18
湖水に垂れた糸の先に漂うウキはぴくりともしない。水面に乱舞する柔らかい光を眺めていると、徐々に眠気が
俺は大きく
二十二層に引っ越してきて十日余りが過ぎ去っていた。俺は日々の食料を手に入れるため、スキルスロットから大昔に修行しかけた両手剣スキルを削除して代わりに釣りスキルを設定し、
「やってられるか……」
小声で毒づくと竿を
アインクラッドは《イトスギの月》に入っていた。日本で言えば十一月。冬も間近だが、ここでの釣りに季節は関係なかったはずだ。運のパラメータを美人の奥さんで使い果たしたのだろうか。
その思考経路によって浮かんできたにやにや笑いを隠しもせず寝転がっていると、不意に頭の上のほうから声を掛けられた。
「釣れますか」
仰天して飛び起き、顔を向けると、そこには一人の男が立っていた。
重装備の厚着に
「NPCじゃありませんよ」
男は俺の思考を読んだように苦笑すると、ゆっくりと土手を降りてきた。
「す、すみません。まさかと思ったものですから…」
「いやいや、無理はない。多分私はここでは突出して最高齢でしょうからな」
肉付きのいい体を揺らして、わ、は、は、と笑う。
ここ失礼します、と言って俺の
「私はニシダといいます。ここでは釣り師。日本では東都高速線という会社の保安部長をしとりました。名刺が無くてすみませんな」
またわははと笑う。
「ああ……」
俺はこの男がここにいる理由を何となく察していた。東都高速線はアーガスと提携していたネットワーク運営企業だ。SAOのサーバー群に
「俺はキリトといいます。最近上の層から越してきました。……ニシダさんは、やはり……SAOの回線保守の……?」
「一応責任者ということになっとりました」
「いやあ、何もログインまではせんでいいと上には言われたんですがな、自分の仕事はこの目で見ないと収まらん
笑いながら、すい、と竿を振る動作は見事なものだった。年季が入っている。話し好きな人物のようで、俺の言葉を待たず
「私の
「いい川やら湖を探してとうとうこんな所まで登ってきてしまいましたわ」
「な、なるほど…。この層にはモンスターも出ませんしね」
ニシダは、
「どうです、上のほうにはいいポイントがありますかな?」と聞いてきた。
「うーん……。六十一層は全面湖、というより海で、相当な大物が釣れるようですよ」
「ほうほう! それは一度行ってみませんとな」
その時、男の垂らした糸の先で、ウキが勢いよく沈み込んだ。間髪入れずニシダの腕が動き、ビシッと竿を合わせる。本来の腕もさることながら釣りスキルの数値もかなりのものだろう。
「うおっ、で、でかい!」
慌てて身を乗り出す俺の横で、ニシダは悠然と竿を操り、水面から青く
「お見事……!」
ニシダは照れたように笑うと、
「いやぁ、ここでの釣りはスキルの数値次第ですから」と頭を
「ただ、釣れるのはいいんだが料理のほうがどうもねえ……。煮付けや刺身で食べたいもんですが
「あー……っと……」
俺は
「……醬油にごく似ている物に心当たりがありますが……」
「なんですと!」
ニシダは眼鏡の奥で目を輝かせ、身を乗り出してきた。
ニシダを伴って帰宅した俺を出迎えたアスナは、少し
「おかえりなさい。お客様?」
「ああ。こちら、釣り師のニシダさん。で──」
ニシダに向き直った俺は、アスナをどう紹介したものか迷って
「キリトの妻のアスナです。ようこそいらっしゃいませ」
元気よく頭を下げた。
ニシダはぽかんと口をあけ、アスナに見入っていた。地味な色のロングスカートに麻のシャツ、エプロンとスカーフ姿のアスナは、KoB時代の
何度か
「い、いや、これは失礼、すっかり見とれてしまった。ニシダと申します、厚かましくお招きにあずかりまして……」
頭を
ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを
魚は淡水魚というよりは、
たちまち食器は空になり、熱いお茶のカップを手にしたニシダは陶然とした顔で長いため息をついた。
「……いや、
「あ、自家製なんですよ。よかったらお持ち下さい」
アスナは台所から小さな
「キリト君はろくに釣ってきたためしがないんですよ」
唐突に話の矛先を向けられて、俺は
「このへんの湖は難易度が高すぎるんだよ」
「いや、そうでもありませんよ。難度が高いのはキリトさんが釣っておられたあの大きい湖だけです」
「な……」
ニシダの言葉に俺は絶句した。アスナがお
「なんでそんな設定になってるんだ……」
「実は、あの湖にはですね……」
ニシダは声をひそめるように言った。俺とアスナが身を乗り出す。
「どうやら、主がおるんですわ」
「ヌシ?」
異口同音に聞き返す俺とアスナに向かってニヤリと笑ってみせると、ニシダは眼鏡を押し上げながら続けた。
「村の道具屋に、一つだけヤケに値の張る釣り
思わず
「ところが、これがさっぱり釣れない。散々あちこちで試したあと、ようやくあそこ、唯一難度の高い湖で使うんだろうと思い当たりまして」
「つ、釣れたんですか……?」
「ヒットはしました」
深く
「ただ、私の力では取り込めなかった。
両腕をいっぱいに広げてみせる。あの湖で、
「わあ、見てみたいなぁ!」
目を
「キリトさんは筋力パラメータのほうに自信は…?」
「う、まあ、そこそこには……」
「なら
「ははぁ、釣り竿の《スイッチ》ですか。……できるのかなぁそんなこと……」
首をひねる俺に向かって、
「やろうよキリト君! おもしろそう!」
アスナが、わくわく、と顔に書いてあるような表情で言った。相変わらず行動力のある
「……やりますか」
俺が言うと、ニシダは満面に笑みを浮べて、そうこなくっちゃ、わ、は、は、と笑った。
その夜。
寒い寒いと俺のベッドに
「……いろんな人がいるんだねえ、ここ……」
「愉快なおじさんだったなぁ」
「うん」
しばらくクスクス言っていたが、不意に笑いを引っ込めて、
「今までずーっと上で戦ってばっかいたから、普通に暮らしてる人もいるんだってこと忘れてたよ……」と
「わたしたちが特別だなんて言うわけじゃないけど、最前線で戦えるくらいのレベルだってことは、あの人たちに対して責任がある、ってことでもあるんだよね」
「……
「今はキリト君に期待してる人だっていっぱいいると思うよ。わたしも含めてね」
「……そういう言われ方すると逃げたくなる
「もう」
不満そうに口を
エギルやクラインから届くメッセージで、七十五層の攻略が難航していることは知らされていた。しかし、俺にとってはここでのアスナとの暮らしが今いちばん大切なのだと、心からそう思えた。
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