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「ぬおっ……とりゃっ……うひええっ!」
奇妙な掛け声に合わせて
直後、巨体のわりに俊敏な動きで剣を
「ははは……、そうじゃないよ。重要なのは初動のモーションだ、クライン」
「ってて……にゃろう」
毒づきながら立ち上がった攻撃者──パーティーメンバーのクラインは、ちらりと俺を見ると、情けない声を投げ返してきた。
「ンなこと言ったってよぉ、キリト……アイツ動きやがるしよぉ」
赤みがかった髪を額のバンダナで逆立て、長身
そのクラインの足元がふらふら揺れているのを見て、少々目を回したかと思った俺は、足元の草むらから左手で小石を拾い上げると肩の上でぴたりと構えた。
あとは、ほとんど自動的に左手が
「動くのは当たり前だ、訓練用のカカシじゃないんだぞ。でも、ちゃんとモーションを起こしてソードスキルを発動させれば、あとはシステムが技を命中させてくれるよ」
「モーション……モーション……」
青イノシシ、正式名《フレンジーボア》はレベル1の
イノシシの突進を右手の剣でブロックしながら、俺はうーんと首を
「どう言えばいいかなぁ……。一、二、三で構えて振りかぶって
「ズパーン、てよう」
すう、ふー、と深呼吸してから、腰を落とし、右肩に
「りゃあっ!」
太い掛け声と同時に、これまでとは打って変わった
ぷぎーという
「うおっしゃあああ!」
派手なガッツポーズを決めたクラインが、満面の笑みで振り向き、左手を高く掲げた。ばしんとハイタッチをかわしてから、俺はもう一度笑った。
「初勝利おめでとう。……でも、今のイノシシ、
「えっ、マジかよ! おりゃてっきり中ボスかなんかだと」
「なわけあるか」
笑いを苦笑に変えながら、俺は剣を背中の
口では
おさらいのつもりか、同じソードスキルを何度も
四方にひたすら広がる草原は、ほのかに赤みを帯び始めた陽光の下で美しく輝いている。
巨大浮遊城《アインクラッド》第一層の
ようやく満足したか、クラインが剣を腰の鞘に戻しながら近づいてきて、同じようにぐるっと視線を巡らせた。
「しっかしよ……こうして何度見回しても信じられねえな。ここが《ゲームの中》だなんてよう」
「中って言うけど、別に
俺が肩をすくめながら言うと、子供のように
「そりゃ、おめぇはもう慣れてるんだろうけどよぉ。おりゃこれが初の《フルダイブ》体験なんだぜ! すっげえよなあ、まったく……マジ、この時代に生きててよかったぜ!!」
「大げさな
笑いながらも、内心では俺もまったく同感だった。
《ナーヴギア》。
それが、この
しかしその構造は、前時代の据え置き型マシンとは根本的に異なる。
平面のモニタ装置と、手で握るコントローラという二つのマンマシン・インタフェースを必要とした旧ハードに対して、ナーヴギアのインタフェースは一つだけだ。頭から顔までをすっぽりと
その内側には無数の信号素子が埋め込まれ、それらが発生させる多重電界によってギアはユーザーの脳そのものと直接接続する。ユーザーは、己の目や耳ではなく、脳の視覚野や
ヘッドギアを装着し
つまり。
半年前、二〇二二年五月に発売されたこのマシンは、
《
まさしく完全の名に
なぜなら、ユーザーは、仮想の五感情報を与えられるだけでなく──脳から自分の体に向けて出力される命令をも
それは、仮想空間で自由に動くためには必須の機能であると言える。もし現実の体への命令が生きていれば、例えばフルダイブ中のユーザーが、仮想空間内で《走る》という意志を発生させた時、生身の自分もまた同時にダッシュして部屋の壁に激突してしまう。
ナーヴギアが
ゲームの中に飛び込む。
その体験のインパクトは、俺を含む多くのゲーマーを深く
俺は、風になびく草原や、
「じゃあ、あんたはナーヴギア用のゲーム自体も、この《SAO》が初体験なのか?」
戦国時代の若武者のように
当然、俺のほうも気恥ずかしいほどにカッコいい、ファンタジーアニメの主人公然とした
これも現実とは違うのであろう、張りのある美声でクラインは続けた。
「つーか、むしろSAOが買えたから慌ててハードも
「ま、まあ、そうなるかな」
じとっと
《ソードアート・オンライン》という名のゲームタイトルが、各メディアに大々的に発表された時の
ナーヴギアは真の仮想世界を
なのに、その世界が百メートル歩いたら壁に突き当たるような狭苦しいものでは、本末転倒もいいところではないか。ハードの発売当初こそ、自分がゲームの中に入る、という体験に夢中になった俺や
すなわち、ネットワーク対応ゲーム──それも、広大な異世界に数千、数万のプレイヤーが同時接続し、己の分身を育て、戦い、生きる、MMORPGを。
期待と渇望が限界まで高まった
ゲームの舞台は、百にも及ぶ階層を持つ巨大な浮遊城。
草原やら森やら街、村までが存在するその層を、プレイヤーたちは武器一本を
ファンタジーMMOでは必須と思われていた《
スキルは
それらの情報が段階的に発表されるたび、ゲーマーたちの熱狂は
わずか千人に限定して募集されたベータテストプレイヤー、つまり正式サービス開始前の
二ヶ月のテスト期間は、まさしく夢まぼろしの
そして今日──二〇二二年十一月六日、日曜日。
午後一時に、満を持して《ソードアート・オンライン》正式サービスが開始された。
当然俺は三十分も前から待ち構え、一秒と遅れずにログインしたし、サーバーステータスを見るかぎりではたちまち接続数が九千五百を超えていたので、
それは、このクラインという男の見事なネットゲーマーぶりにも
SAOにログインし、
初対面でその堂々たる図々しさに思わず感心させられた
正直なところ、俺はゲーム内でも、現実世界と同じかそれ以上に人付き合いが得意ではない。ベータテストの時は、知り合いなら
しかし、このクラインという男は、不思議にこちらの
「さてと……どうする? 勘が
「ったりめえよ! ……と言いてぇとこだけど……」
クラインの
「……そろそろ一度落ちて、メシ食わねぇとなんだよな。ピザの宅配、五時半に指定してっからよ」
「準備
「あ、んで、オレそのあと、
「え……うーん」
俺は思わず
このクラインという男とは自然に付き合えているが、その友達とも同様に仲良くなれるという保証はない。むしろそっちと
「そうだなあ……」
歯切れの悪い俺の返事に、クラインはその理由まで悟ったのだろうか、すぐに首を振った。
「いや、もちろん無理にとは言わねえよ。そのうち、紹介する機会もあるだろうしな」
「……ああ。悪いな、ありがとう」
謝ると、クラインはもう一度ぶんぶんと派手にかぶりを振った。
「おいおい、礼言うのはこっちのほうだぜ! おめぇのおかげですっげえ助かったよ、この礼はそのうちちゃんとすっからな、精神的に」
にかっと笑い、もう一度時計を見る。
「……ほんじゃ、おりゃここで一度落ちるわ。マジ、サンキューな、キリト。これからも
ぐいっと突き出されてきた右手を、
「こっちこそ、宜しくな。また
「おう。
そして俺たちは手を
俺にとって、アインクラッド──あるいはソードアート・オンラインという名の世界が、楽しいだけの《ゲーム》であったのは、正しくこの
クラインが一歩しりぞき、右手の人差し指と中指をまっすぐ
俺も数歩下がって、そこにあった
直後。
「あれっ」
クラインの
「なんだこりゃ。……ログアウトボタンがねぇよ」
その一言に、俺は手を止めて、顔を上げた。
「ボタンがないって……そんなわけないだろ、よく見てみろ」
横長の長方形をしたウインドウには、初期状態では左側に
視線を再び数時間の戦闘で得たアイテムの一覧に戻そうとした俺に、クラインがややボリュームを上げた声を浴びせてきた。
「やっぱどこにもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」
「だから、んなわけないって……」
俺はため息混じりに
右側に開いていた
腕に
そして、ぴたりと全身の動きを止めた。
無かった。
クラインの言葉どおり、ベータテストの時は──いや、今日の午後一時にログインした直後も確かにそこにあったはずのログアウトボタンが、
空白箇所を数秒間まじまじと
「……ねぇだろ?」
「うん、ない」
少々
「ま、今日はゲームの正式サービス初日だかんな。こんなバグも出るだろ。
ノンビリした口調でそう言うクラインに、俺はやや意地悪い
「そんな余裕かましてていいのか? さっき、五時半にピザの配達
「うおっ、そうだった!!」
眼を丸くして飛び上がるその姿に、つい口を
重量過多で赤くなっていたアイテム
「とりあえずお前もGMコールしてみろよ。システム側で落としてくれるかもよ」
「試したけど、反応ねぇんだよ。ああっ、もう五時二十五分じゃん! おいキリトよう、
情けない顔で両手を広げるクラインの言葉に──。
俺は、浮かべていた微笑をふと
「ええと……ログアウトするには……」
この
自分よりかなり高いところにあるクラインの顔を見上げ、俺はゆっくりと首を左右に振った。
「いや……ないよ。自発的ログアウトをするには、メニューを操作する以外の方法はない」
「んなバカな……ぜってぇ何かあるって!」
「戻れ! ログアウト! 脱出!!」
しかし当然何も起こらない。SAOにその手のボイスコマンドは実装されていない。
「クライン、
「でもよ……だって、
くるりと振り向き、
馬鹿げてる。ナンセンスだ。だがそれは確かな事実だ。
「おいおい……
わははは、とやや切迫した
「そうだ、マシンの電源を切りゃいいんだ。それか、頭から《ギア》を引っぺがすか」
見えない帽子を脱ごうとするように額に手を触れさせるクラインに、俺は再びかすかな不安が戻ってくるのを感じながら、静かに言った。
「できないよ、どっちも。俺たちは今、生身の……現実の体を動かせないんだ。《ナーヴギア》が、俺たちの脳から体に向かって出力される命令を、全部ここで……」
指先で後頭部の下、
「……インタラプトして、このアバターを動かす信号に変換してるんだからな」
クラインは押し
俺たちはしばし、黙り込んだままそれぞれの思考を巡らせた。
ナーヴギアは、フルダイブ環境を実現するために、脳から
しかし、まさにその機能ゆえに、今俺たちは自発的にフルダイブを解除できないでいる。
「……じゃあ、結局のとこ、このバグが直るか、向こうで
相変わらず呆然とした口調でクラインが
俺は無言の首肯で同意を示した。
「でも、オレ、一人暮らしだぜ。おめぇは?」
少し迷ったが、素直に答える。
「……母親と、妹と三人。だから、晩飯の時間になっても降りてこなかったら、強制的にダイブ解除されると思うけど……」
「おぉ!? き、キリトの妹さんて
突然眼を
「この状況で余裕だなお前。
無理やり話題を変えるべく、俺は右手を大きく広げた。
「なんか……変だと思わないか」
「そりゃ変だろさ、バグってんだもんよ」
「ただのバグじゃない、《ログアウト不能》なんて今後のゲーム運営にもかかわる大問題だよ。実際こうしている間にも、お前が
「…………冷めたピッツァなんてネバらない納豆以下だぜ…………」
クラインの意味不明な
「この状況なら、運営サイドは何はともあれ一度サーバーを停止させて、プレイヤーを全員強制ログアウトさせるのが当然の
「む、言われてみりゃ確かにな」
ようやく真剣味の増した表情で、クラインがごしっと
もしゲームのアカウントを消去すれば、その
「……SAOの開発運営元の《アーガス》と言やぁ、ユーザー重視な姿勢で名前を売ってきたゲーム会社だろ。その信用があっから、初めてリリースするネットゲームでもあんな争奪戦になったんだ。なのに、初日にこんなでけえポカやっちゃ意味ねぇぜ」
「まったく同意する。それに、SAOはVRMMOってジャンルの先駆けでもあるしな。ここで問題起こしたら、ジャンルそのものが規制されかねないよ」
俺とクラインは、仮想の顔を見合わせ、同時に低く息を
アインクラッドの四季は、現実に準拠している。ゆえに今は向こうと同じく初冬ということになる。
冷たく乾いた仮想の空気を深く吸い込み、肺に仮想の冷気を感じながら、俺は視線を上向けた。
時刻は五時半を回り、細く
直後。
世界はその有りようを、永久に変えた。
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