19

 ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは三日後の朝のことだった。どうやらたいこうぼう仲間に声を掛けて回っていたらしく、ギャラリーが三十人から来るという。

「参ったなぁ。……どうする? アスナ……」

「う~ん……」

 正直、その知らせはありがたくなかった。情報屋やらアスナの追っかけから身を隠す為に選んだ場所なので、多人数の前に出るのは抵抗がある。

「これでどうかなー」

 アスナはくりいろの長い髪をアップにまとめると、大きなスカーフをぶかに巻いて顔を隠した。さらにウインドウを操作して、だぶだぶした地味なオーバーコートを着込む。

「お、おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」

「……それ、めてるの?」

「もちろん。俺はまあ武装してなければだいじようだろ」

 昼前に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。

 今日はこの季節にしては暖かい。巨大な針葉樹が立ち並ぶ森の中をしばらく歩くと、幹の間から煌く水面が見えてきた。はんにはすでに多くの人影が集まっている。ややきんちようしながら近づいて行くと、見覚えのあるずんぐりした男が、聞き覚えのある笑い声と共に手を上げた。

「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」

「こんにちはニシダさん」

 おれとアスナも頭を下げる。年齢にバラつきのある集団は、ニシダの主催する釣りギルドのメンバーだと言うことで、内心緊張しながら全員にあいさつしたがアスナに気が付いた者はいないようだった。

 それにしても予想以上にアクティブなおっさんである。会社ではいい上司だったのだろう。俺たちが到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、すでに場は相当盛り上がっている。

「え~、それではいよいよ本日のメイン・エベントを決行します!」

 長大な竿さおを片手に進み出たニシダが大声で宣言すると、ギャラリーは大いに沸いた。俺は何気なく彼の持つ竿と、その先の太い糸を視線で追い、せんたんにぶら下がっている物に気付いてぎょっとした。

 トカゲだ。だが大きさが尋常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにぬめぬめと光っている。

「ひえっ……」

 やや遅れてその物体に気付いたアスナが、顔をこわらせて二、三歩後ずさった。これがえさだとすると、ねらう獲物というのは一体。

 だが俺が口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると、だいじようだんに竿を構えた。気合一発、見事なフォームで竿を振ると、ぶん、と空気を鳴らしながら巨大なトカゲが宙に弧を描いて飛んでいき、ややはなれた水面に盛大なみず飛沫しぶきを上げて着水した。

 SAOにおける釣りには、待ち時間というものがほとんどない。仕掛けを水中に放り込めば、数十秒で獲物が釣れるか、餌が消滅して失敗するかどちらかの結果が出る。俺たちはかたんで水中に没した糸に注目した。

 果たして、やがて釣り竿の先が二、三度ぴくぴくとふるえた。だが竿を持つニシダは微動だにしない。

「き、来ましたよニシダさん!!」

「なんの、まだまだ!!」

 眼鏡の奥の、だんこうこう然とした目をらんらんかがやかせたニシダは、細かく振動する竿の先端をじっと見据えている。

 と、ひときわ大きく竿のさきが引き込まれた。

「いまだッ」

 ニシダがたんを大きく反らせ、全身を使って竿さおをあおった。はたにもわかるほど糸が張り詰め、びぃん、という効果音が空気を揺らした。

「掛かりました!! あとはお任せしますよ!!」

 ニシダから手渡された竿を、おれは恐る恐る引いてみた。びくともしない。まるで地面を引っ掛けたような感触だ。これは本当にヒットしているのだろうかと不安になり、ニシダにちらりと視線を向けたしゆんかん──

 突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。

「うわっ」

 慌てて両足をん張り、竿を立て直す。使用筋力のゲインが日常モードを軽く超えている。

「こ、これ、力一杯引いてもだいじようですか?」

 竿や糸の耐久度が心配になり、俺はニシダに声をかけた。

「最高級品です! 思い切ってやってください!」

 顔を真っ赤にしてこうふんしているニシダにうなずき返すと、俺は竿を構え直し、全力を開放した。竿が中ほどから逆Uの字に大きくしなる。

 レベルアップ時に、筋力とびんしようりよくのどちらを上昇させるかは各プレイヤーが任意に選択することができる。エギルのようなおの使つかいなら筋力を優先させるし、アスナのような細剣使いは敏捷力を上げていくのがセオリーだ。俺はオーソドックスな剣士タイプなので双方のパラメータを上げていたが、好みの問題でどちらかと言えば敏捷力に傾いている。

 だが、レベルの絶対値がに高いせいか、どうやらこのつなきは俺にがあるようだった。俺は踏ん張った両足をじりじりと後退させ、遅々としながらも確実な速度でなぞの獲物を水面に近づけていった。

「あっ! 見えたよ!!」

 アスナが身を乗り出し、水中を指差した。俺は岸からはなれ、体を後方に反らせているので確認することができない。見物人たちは大きくどよめくと、我先にとみずぎわに駆け寄り、岸から急角度で深くなっている湖水をのぞき込んだ。俺は好奇心を抑え切れず、全筋力を振り絞ってひときわ強く竿をしゃくり上げた。

「……?」

 突然、俺の眼前で湖面に身を乗り出していたギャラリーたちの体がビクリとふるえた。皆そろって二、三歩後退する。

「どうしたん……」

 俺の言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。俺の左をアスナ、右をニシダが顔面そうはくで駆け抜けていく。あっけに取られた俺が振り向こうとしたその時──突然両手から重さが消え、俺は後ろ向きに転がってどすんとしりもちをついた。

 しまった、糸が切れたか。とつにそう思い、竿を放り投げて、飛び起きざま湖に向かって走りかける。その直後、おれの眼前で、銀色にかがやく湖水が丸く盛り上がった。

「な───」

 目と口を大きく開けて立ち尽くす俺の耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。

「キリトくーん、あぶないよ──」

 振り向くと、アスナやニシダを含む全員はすでに岸辺の土手を駆け上がり、かなりのきよまではなれている。ようやく状況をみ込みつつある俺の背後で、盛大な水音がひびいた。とてつもなくいやな予感をひしひしと感じながら、俺はもう一度振り向いた。

 魚が立っていた。

 もうすこし詳細に説明すれば、魚類からちゆうるいへの進化の途上にある生物、シーラカンスのもう少し爬虫類寄りといった様子のやつが、全身から滝のように水滴をしたたらせ、六本のがっしりとした脚で岸辺の草をみしめて俺を見下ろしていた。

 見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく見積もっても二メートルはあるからだ。牛さえも丸吞みにしそうな口は俺の頭よりやや高い位置にあり、はしからは見覚えのあるトカゲの足がはみ出している。

 巨大古代魚の、頭のりようわきに離れてついているバスケットボール大の眼と、俺の眼がぴたりと合った。自動で俺の視界に黄色いカーソルが表示された。

 ニシダは、この湖のヌシは怪物、ある意味モンスターだと語った。

 ある意味どころではない。こいつはモンスターそのものだ。

 俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。そのままくるりと後ろを向き、だつごとく駆け出す。背後の巨大魚はとどろくようなほうこうを上げると、当然のように地響きを立てながら俺を追ってきた。

 びんしよう全開で宙を飛ぶようにダッシュした俺は、数秒でアスナのそばまで達すると猛然と抗議した。

「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」

「わぁ、そんなこと言ってる場合じゃないよキリト君!」

 振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。

「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」

「キリトさん、のんなこと言っとる場合じゃないですよ!! 早く逃げんと!!」

 今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリーたちも余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだままぼうぜんとするだけの者も少なくない。

「キリト君、武器持ってる?」

 俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが──。

「スマン、持ってない……」

「しょうがないなぁもう」

 アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。

 ニシダやほかの見物人たちがぼうぜんと見守る中、こちらに背を向けてすっくと立ったアスナは両手でスカーフと分厚いオーバーを同時にぎ取った。陽光を反射してきらきらかがやくりいろの髪が、風の中でれいに舞った。

 オーバーの下は草色のロングスカートとり麻のシャツの地味な格好だが、その左腰には銀鏡仕上げの細剣のさやがまばゆく光っている。右手で音高く剣を抜き放ち、ひびきを上げて殺到する巨大魚を悠然と待ち構える。

 おれの横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子で俺の腕をつかむと大声で叫んだ。

「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」

「いや、任せておけばだいじようです」

「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」

 かたわらの仲間から釣り竿ざおをひったくり、それを悲壮な表情で構えてアスナのほうに駆け出そうとする老釣り師を、俺は慌てて制した。

 巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数のきばが並ぶ口を大きく開けるとアスナを一飲みにする勢いで身をおどらせた。その口に向かって、体を半身に引いたアスナの右手が白銀のこうぼうを引いて突き込まれた。

 爆発じみたしようげきおんと共に、巨大魚の口中でまばゆいエフェクトフラッシュがさくれつした。魚は宙高く吹き飛ばされたが、アスナの両足の位置はわずかも変わっていない。

 モンスターの図体にはかなりしんたん寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうと俺は予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからにはじんに強敵であるはずがないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。

 地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、《せんこう》の異名に恥じない連続攻撃がようしやなく加えられた。

 華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々をり出すアスナの姿を、ニシダや他の参加者たちはほうけたような顔で見つめていた。彼らはアスナの美しさと強さのどちらに見とれているのだろうか。多分両方だ。

 周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んできよを取り、着地と同時に突進攻撃を敢行した。すいせいのように全身から光の尾を引きながら、正面から巨大魚に突っ込んでいく。最上位細剣技の一つ、《フラッシング・ペネトレイター》だ。

 ソニックブームに似た衝撃音と共に彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長いかつそうを経てアスナが停止した直後、敵の巨体がぼうだいな光の欠片かけらとなって四散した。いつしゆん遅れて巨大な破砕音がとどろき、湖の水面に大きな波紋を作り出した。

 チン、と音を立ててアスナが細剣をさやに収め、すたすたとこちらに歩み寄ってきても、ニシダたちは口を開けたままじろぎひとつしなかった。

「よ、お疲れ」

「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」

「もう財布も共通データじゃないか」

「う、そうか……」

 おれとアスナがきんちようかんのないやり取りをしていると、ようやくニシダが目をパチパチさせながら口を開いた。

「……いや、これはおどろいた……。奥さん、ず、ずいぶんお強いんですな。失礼ですがレベルはほど……?」

 俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。

「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」

 アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀にかがやく一本の釣り竿ざおが出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。

「お、おお、これは!?」

 ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまくせたかな…と思った時。

「あ……あなた、血盟だんのアスナさん……?」

 一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。

「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」

「う……」

 アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先ほどに倍するどよめきが周囲から沸き起こった。

「か、感激だなぁ! アスナさんのせんとうをこんな間近で見られるなんて……。そうだ、サ、サインお願いしていいで……」

 若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。ぼうぜんとした表情でつぶやく。

「け……結婚、したんすか……」

 今度は俺がこわった笑いを浮べる番だった。二人並んで不自然に笑う俺たちの周りで、悲嘆に満ちた叫びが一斉に上がった。ニシダだけは何のことやらわからないといった様子で目をぱちくりさせていたが。


 おれとアスナのひそやかなみつげつは、このようにしてわずか二週間で終わりを迎えることとなった。だが、結局のところ、最後に愉快なイベントに参加できたのは幸運だったのかも知れなかった。

 その日の夜、俺たちの元に、七十五層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。


 翌朝。

 ベッドのはしに腰掛けてがっくりとうなだれていると、たくを済ませたアスナがびようきブーツを音高く鳴らしながら目の前までやってきて言った。

「ほら、いつまでもくよくよしてない!」

「だってまだ二週間なんだぜ」

 子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤のそうを身に着けたアスナは非常にりよくてきに見えたことは否定できない。

 ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断ることもできただろう。だが、メッセージの末尾にあった「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。

「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」

 背中をたたかれてしぶしぶ腰を上げ、装備画面を開く。ギルドは一時脱退中なので、んだ黒のレザーコートと最小限の防具類を身につけ、最後に二本の愛剣を背中に交差してった。その重みは、長らくアイテムらんに放置しっぱなしだったことに対して無言の抗議をしているかのようだ。俺は剣たちをなだめるように少しだけ抜き出し、同時に勢い良くさやに収めた。高くんだ金属音が部屋中にひびいた。

「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」

 アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。

「……さっさと片付けて戻ってこよう」

「そうだね!」

 うなずきあうと、俺たちはドアを開け、冬の気配が色濃くなった冷たい朝の空気の中へと足をみ出した。

 二十二層の転移門広場では、釣り竿ざおを抱えたお馴染みの姿でニシダが俺たちを待っていた。彼だけには出発の時刻を伝えておいたのだ。

 ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。

「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるということがどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出をあきらめていたのかもしれませんなぁ」

 おれとアスナは無言で彼の言葉を聞いていた。

「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若いころから相当いじってきたクチですから今まで何とか技術の進歩に食らいついて来ましたが、二年も現場からはなれちゃもう無理ですわ。どうせ帰っても会社に戻れるかわからない、やつかいばらいされてみじめな思いをするくらいなら、ここでのんびり竿さおを振ってたほうがマシだ、と……」

 言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOのしゆうじんとなったことによってこの男が失った物は、俺などに想像できるはんちゆうのものではないだろう。

「わたしも──」

 アスナがぽつりと言った。

「わたしも、半年くらい前までは同じことを考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎるたびに、家族のこととか、友達とか、進学とか、わたしの現実がどんどんこわれていっちゃう気がして、気が狂いそうだった。寝てる時も元の世界の夢ばっかり見て……。少しでも強くなって早くゲームクリアするしかない、って武器のスキル上げばっかりしてたんです」

 俺はおどろいてかたわらのアスナの顔を見詰めた。俺と出会った頃はそんな様子はまるで見えなかった。他人のことをろくに見ていないのは今に始まったことではないが……。

 アスナは俺に視線を送るとかすかにほほんで、言葉を続けた。

「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の芝生しばふで昼寝してる人がいるんです。レベルも相当高そうだったし、わたし頭に来ちゃって、その人に『こんなとこで時間をにする暇があったらすこしでも迷宮を攻略してください』って……」

 片手を口に当ててクスクスと笑う。

「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮にもぐっちゃもったいない』って言って、横の芝生を指して『お前も寝ていけ』なんて。失礼しちゃいますよね」

 笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。

「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか──って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人のとなりで横になってみました。そしたらほんとに風が気持ちよくて……ぽかぽかあったかくて、そのまま寝ちゃったんです。怖い夢も見ないで、多分この世界に来て初めて本当にぐっすり寝ました。起きたらもう夕方で、その人が横であきれた顔してました。……それがこの人です」

 言葉を切ると、アスナはおれの手をぎゅっと握った。俺は内心で激しくろうばいしていた。確かにその日のことはなんとなく覚えているが……。

「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」

わかってるわよ。言わなくていいのそんなこと!」

 アスナはくちびるとがらせる仕草をすると、にこにこしながら話を聞いているニシダに向き直った。

「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたらいやな夢も見なくなった。がんばって彼のホーム調べて、時間作っては会いに行って……。だんだん、明日がくるのが楽しみになって……恋してるんだって思うとすっごくうれしくて、この気持ちだけは大切にしようって。初めて、ここに来てよかった、って思いました……」

 アスナはうつむくと白手袋をはめた手で両目をごしごしこすり、大きく息を吸って続けた。

「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、生きたあかしであり、明日への希望そのものです。わたしはこの人に出会うために、あの日ナーヴギアをかぶってここに来たんです。……ニシダさん、生意気なことかもしれませんけど、ニシダさんがこの世界で手に入れたものだってきっとあるはずです。確かにここは仮想の世界で、目に見えるものはみんなデータのにせものかもしれない。でも、わたしたちは、わたしたちの心だけは本物です。なら、わたしたちが経験し、得たものだってみんな本物なんです」

 ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度もうなずいていた。眼鏡の奥で光るものがあった。俺も目頭が熱くなるのを必死にこらえた。

 俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここにとらわれてからも生きる意味を見つけられなかった俺こそが救われたのだ。

「……そうですなぁ、本当にそうだ……」

 ニシダはふたたび空を見上げながら言った。

「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」

 大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。

「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなたたちのような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私にできることは何もありませんが、──がんばってください。がんばってください」

 ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。

「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」

 俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。

 俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。しんろうのように揺れる空間にみ込み、アスナと顔を見合わせると、二人同時に口を開いた。

「転移──グランザム!」

 視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。

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