19
ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは三日後の朝のことだった。どうやら
「参ったなぁ。……どうする? アスナ……」
「う~ん……」
正直、その知らせは
「これでどうかなー」
アスナは
「お、おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」
「……それ、
「もちろん。俺はまあ武装してなければ
昼前に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。
今日はこの季節にしては暖かい。巨大な針葉樹が立ち並ぶ森の中をしばらく歩くと、幹の間から煌く水面が見えてきた。
「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」
「こんにちはニシダさん」
それにしても予想以上にアクティブなおっさんである。会社ではいい上司だったのだろう。俺たちが到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、すでに場は相当盛り上がっている。
「え~、それではいよいよ本日のメイン・エベントを決行します!」
長大な
トカゲだ。だが大きさが尋常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにぬめぬめと光っている。
「ひえっ……」
やや遅れてその物体に気付いたアスナが、顔を
だが俺が口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると、
SAOにおける釣りには、待ち時間というものが
果たして、やがて釣り竿の先が二、三度ぴくぴくと
「き、来ましたよニシダさん!!」
「なんの、まだまだ!!」
眼鏡の奥の、
と、
「いまだッ」
ニシダが
「掛かりました!! あとはお任せしますよ!!」
ニシダから手渡された竿を、
突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。
「うわっ」
慌てて両足を
「こ、これ、力一杯引いても
竿や糸の耐久度が心配になり、俺はニシダに声をかけた。
「最高級品です! 思い切ってやってください!」
顔を真っ赤にして
レベルアップ時に、筋力と
だが、レベルの絶対値が
「あっ! 見えたよ!!」
アスナが身を乗り出し、水中を指差した。俺は岸から
「……?」
突然、俺の眼前で湖面に身を乗り出していたギャラリーたちの体がビクリと
「どうしたん……」
俺の言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。俺の左をアスナ、右をニシダが顔面
しまった、糸が切れたか。
「な───」
目と口を大きく開けて立ち尽くす俺の耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。
「キリトくーん、あぶないよ──」
振り向くと、アスナやニシダを含む全員はすでに岸辺の土手を駆け上がり、かなりの
魚が立っていた。
もうすこし詳細に説明すれば、魚類から
見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく見積もっても二メートルはあるからだ。牛さえも丸吞みにしそうな口は俺の頭よりやや高い位置にあり、
巨大古代魚の、頭の
ニシダは、この湖のヌシは怪物、ある意味モンスターだと語った。
ある意味どころではない。こいつはモンスターそのものだ。
俺はひきつった笑顔を浮かべ、数歩後退した。そのままくるりと後ろを向き、
「ず、ずずずるいぞ!! 自分だけ逃げるなよ!!」
「わぁ、そんなこと言ってる場合じゃないよキリト君!」
振り向くと、動作は鈍いものの確実な速度で巨大魚がこちらに駆け寄りつつあった。
「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」
「キリトさん、
今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリーたちも余りのことに硬直してしまったらしく、なかには座り込んだまま
「キリト君、武器持ってる?」
俺の耳に顔を近づけながら、アスナが小声で聞いてきた。確かに、この状態の集団を整然と逃がすのはかなり難しそうだが──。
「スマン、持ってない……」
「しょうがないなぁもう」
アスナは頭を左右に振りながら、いよいよ間近に迫った巨大脚付き魚に向き直った。慣れた手つきで素早くウインドウを操作する。
ニシダや
オーバーの下は草色のロングスカートと
「キリトさん! 奥さんが、奥さんが危ない!!」
「いや、任せておけば
「何を言うとるんですか君ィ!! こ、こうなったら私が…」
巨大魚は突進の勢いを落とさぬまま、無数の
爆発じみた
モンスターの図体にはかなり
地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、アスナの強攻撃一発で大きく減少していた。そこへ、《
華麗なダンスにも似たステップを踏みながら恐るべき死殺技の数々を
周囲を圧する存在感を振りまきながら剣を操り続けたアスナは、敵のHPバーがレッドゾーンに突入したと見るやフワリと跳んで
ソニックブームに似た衝撃音と共に彗星はモンスターの口から尾までを貫通し、長い
チン、と音を立ててアスナが細剣を
「よ、お疲れ」
「わたしにだけやらせるなんてずるいよー。今度何かおごってもらうからね」
「もう財布も共通データじゃないか」
「う、そうか……」
「……いや、これは
俺とアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。
「そ、そんなことよりホラ、今のお魚さんからアイテム出ましたよ」
アスナがウインドウを操作すると、その手の中に白銀に
「お、おお、これは!?」
ニシダが目を輝かせ、それを手に取る。周囲の参加者も一斉にどよめく。どうやらうまく
「あ……あなた、血盟
一人の若いプレイヤーが二、三歩進み出てきて、アスナをまじまじと見詰めた。その顔がパッと輝く。
「そうだよ、やっぱりそうだ、俺写真持ってるもん!!」
「う……」
アスナはぎこちない笑いを浮べながら、数歩後ずさった。先ほどに倍するどよめきが周囲から沸き起こった。
「か、感激だなぁ! アスナさんの
若い男はそこでピタリと口を閉ざすと、俺とアスナの間で視線を数回往復させた。
「け……結婚、したんすか……」
今度は俺が
その日の夜、俺たちの元に、七十五層のボスモンスター攻略戦への参加を要請するヒースクリフからのメッセージが届いたのである。
翌朝。
ベッドの
「ほら、いつまでもくよくよしてない!」
「だってまだ二週間なんだぜ」
子供のように口答えをしながら顔を上げる。しかし実際のところ、久しぶりに白と赤の
ギルドを仮にせよ脱退するに至った経緯を考えれば、今回の要請を断ることもできただろう。だが、メッセージの末尾にあった「すでに被害が出ている」という一文が俺たちに重くのしかかっていた。
「やっぱり、話だけでも聞いておこうよ。ほら、もう時間だよ!」
背中を
「うん、やっぱりキリト君はその格好のほうが似合うよ」
アスナがにこにこしながら右腕に飛びついてくる。俺は首をぐるりと回してしばしの別れとなる新居を見渡した。
「……さっさと片付けて戻ってこよう」
「そうだね!」
二十二層の転移門広場では、釣り
ちょっとお話よろしいですか、という彼の言葉に頷いて、俺たちは三人並んで広場のベンチに腰掛けた。上層の底部を見上げながら、ニシダはゆっくりと話し始めた。
「……正直、今までは、上の階層でクリア目指して戦っておられるプレイヤーの皆さんもいるということがどこか別世界の話のように思えておりました。……内心ではもうここからの脱出を
「ご存知でしょうが電気屋の世界も日進月歩でしてね、私も若い
言葉を切り、深い年輪の刻まれた顔に小さい笑みを浮べる。俺は掛ける言葉が見つからなかった。SAOの
「わたしも──」
アスナがぽつりと言った。
「わたしも、半年くらい前までは同じことを考えて毎晩独りで泣いていました。この世界で一日過ぎる
俺は
アスナは俺に視線を送るとかすかに
「でも、半年くらい前のある日、最前線に転移していざ迷宮に出発って思ったら、広場の
片手を口に当ててクスクスと笑う。
「そしたらその人、『今日はアインクラッドで最高の季節の、さらに最高の気象設定だから、こんな日に迷宮に
笑いを収め、視線を遠くへと向けてアスナは続けた。
「でも、わたしそれを聞いてハッとしたんです。この人はこの世界でちゃんと生きてるんだ、って思って。現実世界で一日無くすんじゃなくて、この世界で一日積み重ねてる、こんな人もいたのか──って……。ギルドの人を先に行かせて、わたし、その人の
言葉を切ると、アスナは
「……すまんアスナ、俺そんな深い意味で言ったんじゃなくて、ただ昼寝したかっただけだと思う……」
「
アスナは
「……わたし、その日から、毎晩彼のことを思い出しながらベッドに入りました。そしたら
アスナは
「キリト君はわたしにとって、ここで過ごした二年間の意味であり、生きた
ニシダは盛んに目をしばたかせながら何度も
俺だ、と思った。救われたのは俺だ。現実世界でも、ここに
「……そうですなぁ、本当にそうだ……」
ニシダはふたたび空を見上げながら言った。
「今のアスナさんのお話を聞けたことだって貴重な経験です。五メートルの超大物を釣ったことも、ですな。……人生、捨てたもんじゃない。捨てたもんじゃないです」
大きくひとつ頷くと、ニシダは立ち上がった。
「や、すっかり時間を取らせてしまいましたな。……私は確信しましたよ。あなたたちのような人が上で戦っている限り、そう遠くないうちにもとの世界に戻れるだろうとね。私にできることは何もありませんが、──がんばってください。がんばってください」
ニシダは俺たちの手を握ると、何度も上下に振った。
「また、戻ってきますよ。その時は付き合ってください」
俺が右手の人差し指を動かすと、ニシダは顔をくしゃくしゃにして大きく頷いた。
俺たちは固く握手を交わし、転移ゲートへと足を向けた。
「転移──グランザム!」
視界に広がる青い光が、いつまでも手を振るニシダの姿を徐々にかき消していった。
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