてあのような仕打ちを!」
教えてくれればよかったのに。信じてくれると思っていたのに。
不満の言葉は尽きないが、昂る感情のせいでうまく喉から声がでない。
もどかしさのあまり、ラヴィニアは唇を噛む。そんな娘に、セオドアは穏やかな様相で問いかけた。
「裏切った? 私は一族のために、必要なことをしただけだよ。お前こそ、何がそんなに不満なんだい」
「何が、って……」
「私には、一族のため娘を捨てる覚悟があった。だがお前には、一族のため捨て駒になる覚悟がなかった。結局、それだけのことではないのかな。こうして私を恨む今の姿が、何よりの証拠だろう」
否定の言葉を、すぐに返すことができなかった。
(私には、覚悟がなかった――?)
ふと浮かんだ疑念が、胸に染みを広げていく。
一族のためなら、どんな汚れ仕事も引き受けられると思っていた。それなのに、どうして自分は父に怒りを抱いているのだろう。
自問するうち、いつの間にかセオドアが目の前に立っていた。セオドアは目を細めると、娘の肩に右手を置く。
「だがお前が望むなら、もう一度機会をあげよう」
「……機会?」
「私のために、死んでくれ」
とん、と肩を押された。よろめいたラヴィニアは、昇降機の床に尻をつく。はたと顔を上げた時には、蛇腹の二重扉が勢いよく閉じられた。
「待って!」
慌てて扉に駆け寄るも、その時には昇降機は下降を始めていた。
ロープが切れる音がする。耳をつんざく金属音が、悲鳴のように空気を揺らす。
「お父様! 助けて!」
ラヴィニアは、必死に父に呼びかけた。けれども鉄箱を揺らす轟音が、彼女の声をたやすくかき消す。
「私は。私はただ、お父様に――」
もはや届かぬ声を振り絞って、何もない宙に腕を伸ばす。
その時。落ちゆくラヴィニアの手を、誰かが強く引き上げた。
◇・◇・◇
「!」
目が覚めたら、体が半分ベッドからずり落ちていた。視線を横にずらせば、すぐ目前に床が見える。
「夢……か……」
どうやら夢にうなされ、あわや頭を強打する一歩手前のところだったらしい。
「くそ。よりによって、あんな夢を見るなんて」
柄にもない罵倒の言葉が口をつく。父親相手に喚いた挙句、昇降機が落下するなんて、最悪を煮詰めたような悪夢だった。
ベッドから落ちかけたのも、悪夢のせいだろう。幼い頃から寝相の悪さには定評があるが、こんなひどい目覚め方をしたことはない。
誰かに見られなくてよかった、と安堵を噛み締めながら、ラヴィニアは体を起こそうとした。
――だが左手が思うように動かない。見れば手首に何かが巻き付いて、ラヴィニアの手をベッドのフレームに固定しているではないか。
「なにこれ……」
薄闇のなか目を凝らしてみると、手首が寝台の手摺に縄で繋がれていた。このおかげで転落せずに済んだようだが、当然ながら縄を巻きつけた覚えはない。
しばらく考えを巡らしたのち、縄を軽くつついてみる。
すると突然、縄がぐにゃりと蠢いて、体を蛇のようにうねらせ始めた。さらにもう一度つついてみると、「しゅう!」と声をあげて、ラヴィニアの手首からぽとりと滑り落ちる。
その姿はすでに縄ではなくなっていた。白く滑らかな、光沢のある鱗模様の細長い体――
間違いない。見覚えのない縄の正体は、応接室でラヴィニアの手首を拘束した使い魔、ゼトであった。
ゼトは慌てた様子で左右をキョロキョロと見回していたが、やがて顔先を壁に向けるとその場から逃げ出そうとした。すかさずその首元を片手で掴んで、ラヴィニアはゼトの体を持ち上げる。お家柄、蛇の扱いには慣れているのだ。
「逃げようとしたらただじゃおかないわよ」
低い声で囁くと、ゼトは「しゅっ」と恐怖の声らしきものを漏らして硬直した。その隙に明かりをつけて、捕らえた蛇の体を確認する。
ゼトの体は滑らかな銀白色で、頭は丸みのある形をしていた。口の中には小さな歯が並んでいるが、毒牙らしきものは見当たらない。雌雄の確認も試みるが、こちらは全力で拒否されたのでやめておいた。
「あなた、ルードベルトの使い魔だったわね。乙女の部屋に忍びこむとはいい度胸じゃない」
ゼトは「しゅぅ」と力無い音を発した。どう見ても蛇なのだが、言葉は通じているらしい。
「覗き見でもしていたの? 使い魔にこんなことをさせるなんて、あの男も結構な趣味をしているのね」
「しゅう! しゅう!」
掴まれたまま、ゼトがウネウネと体をくねらせ何かを訴える。「これは自分の独断だ」とでも言いたいのだろうか。
「……ま、いいわ」
さすがに「しゅう」だけでは、得られる情報に限界がある。ひとまずラヴィニアは話題を流した。
「今日のことは許してあげる。寝台から落ちそうになったところを、助けてくれたみたいだしね」
「しゅ……」
おそらくこの蛇は、ラヴィニアを警戒して部屋まで様子を見にきていたのだろう。そこで彼女がベッドから落ちそうになる現場を目撃してしまい、つい助けに入ってしまったのだ。
何よりゼトのおかげで、ラヴィニアは悪夢の最後を見ずに済んだ。そのせいか恐怖は薄れ、目覚めもそれほど悪くない。
『私には、一族のため娘を捨てる覚悟があった』
夢の中で父に向けられた言葉が、頭の中で反響する。直接向けられた言葉ではないが、きっとこれが真実なのだろう。
セオドアにとって、ラヴィニアは捨てても問題ないほどの価値しかない存在だった。だから捨てられた。端的に言うと、舐められたのだ。
こいつは使えない。もう用済みだからいらないと――
「ねえ、ゼト」
「しゅ?」
「命じられているなら、このまま私の監視を続けてくれて構わないわ。私もルードベルトには黙っておくから」
急に柔らかな口調で語り出したラヴィニアを、ゼトは不思議そうに見上げた。
黒くつぶらな瞳を見返し、ラヴィニアはとびきり悪い笑みを浮かべる。
「その代わり、あなたしばらく私の子分ね。言うことを聞かない場合は、『アルハイム公に覗き見された』と大騒ぎするから」
「!」
「ご主人様の名誉は守らなくちゃね。じゃ、おやすみなさい」
言うだけ言うと、答えも聞かずにラヴィニアはベッドに潜り込んだ。
まずい相手に弱味を見せてしまったと、ゼトもようやく気づいたのだろうか。窓辺から、彼は「しゅうぅ」と悲鳴のような声を響かせたのだった。
◇・◇・◇
翌日ラヴィニアは、朝一番に食堂へと赴いた。
丸パン二つにリンゴ、目玉焼き、ハム、豆の煮込み。最後に舌が火傷するほど熱いお茶を飲み干して、空っぽの胃をしっかり満たす。
次に部屋に戻ると、顔を洗って制服に着替え、紅い髪は地味な三つ編みにした。
「どう? リボン、ちゃんと結べている?」
「しゅう」
ひびの入った姿見の前に立ち、背中側もゼトに確認させたら寮の外に出る。目指すはもちろん、清掃部門事務所だ。
「おはようございます」
事務所の扉を開く。すでに中にはちらほらとメイドたちの姿があった。バーシャも夜勤明けのメイドと何やら語らっているが、ラヴィニアの声を聞きつけて勢いよく振り返る。
「あんた……」
「主任、昨日はお見舞い、ありがとうございました」
眉間にしわを寄せるバーシャに、ラヴィニアはこれ以上ないほどの笑顔を作ってやる。
「激励のお言葉、大変胸に染み入りました。今日も一日よろしくお願いします」
「……何を考えているんだい」
バーシャは指先で眼鏡をわずかにずらした。見透かす瞳が、ラヴィニアの真意を暴かんと向けられる。
「あら。なんのことでしょう?」
それでも愛らしい笑みを絶やさず、ラヴィニアは小さく首を横に傾げた。
きっとバーシャの目には、ラヴィニアの周囲で闘志の感情が赤く燃えていることだろう。
舐められてたまるものか。
父親にも、このホテルにも。
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