3
突然、リンゴーン、リンゴーンという、
「んな……っ」
「何だ!?」
同時に叫んだ俺たちは、互いの姿を見やり、再び眼を見開いた。
俺とクラインの体を、鮮やかなブルーの光の柱が包んだのだ。青い膜の向こうで、草原の風景がみるみる
この現象そのものは、ベータテストの時に何度も体験していた。場所移動用アイテムによる《
そこまで考えた時、体を包む光が
青の輝きが薄れると同時に、風景が再び戻った。だがそこはもう、夕暮れの草原ではなかった。
広大な
間違いなく、ゲームのスタート地点である《はじまりの街》の中央広場だ。
色とりどりの装備、髪色、
数秒間、人々は押し
やがて、さわさわ、ざわざわという声がそこかしこで発生し、徐々にボリュームを上げていく。「どうなってるの?」「これでログアウトできるのか?」「早くしてくれよ」などという言葉が切れぎれに耳に届く。
ざわめきが次第に
と、不意に。
それらの声を押しのけ、
「あっ……上を見ろ!!」
俺とクラインは、反射的に視線を上向けた。そして、そこに異様なものを見た。
百メートル上空、第二層の底を、
よくよく見れば、それは二つの英文が交互にパターン表示されたものだった。真っ赤なフォントで
しかし、続いた現象は、俺の予想を大きく裏切るものだった。
空を埋め尽くす真紅のパターンの中央部分が、まるで巨大な血液の
出現したのは、身長二十メートルはあろうかという、真紅のフード付きローブをまとった巨大な人の姿だった。
いや、正確には違う。俺たちは地面から見上げているので、深く引き下げられたフードの中が見通せるのだが──そこに、顔がないのだ。まったくの空洞、フードの裏地や縁の
ローブの形そのものには見覚えがあった。あれは、ベータテストの時、アーガスの社員が務めるGMが必ず
周囲の無数のプレイヤーたちも同様だったのだろう。「あれ、
と、それらの声を抑えるかのように、不意に巨大なローブの
ひらりと広げられた袖口から、純白の手袋が
続いて左袖もゆるゆると掲げられた。一万のプレイヤーの頭上で、中身のない白手袋を左右に広げ、顔のない何者かが見えない口を開いた──気がした。直後、低く落ち着いた、よく通る男の声が、
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
《私の世界》? あの赤ローブが運営サイドのゲームマスターならば、確かに世界の操作権限を持つ神の如き存在だが、
『私の名前は
「な…………」
茅場──晶彦!!
俺はその名前を知っていた。知らないわけがない。
数年前まで
彼はこのSAOの開発ディレクターであると同時に、ナーヴギアそのものの基礎設計者でもあるのだ。
俺は、一人のコアゲーマーとして、茅場に深く
だが、今まで常に裏方に
棒立ちになった俺は、停止しそうになる思考を必死に回転させ、どうにか状況を把握しようとした。しかし、
『プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う。しかしゲームの不具合ではない。繰り返す。これは不具合ではなく、《ソードアート・オンライン》本来の仕様である』
「し……、仕様、だと」
クラインが割れた声でささやいた。その語尾に
『諸君は今後、この城の頂を極めるまで、ゲームから自発的にログアウトすることはできない』
この城、という言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。このはじまりの街の、いったいどこに城があるというのだ?
俺の戸惑いは、しかし、次の茅場の言葉によって
『……また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合──』
わずかな間。
一万人が息を詰めた、途方もなく重苦しい静寂のなか、その言葉はゆっくりと発せられた。
『──ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を
脳そのものが、言葉の意味を理解するのを拒否しているかのようだった。しかし、
脳を破壊する。
それはつまり、殺す、ということだ。
ナーヴギアの電源を切ったり、ロックを解除して頭から外そうとしたら、着装しているユーザーを殺す。茅場はそう宣言したのだ。
ざわ、ざわ、と集団のあちこちがさざめく。しかし叫んだり暴れたりする者はいない。俺を含めた全員が、まだ伝えられた言葉を理解できないか、あるいは理解を
クラインの右手がのろりと持ち上がり、現実世界ではその場所にあるはずのヘッドギアを
「はは……何言ってんだアイツ、おかしいんじゃねえのか。んなことできるわけねぇ、ナーヴギアは……ただのゲーム機じゃねえか。脳を破壊するなんて……んな
後半は
ナーヴギアは、ヘルメット内部に埋め込まれた無数の信号素子から微弱な電磁波を発生させ、脳細胞そのものに
まさに
充分な出力さえあれば、ナーヴギアは、俺たちの脳細胞中の水分を高速振動させ、
「…………原理的には、有り得なくもないけど……でも、ハッタリに決まってる。だって、いきなりナーヴギアの電源コードを引っこ抜けば、とてもそんな高出力の電磁波は発生させられないはずだ。大容量のバッテリでも内蔵されてない……限り…………」
そこまでを口にしたところで俺が絶句した理由を、クラインも察したのだろう。
「内蔵……してるぜ。ギアの重さの三割はバッテリセルだって聞いた。でも……
と、まるでクラインの叫び声が聞こえたかのように、上空からの茅場のアナウンスが再開された。
『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解または
いんいんと
『──残念ながら、すでに二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』
どこかで、ひとつだけ細い悲鳴が上がった。しかし周囲のプレイヤーの大多数は、信じられない、あるいは信じないというかのように、ぽかんと放心したり、
すでに、二百十三名のプレイヤーが。
その部分だけが、耳の奥で何度も何度もリピート再生される。
茅場の言葉が本当なら──二百人以上も、この時点でもう死んでいるということなのか?
その中には、きっと俺と同じベータテスターもいただろう。キャラネームやアバターの顔を知っている
「信じねぇ……信じねぇぞオレは」
「ただの
俺も頭の奥では、それとまったく同じことを
しかし、俺たちを含む全プレイヤーの望みを
『諸君が、向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない。現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることも含め、
「な…………」
そこでとうとう、
「何を言ってるんだ! ゲームを攻略しろだと!? ログアウト不能の状況で、
上層フロアの底近くに浮かぶ巨大な
「こんなの、もうゲームでも何でもないだろうが!!」
と、またしてもその声が聞こえたかのように。
『しかし、充分に留意してもらいたい。諸君にとって、《ソードアート・オンライン》は、すでにただのゲームではない。もう一つの現実と言うべき存在だ。……今後、ゲームにおいて、あらゆる
続く言葉を、俺は鮮やかに予想した。
『諸君らの脳は、ナーヴギアによって
瞬間、
いま、俺の視界左上には、細い横線が青く
ヒットポイント。命の残量。
それがゼロになった瞬間、俺は本当に死ぬ──マイクロウェーブに脳を焼かれて即死すると、茅場はそう言ったのだ。
確かにこれはゲームだ。本物の命がかかった
俺は、二ヶ月間のSAOベータテスト中に、恐らく百回は死んだ。広場の北に見える宮殿、《
RPGというのは、そういうものなのだ。何度も何度も死んで、学習し、プレイヤースキルを高めていく種類のゲームなのだ。それができない? 一度の死亡で、本物の命まで失うと? そのうえ──ゲームプレイを
「……
俺は低く
そんな条件で、危険なフィールドに出ていく
しかし、
『諸君がこのゲームから解放される条件は、たった一つ。先に述べたとおり、アインクラッド最上部、第百層まで
しん、と一万のプレイヤーが
俺は、最初に
この城、とはつまり──俺たちを最下層に
「クリア……第百層だとぉ!?」
突然クラインが
「で、できるわきゃねぇだろうが!! ベータじゃろくに上れなかったって聞いたぞ!!」
その言葉は真実だった。千人のプレイヤーが参加したSAOベータテストでは、二ヶ月の期間中にクリアされたフロアはわずか六層だったのだ。今の正式サービスには、約一万人がダイブしているはずだが、ならばその人数で百層をクリアするのに、いったいどれくらいかかるのか?
そんな答えの出しようのない疑問を、おそらくこの場に集められたプレイヤー全員が考えたのだろう。張り詰めた静寂が、やがて低いどよめきに埋められていく。しかしそこに、恐怖や絶望の音はほとんど聞き取れない。
おそらく大多数の者は、この状況が《本物の危機》なのか《オープニングイベントの
俺は空を振り仰ぎ、がらんどうのローブ姿を
俺はもう、二度とログアウトできない。現実世界の自分の部屋に、自分の生活に戻ることはかなわない。それが可能となるのは、いつか
しかし。
それらの情報を事実として吞み込むことなど、どう頑張ってもできそうになかった。俺はほんの五、六時間前、母親の作った昼飯を食い、妹と短い会話を交わし、自宅の階段を上った。
あの場所に、もう戻れない? これは本当に、現実なのか?
その時、俺と
『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ
それを聞くや、ほとんど自動的に、
出現したメインメニューから、アイテム
アイテム名は──《手鏡》。
なぜこんな物を、と思いながら、俺はその名前をタップし、浮き上がった小ウインドウからオブジェクト化のボタンを選択。たちまち、きらきらという効果音とともに、小さな四角い鏡が出現した。
おそるおそる手に取ったが、何も起こらない。
首をかしげ、俺は
──と。
突然、クラインや周りのアバターを白い光が包んだ。と思った
ほんの二、三秒で光は消え、元のままの風景が現れ……。
いや。
目の前にあったのは、見慣れたクラインの顔ではなかった。
板金を
俺はあらゆる状況を忘れ、
「お前……
そしてまったく同じ言葉が、目の前の男の口から流れた。
「おい……誰だよおめぇ」
その瞬間、俺はある種の予感に打たれ、同時に
さっと持ち上げ、食い入るように覗き込んだ鏡の中から、こちらを見返していたのは。
大人しいスタイルの、黒い髪。長めの前髪の下の、
数秒前までの《キリト》が備えていた、勇者然とした
「うおっ…………オレじゃん……」
俺たちはもう一度互いの顔を見合わせ、同時に叫んだ。
「お前がクラインか!?」「おめぇがキリトか!?」
どちらの声も、ボイスエフェクタが停止したらしくトーンが変化していたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
双方の手から鏡が
改めてぐるっと周囲を見回すと、存在したのは、数十秒前までのいかにもファンタジーゲームのキャラクターめいた美男美女の群れではなかった。例えば現実のゲームショウの会場から、ひしめく客を
いったい、どうしてこんなことが起こり得るのか。俺やクライン、そして恐らく周囲のプレイヤーたちは、ゼロから造ったアバターから現実の姿へと変化している。たしかに質感はポリゴンだし、細部には多少の違和感も残るが、それでも
──スキャン。
「……そうか!」
「ナーヴギアは、高密度の信号素子で頭から顔全面をすっぽり
「で、でもよ。身長とか……体格はどうなんだよ」
いっそうの小声で言いながら、クラインはちらっと周りを見た。
周囲で、
それだけではない。体格のほうも横幅の平均値がかなり上昇している。これらは、頭にかぶるだけのナーヴギアではスキャンのしようがないはずだ。
こちらの疑問に答えたのはクラインだった。
「あ……待てよ。おりゃ、ナーヴギア本体も昨日買ったばっかだから覚えてるけどよ。初回に装着した時のセットアップステージで、なんだっけ……キャリブレーション? とかで、自分の体をあちこち自分で触らされたじゃねえか。もしかしてアレか……?」
「あ、ああ……そうか、そういうことか……」
キャリブレーションとはつまり、装着者の体表面感覚を再現するため、《手をどれだけ動かしたら自分の体に触れるか》の基準値を測る作業だ。それはつまり、自分のリアルな体格をナーヴギア内にデータ化するということに等しい。
可能だ。このSAO世界において、全プレイヤーのアバターを、現実の姿そのままを詳細に再現したポリゴンモデルに置き換えることは。
そして、その意図も、
「……現実」
俺はぽつりと
「あいつはさっきそう言った。これは現実だと。このポリゴンのアバターと……数値化されたヒットポイントは、両方本物の体であり、命なんだと。それを強制的に認識させるために、
「でも……でもよぉ、キリト」
がりがりと頭を
「なんでだ!? そもそも、なんでこんなことを…………!?」
俺は、それには答えず、指先で真上を示した。
「もう少し待てよ。どうせ、すぐにそれも答えてくれる」
『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は──SAO及びナーヴギア開発者の茅場
そこで初めて、これまで一切の感情をうかがわせなかった茅場の声が、ある種の色合いを帯びた。俺はふと、場違いにも《
『私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。なぜなら……この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を
短い間に続いて、無機質さを取り戻した茅場の声が
『……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の──
最後の一言が、わずかな
肩が、胸が、そして両手と足が血の色の水面に沈み、最後にひとつだけ波紋が広がった。直後、天空一面に並ぶメッセージもまた、現れた時と同じように唐突に消滅した。
広場の上空を吹き過ぎる風鳴り、
ゲームは再び本来の姿を取り戻していた。
そして──この時点に至って、ようやく。
一万のプレイヤー集団が、
つまり、圧倒的なボリュームで放たれた多重の音声が、広大な広場をびりびりと
「
「ふざけるなよ! 出せ! ここから出せよ!」
「こんなの困る! このあと約束があるのよ!」
「
悲鳴。怒号。絶叫。
たった数十分でゲームプレイヤーから
無数の叫び声を聞いているうちに、不思議なことに、
これは、現実だ。
俺はもう、当分の間──数ヶ月、あるいはそれ以上、現実世界には戻れない。母親や妹の顔を見ることも、会話することもできない。ひょっとしたらその時は永遠に来ないかもしれない。この世界で死ねば──
俺は本当に死ぬのだ。
ゲームマシンであり、
ゆっくり息を吸い、
「クライン、ちょっと来い」
現実世界でも俺よりずいぶんと長身だったらしい
どうやら集団の外側付近にいたらしく、すぐに人の輪を抜ける。広場から放射状に広がる
「……クライン」
まだ、どこか
「いいか、よく聞け。俺はすぐにこの街を出て、次の村に向かう。お前も
「あいつの言葉が全部本当なら、これからこの世界で生き残っていくためには、ひたすら自分を強化しなきゃならない。お前も重々承知だろうけど、MMORPGってのはプレイヤー間のリソースの奪い合いなんだ。システムが供給する限られた金とアイテムと経験値を、より多く獲得した
俺にしては
そして数秒後、わずかに顔を
「でも……でもよ。前に言ったろ。おりゃ、
「…………」
クラインの張り詰めた視線に込められたものを、俺は
この男は──陽気で人好きのする、恐らく面倒見もいいのだろうこの男は、その友達全員を
だが、俺はどうしても、
クラインだけなら、レベル1の今でも
仮に道中で死者が出て、そしてその結果、
その責は、安全なはじまりの街の脱出を提案し、しかも仲間を守れなかった俺に帰せられねばならない。
そんな
ほんの
「いや……、おめぇにこれ以上世話んなるわけにゃいかねえよな。オレだって、前のゲームじゃギルドのアタマ張ってたんだしよ。
「…………」
そして、その後二年にもわたって俺を苦しめることになる言葉を選択した。
「……そっか」
俺は頷き、一歩後ろに下がると、
「なら、ここで別れよう。何かあったらメッセージ飛ばしてくれ。……じゃあ、またな、クライン」
眼を伏せ、振り向こうとした俺に、クラインが短く叫んだ。
「キリト!」
「…………」
視線で問いかけたが、頰骨のあたりが軽く
俺は一度ひらりと手を振り、体を北西に──次の拠点となるべき村があるはずの方角へと向けた。
五歩ほど
「おい、キリトよ! おめぇ、本物は案外カワイイ顔してやがんな! 結構好みだぜオレ!!」
「お前もその野武士ヅラのほうが十倍似合ってるよ!」
そして俺は、この世界で初めてできた友人に背を向けたまま、まっすぐ、ひたすらに歩き続けた。
左右に曲がりくねる細い路地を数分進んだところで一度振り向いたが、もちろんもう
胸を
はじまりの街の北西ゲート、広大な草原と深い森、それらを越えた先にある小村──そしてその先にどこまでも続く、果てなき孤独なサバイバルへと向かって、俺は必死に走り続けた。
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