6
セルムブルグは、六十一層にある美しい
規模はそれほど大きくもないが、
俺とアスナがセルムブルグの転移門に到着した時はすっかり陽も暮れかかり、最後の残照が街並みを深い紫色に染め上げていた。
六十一層は面積のほとんどが湖で占められており、セルムブルグはその中心に浮かぶ小島に存在するので、外周部から差し込む夕陽が水面を
転移門は古城前の広場に設置されており、そこから街路樹に挟まれたメインストリートが市街地を貫いて南に伸びている。
「うーん、広いし人は少ないし、開放感あるなぁ」
「なら君も引っ越せば」
「金が圧倒的に足りません」
肩をすくめて答えてから、俺は表情をあらためた。
「……そりゃそうと、本当に
「…………」
それだけで何のことか察したらしく、アスナはくるりと後ろを向くと、
「……わたし一人の時に何度か
やや沈んだ声で続ける。
「昔は、団長が一人ずつ声を掛けて作った小規模ギルドだったのよ。でも人数がどんどん増えて、メンバーが入れ替わったりして……最強ギルドなんて言われ始めた
言葉を切って、アスナは体半分振り向いた。その
何か言わなければいけない、そんなことを思ったが、利己的なソロプレイヤーである俺に何が言えるというのか。俺たちは
先に視線を
「まあ、大したことじゃないから気にしなくてよし! 早く行かないと日が暮れちゃうわ」
先に立ったアスナに続いて、俺も街路を歩き始めた。少なからぬ数のプレイヤーとすれ違うが、アスナの顔をじろじろと見るような者はいない。
セルムブルグは、ここが最前線だった半年ほど前に数日
アスナの住む部屋は、目抜き通りから東に折れてすぐのところにある小型の、しかし美しい造りのメゾネットの三階だった。もちろん訪れるのは初めてだ。よくよく考えると、いままでこの女とはボス攻略会議の席上で話すくらいがせいぜいで、
「しかし……いいのか? その……」
「なによ、君がもちかけた話じゃない。
ぷいっと顔をそむけ、アスナはそのまま階段をとんとん登って行ってしまう。俺は覚悟を決めてそのあとに続いた。
「お……おじゃまします」
おそるおそるドアをくぐった俺は、言葉を失って立ち尽くした。
そのくせ過度に装飾的ではなく、実に居心地の良さそうな
「なあ……これ、いくらかかってるの……?」
即物的な俺の質問に、
「んー、部屋と内装あわせると四千kくらい。着替えてくるからそのへん適当に座ってて」
サラリと答えるとアスナはリビングの奥にあるドアに消えて行った。kが千をあらわす短縮語なので、四千kとは四百万コルのことである。俺とても日々最前線に
やがて、簡素な白い
そんな俺の内的
「君もいつまでそんな格好してるのよ」
俺は慌ててメニュー画面を呼び出すと、革の
アスナは神妙な
「これが伝説のS級食材かー。……で、どんな料理にする?」
「シェ、シェフお任せコースで
「そうね……じゃあシチューにしましょう。
そのまま
キッチンは広々としていて、巨大な
「ほんとはもっといろいろ手順があるんだけど。SAOの料理は簡略化されすぎててつまらないわ」
文句を言いながら、鍋をオーブンの中に入れて、メニューから調理開始ボタンを押す。三百秒と表示された待ち時間にも彼女はてきぱきと動き回り、無数にストックしてあるらしい食材アイテムを次々とオブジェクト化しては、
わずか五分で豪華な食卓が整えられ、俺とアスナは向かい合わせで席についた。眼前の大皿には湯気を上げるブラウンシチューがたっぷりと盛り付けられ、
俺たちはいただきますを言うのももどかしくスプーンを取ると、SAO内で存在し得る最上級の食い物であるはずのそれをあんぐりと
SAOにおける食事は、オブジェクトを歯が
これはあらかじめプリセットされた、様々な《物を食う》感覚を脳に送り込むことで使用者に現実の食事と同じ体験をさせることができるというものだ。もとはダイエットや食事制限が必要な人のために開発されたものらしいが、要は味、
だが、この際そんなことを考えるのは
やがて、きれいに──文字通りシチューが存在した
「ああ……いままでがんばって生き残っててよかった……」
まったく同感だった。
「不思議ね……。なんだか、この世界で生まれて今までずっと暮らしてきたみたいな、そんな気がする」
「……俺も最近、あっちの世界のことをまるで思い出さない日がある。俺だけじゃないな……この
「攻略のペース自体落ちてるわ。今最前線で戦ってるプレイヤーなんて、五百人いないでしょう。危険度のせいだけじゃない……みんな、
俺は
確かにその顔は、生物としての人間のものではない。なめらかな肌、
俺は本当に帰りたいと思っているんだろうか……あの世界に……?
ふと浮かんできたそんな思考に戸惑う。毎日朝早く起き出して危険な迷宮区に
昔はたしかにそうだったはずだ。いつ死ぬとも知れないデスゲームから早く抜け出したかった。しかし、この世界での生き方に慣れてしまった今は──。
「でも、わたしは帰りたい」
俺の内心の迷いを見透かすような、歯切れのいいアスナの言葉が
アスナは、
「だって、あっちでやり残したこと、いっぱいあるから」
その言葉に、俺は素直に
「そうだな。俺たちががんばらなきゃ、サポートしてくれる職人クラスの連中に申し訳が立たないもんな……」
消えない迷いを
「あ……あ、やめて」
などと言う。
「な、なんだよ」
「今までそういうカオした男プレイヤーから、何度か結婚を申し込まれたわ」
「なっ……」
悔しいかな、
そんな俺を見て、アスナはにまっと笑った。
「その様子じゃ、
「悪かったな……いいんだよソロなんだから」
「せっかくMMORPGやってるんだから、もっと友達作ればいいのに」
アスナは笑みを消すと、どことなく姉か先生のような口調で問いかけてきた。
「君は、ギルドに入る気はないの?」
「え……」
「ベータ出身者が集団に
表情が
「七十層を超えたあたりから、モンスターのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてるような気がするんだ」
それは俺も感じてはいた。CPUの戦術が読みにくくなってきたのは、当初からの設計なのか、それともシステム自体の学習の結果なのか。後者だったら、今後どんどん
「ソロだと、想定外の事態に対処できないことがあるわ。いつでも
「安全マージンは十分取ってるよ。忠告は
ここでよせばいいのに強がって、俺は余計なことを言った。
「パーティーメンバーってのは、助けよりも
「あら」
ちかっ、と目の前を銀色の
と思った時には、アスナの右手に握られたナイフがピタリと俺の鼻先に据えられていた。
細剣術の基本技《リニアー》だ。基本とは言え、圧倒的な
ひきつった笑いとともに、
「……
「そ」
「なら、しばらくわたしとコンビ組みなさい。ボス攻略パーティーの編成責任者として、君がウワサほど強いヒトなのか確かめたいと思ってたとこだし。わたしの実力もちゃんと教えて差し上げたいし。あと今週のラッキーカラー黒だし」
「な、なんだそりゃ!」
あまりの
「んな……こと言ったってお前、ギルドはどうするんだよ」
「うちは別にレベル上げノルマとかないし」
「じゃ、じゃああの護衛二人は」
「置いてくるし」
時間
正直──
ひょっとして、根暗なソロプレイヤーとして
「最前線は危ないぞ」
再びアスナの右手のナイフが持ち上がり、さっきより強いライトエフェクトを帯び始めるのを見て、俺は慌ててこくこく
「わ、解った。じゃあ……明日朝九時、七十四層のゲートで待ってる」
手を降ろし、アスナはふふんと強気な笑みで答えた。
一人暮らしの女性の部屋にいったい何時までお
「今日は……まあ、一応お礼を言っておくわ。ご
「こ、こっちこそ。また
「あら、ふつうの食材だって腕次第だわ」
切り返してから、アスナはつい、と上を振り仰いだ。すっかり夜の
「……今のこの状態、この世界が、本当に
なかば自分に向けた俺の問いに、二人とも答えることができない。
どこかに身を
アスナは無言で俺の
このデスゲームが開始されたのが、二〇二二年十一月六日。そして今は二〇二四年十月下旬。二年近くが経過した今も、救出の手はおろか外部からの連絡すらもたらされていない。俺たちにできるのは、ただひたすら日々を生きのび、一歩ずつ上に向かって進んでいくことだけだ。
こうしてまたアインクラッドの一日が終わる。俺たちがどこへ向かっているのか、このゲームの結末に何が待つのか、今は解らないことだらけだ。道のりは
俺は上空の鉄の蓋を見上げ、まだ見ぬ未知の世界へと思考を
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