「ぬおっ……とりゃっ……うひええっ!」

 奇妙な掛け声に合わせてちやちやに振り回された剣先が、すかすかすかっと空気のみを切った。

 直後、巨体のわりに俊敏な動きで剣をかいしてのけた青いイノシシが、こうげきしやに向かって猛烈な突進を見舞った。平らなはなづらに吹っ飛ばされ、草原をころころ転がる有様を見て、おれは思わず笑い声を上げた。

「ははは……、そうじゃないよ。重要なのは初動のモーションだ、クライン」

「ってて……にゃろう」

 毒づきながら立ち上がった攻撃者──パーティーメンバーのクラインは、ちらりと俺を見ると、情けない声を投げ返してきた。

「ンなこと言ったってよぉ、キリト……アイツ動きやがるしよぉ」

 赤みがかった髪を額のバンダナで逆立て、長身そうを簡素なかわよろいに包んだこの男とは、ほんの数時間前に知り合ったばかりだ。仮に本名を名乗り合っていればとても呼び捨てになどできないが、彼の名前クライン、そして俺の名前キリトはこの世界ゲームに参加するにあたって命名したキャラクターネームなので、さんやくんを付けてもむしろこつけいなことになる。

 そのクラインの足元がふらふら揺れているのを見て、少々目を回したかと思った俺は、足元の草むらから左手で小石を拾い上げると肩の上でぴたりと構えた。剣技ソードスキルのファーストモーションをシステムが検出し、小石がほのかなグリーンにかがやく。

 あとは、ほとんど自動的に左手がひらめき、空中に鮮やかな光のラインを引いて飛んだ小石が、再度の突進に入ろうとしていた青イノシシのけんに命中した。ぶきーっ! と怒りの叫びを上げ、イノシシがこちらに向き直る。

「動くのは当たり前だ、訓練用のカカシじゃないんだぞ。でも、ちゃんとモーションを起こしてソードスキルを発動させれば、あとはシステムが技を命中させてくれるよ」

「モーション……モーション……」

 じゆもんのようにり返しつぶやきながら、クラインが右手で握った海賊刀カトラスをひょいひょい振った。

 青イノシシ、正式名《フレンジーボア》はレベル1のモンスターだが、空振りと反撃被弾を繰り返しているあいだにクラインのHPバーは半分近く減ってしまっている。別に死んだところですぐ近くの《はじまりの街》でせいするだけなのだが、もう一度今の狩場まで歩いてくるのは手間だ。このせんとうを引っ張れるのも、あと攻防一回が限度だろう。

 イノシシの突進を右手の剣でブロックしながら、俺はうーんと首をひねった。

「どう言えばいいかなぁ……。一、二、三で構えて振りかぶってるんじゃなくて、初動でほんの少しタメを入れてスキルが立ち上がるのを感じたら、あとはこうズパーン! て打ち込む感じで……」

「ズパーン、てよう」

 あくしゆな柄のバンダナの下で、ごうに整った顔を情けなく崩しながら、クラインはきよくとうを中段に構えた。

 すう、ふー、と深呼吸してから、腰を落とし、右肩にかつぐように剣を持ち上げる。今度こそ規定モーションが検出され、ゆるく弧を描く刃がぎらりとオレンジ色にかがやく。

「りゃあっ!」

 太い掛け声と同時に、これまでとは打って変わったなめらかな動きで左足が地面をった。しゅぎーん! と心地良い効果音がひびき渡り、刃が炎の色の軌跡を宙に描いた。片手用曲刀基本技《リーバー》が、突進に入りかけていた青イノシシの首に見事に命中し、こちらも半減しかけていたHPを吹き飛ばした。

 ぷぎーというあわれなだんまつに続いて巨体がガラスのように砕け散り、おれの目の前に紫色のフォントで加算経験値の数字が浮かび上がった。

「うおっしゃあああ!」

 派手なガッツポーズを決めたクラインが、満面の笑みで振り向き、左手を高く掲げた。ばしんとハイタッチをかわしてから、俺はもう一度笑った。

「初勝利おめでとう。……でも、今のイノシシ、ほかのゲームだとスライム相当だけどな」

「えっ、マジかよ! おりゃてっきり中ボスかなんかだと」

「なわけあるか」

 笑いを苦笑に変えながら、俺は剣を背中のさやに収めた。

 口ではちやしてしまったが、しかしクラインの喜びと感動はよくわかる。これまでのせんとうでは、経験・知識ともにクラインより二ヶ月ぶんも上回る俺だけがモンスターを倒してしまったので、彼はいまようやく自分の剣で敵を粉砕するそうかいかんを味わうことができたのだ。

 おさらいのつもりか、同じソードスキルを何度もり出しては楽しげな奇声を上げているクラインを放っておいて、ぐるりと周囲を見回す。

 四方にひたすら広がる草原は、ほのかに赤みを帯び始めた陽光の下で美しく輝いている。はるか北には森のシルエット、南には湖面のきらめき、東には街の城壁をうすく望むことができる。そして西には、無限に続く空と金色に染まる雲の群れ。

 巨大浮遊城《アインクラッド》第一層のなんたんに存在するスタート地点、《はじまりの街》の西側に広がるフィールドに、俺たちは立っている。周囲では少なからぬ数のプレイヤーが同じようにモンスターと戦っているはずだが、空間の恐るべき広さゆえか視界内に他人の姿はない。

 ようやく満足したか、クラインが剣を腰の鞘に戻しながら近づいてきて、同じようにぐるっと視線を巡らせた。

「しっかしよ……こうして何度見回しても信じられねえな。ここが《ゲームの中》だなんてよう」

「中って言うけど、別にたましいがゲーム世界に吸い込まれたわけじゃないぜ。おれたちの脳が、眼や耳の代わりに直接見たり聞いたりしてるだけだ……《ナーヴギア》が電磁波に乗せて流し込んでくる情報を」

 俺が肩をすくめながら言うと、子供のようにくちびるとがらせる。

「そりゃ、おめぇはもう慣れてるんだろうけどよぉ。おりゃこれが初の《フルダイブ》体験なんだぜ! すっげえよなあ、まったく……マジ、この時代に生きててよかったぜ!!」

「大げさなやつだなあ」

 笑いながらも、内心では俺もまったく同感だった。

《ナーヴギア》。

 それが、このVRMM仮想大規模オンラインRPGロールプレイングゲーム──《ソードアート・オンライン》を動かすゲームハードの名前だ。

 しかしその構造は、前時代の据え置き型マシンとは根本的に異なる。

 平面のモニタ装置と、手で握るコントローラという二つのマンマシン・インタフェースを必要とした旧ハードに対して、ナーヴギアのインタフェースは一つだけだ。頭から顔までをすっぽりとおおう、流線型のヘッドギア。

 その内側には無数の信号素子が埋め込まれ、それらが発生させる多重電界によってギアはユーザーの脳そのものと直接接続する。ユーザーは、己の目や耳ではなく、脳の視覚野やちようかくにダイレクトに与えられる情報を見、聞くのだ。それだけではない。触覚や味覚きゆうかくを加えた、いわゆる五感のすべてにナーヴギアはアクセスできる。

 ヘッドギアを装着しあごしたで固定アームをロックして、開始コマンドである《リンク・スタート》のひと言を唱えたしゆんかん、あらゆるノイズは遠ざかり視界はくらやみに包まれる。その中央から広がるにじいろのリングをくぐれば、そこはもう全てがデジタルデータで構築された別世界だ。

 つまり。

 半年前、二〇二二年五月に発売されたこのマシンは、ついに完全なる《仮想現実バーチヤル・リアリテイ》を実現したと言えるわけだ。開発した大手電子機器メーカーは、ナーヴギアによる仮想空間VRへの接続を、次のように表現した。

ダイブ》、と。

 まさしく完全の名に相応ふさわしい、それは現実とのかんぺきなまでのかくだった。

 なぜなら、ユーザーは、仮想の五感情報を与えられるだけでなく──脳から自分の体に向けて出力される命令をもしやだん・回収されるのだから。

 それは、仮想空間で自由に動くためには必須の機能であると言える。もし現実の体への命令が生きていれば、例えばフルダイブ中のユーザーが、仮想空間内で《走る》という意志を発生させた時、生身の自分もまた同時にダッシュして部屋の壁に激突してしまう。

 ナーヴギアがえんずいで肉体への命令信号を回収し、アバターを動かすためのデジタル信号に変換してくれるからこそ、おれやクラインは仮想の戦場を自在に飛びまわり、剣を振り回せるというわけだ。

 ゲームの中に飛び込む。

 その体験のインパクトは、俺を含む多くのゲーマーを深くりようした。もう二度とタッチペンだのモーションセンサー程度のインタフェースには戻れないと確信してしまうほどに。

 俺は、風になびく草原や、彼方かなたじようへきを見渡して本気で眼をうるうるさせているクラインにたずねた。

「じゃあ、あんたはナーヴギア用のゲーム自体も、この《SAO》が初体験なのか?」

 戦国時代の若武者のようにしく整った顔を俺に向け、クラインは「おう」とうなずいた。

 な表情をすれば、時代劇の主役が張れそうな押し出しの良さだが、しかしこの容姿はもちろん現実の彼そのままの姿ではない。多岐にわたるパラメータを微調整し、ゼロから造り上げた仮想体アバターなのだ。

 当然、俺のほうも気恥ずかしいほどにカッコいい、ファンタジーアニメの主人公然としたようぼうを備えている。

 これも現実とは違うのであろう、張りのある美声でクラインは続けた。

「つーか、むしろSAOが買えたから慌ててハードもそろえたって感じだな。なんたって、初回ロットがたった一万本だからな、我ながらラッキーだよなぁ。……ま、それを言ったら、SAOのベータテストに当選してるおめぇのほうが十倍ラッキーだけどよ。あれは限定千人ぽっちだったからな!」

「ま、まあ、そうなるかな」

 じとっとにらまれ、思わず頭をく。

《ソードアート・オンライン》という名のゲームタイトルが、各メディアに大々的に発表された時のこうふんと熱狂は昨日のことのように覚えている。

 ダイブという新世代のゲーム環境を実現したナーヴギアだが、その機構のざんしんさゆえに、肝心のソフトリリースはぱっとしない物が続いた。どれもがこじんまりとしたパズルや知育、環境系のタイトルばかりで、俺のようなゲーム中毒者アデイクトは大いに不満をつのらせたものだ。

 ナーヴギアは真の仮想世界をつくる。

 なのに、その世界が百メートル歩いたら壁に突き当たるような狭苦しいものでは、本末転倒もいいところではないか。ハードの発売当初こそ、自分がゲームの中に入る、という体験に夢中になった俺やほかのコアゲーマーたちが、すぐにあるジャンルのタイトルを待ち望むようになったのも当然の流れだろう。

 すなわち、ネットワーク対応ゲーム──それも、広大な異世界に数千、数万のプレイヤーが同時接続し、己の分身を育て、戦い、生きる、MMORPGを。

 期待と渇望が限界まで高まったころ、満を持して発表されたのが、VRMMOという世界初のゲームジャンルを冠した《ソードアート・オンライン》だったというわけだ。

 ゲームの舞台は、百にも及ぶ階層を持つ巨大な浮遊城。

 草原やら森やら街、村までが存在するその層を、プレイヤーたちは武器一本をたよりに駆け抜け、上層への通路をみいし、強力な守護モンスターを倒してひたすらに城の頂上を目指す。

 ファンタジーMMOでは必須と思われていた《ほう》の要素は大胆に排除され、代わりに《剣技ソードスキル》という名の言わば必殺技が無限に近い数設定されている。その理由は、己の体、己の剣を実際に動かして戦うというフルダイブ環境を最大限に体感させるためだ。

 スキルはせんとう用以外にも、かわ細工、さいほうといった製造系、釣りや料理、音楽などの日常系まで多岐にわたり、プレイヤーは広大なフィールドを冒険するだけでなく、文字通り《生活》することができる。望み努力すれば、自分専用の家を買い、畑を耕し羊を飼って暮らすことだって可能なのだ。

 それらの情報が段階的に発表されるたび、ゲーマーたちの熱狂はいやおうなく高まっていった。

 わずか千人に限定して募集されたベータテストプレイヤー、つまり正式サービス開始前のどう試験参加者の枠には、当時のナーヴギア総販売台数の半分にも迫る十万人の応募が殺到したという。おれがその狭き門をかいくぐって当選したのは、ぎようこう以外の何物でもあるまい。しかも、ベータテスターにはその後の正式版パッケージの優先購入権がプレゼントされるというオマケまで付いていたのだ。

 二ヶ月のテスト期間は、まさしく夢まぼろしのごとき日々だった。俺は学校にいる間もひたすらにスキル構成やら装備アイテムについて考え続け、授業が終わるや家に飛んで帰って明け方近くまでダイブしっぱなしだった。あっというまにベータテストが終わり、育てたキャラクターがリセットされた日には、まるで己の半身を奪われるようなそうしつかんをおぼえたものだ。

 そして今日──二〇二二年十一月六日、日曜日。

 午後一時に、満を持して《ソードアート・オンライン》正式サービスが開始された。

 当然俺は三十分も前から待ち構え、一秒と遅れずにログインしたし、サーバーステータスを見るかぎりではたちまち接続数が九千五百を超えていたので、ほかの幸運な購入者たちも同様だったのだろう。大手の通販サイトはどこも軒並み数秒で初回入荷分が完売したらしいし、昨日の店頭販売分も三日も前からてつ行列ができてニュースにまでなっていたので、つまりはパッケージを買えた人間はほぼ百パーセント、重度のネットゲーム中毒者なのだ。

 それは、このクラインという男の見事なネットゲーマーぶりにもによじつに現れている。

 SAOにログインし、なつかしい《はじまりの街》のいしだたみを再びんだ俺は、入り組んだ裏道にあるお徳な安売り武器屋に駆けつけようとした。その迷いのないダッシュぶりから、こいつはベータ経験者だと見当をつけたのだろう。クラインは俺を呼び止めるや、「ちょいと引率レクチヤーしてくれよ!」とたのみ込んできたのだ。

 初対面でその堂々たる図々しさに思わず感心させられたおれは、「は、はあ。じゃあ……武器屋行く?」などと街案内NPCのごとき対応をしてしまい、なし崩し的にパーティーを組み、フィールドでせんとうの手ほどきまですることになって、こうして現在に至る──というわけだ。

 正直なところ、俺はゲーム内でも、現実世界と同じかそれ以上に人付き合いが得意ではない。ベータテストの時は、知り合いならたくさんできたが友達と呼べるような相手はついに一人も作れなかった。

 しかし、このクラインという男は、不思議にこちらのふところすべり込んでくるようなところがあり、しかも俺はそれが不快ではなかった。ことによると、こいつとなら長く付き合えるかも、と思いながら、俺は再び口を開いた。

「さてと……どうする? 勘がつかめるまで、もう少し狩り続けるか?」

「ったりめえよ! ……と言いてぇとこだけど……」

 クラインのたんせいな目元がちらっと右方向に動いた。視界のはしに表示されている現在時刻を確認したのだ。

「……そろそろ一度落ちて、メシ食わねぇとなんだよな。ピザの宅配、五時半に指定してっからよ」

「準備ばんたんだなぁ」

 あきれ声を出す俺に、おうよと胸を張り、クラインは思いついたように続けた。

「あ、んで、オレそのあと、ほかのゲームで知り合いだったやつらと《はじまりの街》で落ち合う約束してるんだよな。どうだ、紹介すっから、あいつらともフレンド登録しねえか? いつでもメッセージ飛ばせて便利だしよ」

「え……うーん」

 俺は思わずくちごもった。

 このクラインという男とは自然に付き合えているが、その友達とも同様に仲良くなれるという保証はない。むしろそっちとくやれずにクラインとも気まずくなってしまうという結果のほうがありそうな気がする。

「そうだなあ……」

 歯切れの悪い俺の返事に、クラインはその理由まで悟ったのだろうか、すぐに首を振った。

「いや、もちろん無理にとは言わねえよ。そのうち、紹介する機会もあるだろうしな」

「……ああ。悪いな、ありがとう」

 謝ると、クラインはもう一度ぶんぶんと派手にかぶりを振った。

「おいおい、礼言うのはこっちのほうだぜ! おめぇのおかげですっげえ助かったよ、この礼はそのうちちゃんとすっからな、精神的に」

 にかっと笑い、もう一度時計を見る。

「……ほんじゃ、おりゃここで一度落ちるわ。マジ、サンキューな、キリト。これからもよろしくたのむぜ」

 ぐいっと突き出されてきた右手を、おれは、きっとこの男は《ほかのゲーム》ではいいリーダーだったんだろうな、と思いながら握り返した。

「こっちこそ、宜しくな。またきたいことがあったら、いつでも呼んでくれよ」

「おう。たよりにしてるぜ」

 そして俺たちは手をはなした。


 俺にとって、アインクラッド──あるいはソードアート・オンラインという名の世界が、楽しいだけの《ゲーム》であったのは、正しくこのしゆんかんまでだった。


 クラインが一歩しりぞき、右手の人差し指と中指をまっすぐそろえて掲げ、真下に振った。ゲームの《メインメニュー・ウインドウ》を呼び出すアクションだ。たちまち、鈴を鳴らすような効果音とともに紫色に発光する半透明のけいが現れる。

 俺も数歩下がって、そこにあったごろな岩に腰掛け、ウインドウを開いた。これまでのイノシシ相手のせんとうでドロップした戦利品アイテムを整理しようと、指を動かしかける。

 直後。

「あれっ」

 クラインのとんきような声がひびいた。

「なんだこりゃ。……

 その一言に、俺は手を止めて、顔を上げた。

「ボタンがないって……そんなわけないだろ、よく見てみろ」

 あきれ声でそう言うと、長身のきよくとう使いは、あくしゆなバンダナの下の目をいて顔を手元に近づけた。

 横長の長方形をしたウインドウには、初期状態では左側にいくつものメニュータブが並び、右側には自分のアイテム装備状況を示す人型のシルエットが表示される。そのメニューの一番下に、《LOG OUT》──つまりこの世界からのだつを命じるボタンが存在する、はずだ。

 視線を再び数時間の戦闘で得たアイテムの一覧に戻そうとした俺に、クラインがややボリュームを上げた声を浴びせてきた。

「やっぱどこにもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」

「だから、んなわけないって……」

 俺はため息混じりにつぶやき、自分のウインドウの左上、トップメニューに戻るためのボタンをたたいた。

 右側に開いていたなめらかに閉じ、ウインドウが初期状態へと戻る。まだ空白箇所の多い装備フィギュアが浮き上がり、左にメニュータブがぎっしりと並ぶ。

 腕にみ付いた動作で、おれはその一番下に指先をすべらせ──。

 そして、ぴたりと全身の動きを止めた。

 無かった。

 クラインの言葉どおり、ベータテストの時は──いや、今日の午後一時にログインした直後も確かにそこにあったはずのログアウトボタンが、れいに消滅していた。

 空白箇所を数秒間まじまじとぎようし、もう一度メニュータブを上からゆっくり眺め、ボタンの位置が変更になったわけではないことを確認してから、俺は視線を上げた。クラインの顔が、な? というふうに傾けられた。

「……ねぇだろ?」

「うん、ない」

 少々しやくだったが素直にうなずいてやると、きよくとう使いはにまっとほおり上げ、たくましいあごでた。

「ま、今日はゲームの正式サービス初日だかんな。こんなバグも出るだろ。いまごろGMゲームマスターコールが殺到して、運営は半泣きだろなぁ」

 ノンビリした口調でそう言うクラインに、俺はやや意地悪いこわで突っ込みを入れた。

「そんな余裕かましてていいのか? さっき、五時半にピザの配達たのんであるとか言ってなかったか」

「うおっ、そうだった!!」

 眼を丸くして飛び上がるその姿に、つい口をゆるめてしまう。

 重量過多で赤くなっていたアイテムらんの不用品をデリートし、整理を終えた俺は立ち上がり、やべえオレ様のアンチョビピッツァとジンジャーエールがぁーとわめいているクラインのそばに歩み寄った。

「とりあえずお前もGMコールしてみろよ。システム側で落としてくれるかもよ」

「試したけど、反応ねぇんだよ。ああっ、もう五時二十五分じゃん! おいキリトよう、ほかにログアウトする方法って何かなかったっけ?」

 情けない顔で両手を広げるクラインの言葉に──。

 俺は、浮かべていた微笑をふとこわらせた。理由のない不安のようなものが、ひやりと背中を撫でた気がしたからだ。

「ええと……ログアウトするには……」

 つぶやきながら考える。

 この仮想世界ゲームからだつし、現実世界の自分の部屋に戻るためには、メインウインドウを開き、ログアウトボタンに触れ、右側に浮かぶ確認ダイアログのイエスボタンを押すだけでいい。実に簡単だ。しかし──同時に、それ以外の方法を、俺は知らない。

 自分よりかなり高いところにあるクラインの顔を見上げ、俺はゆっくりと首を左右に振った。

「いや……ないよ。自発的ログアウトをするには、メニューを操作する以外の方法はない」

「んなバカな……ぜってぇ何かあるって!」

 おれの回答を拒否するかのようにわめき、クラインは突然大声を出した。

「戻れ! ログアウト! 脱出!!」

 しかし当然何も起こらない。SAOにその手のボイスコマンドは実装されていない。

 なおもあれこれ唱え、しまいにはぴょんぴょんジャンプまで始めたクラインに、俺は押し殺した声で呼びかけた。

「クライン、だ。マニュアルにも、その手のきんきゆう切断方法は一切載ってなかった」

「でもよ……だって、鹿げてるだろ! いくらバグったって、自分の部屋に……自分の体に、自分の意志で戻れないなんてよ!」

 くるりと振り向き、ぼうぜんとした顔でクラインが叫んだ。それには、俺もまったく同感だった。

 馬鹿げてる。ナンセンスだ。だがそれは確かな事実だ。

「おいおい……うそだろ、信じられねぇよ。今、ゲームから出られないんだぜ、オレたち!」

 わははは、とやや切迫したひびきのある笑い声を上げ、クラインは早口で続けた。

「そうだ、マシンの電源を切りゃいいんだ。それか、頭から《ギア》を引っぺがすか」

 見えない帽子を脱ごうとするように額に手を触れさせるクラインに、俺は再びかすかな不安が戻ってくるのを感じながら、静かに言った。

「できないよ、どっちも。俺たちは今、生身の……現実の体を動かせないんだ。《ナーヴギア》が、俺たちの脳から体に向かって出力される命令を、全部ここで……」

 指先で後頭部の下、えんずいをとんとたたく。

「……インタラプトして、このアバターを動かす信号に変換してるんだからな」

 クラインは押しだまり、のろのろと手を下ろした。

 俺たちはしばし、黙り込んだままそれぞれの思考を巡らせた。

 ナーヴギアは、フルダイブ環境を実現するために、脳からせきずいへ伝わり体を動かす命令信号を完全にキャンセルし、かわりにこの世界の体を動かす信号へと変換する。ここでどれほど派手に手を振り回そうと、現実世界で自室のベッドに横たわっている俺の本物の腕はぴくりとも動かず、ゆえに机の角にぶつけてアザを作ったりせずに済む。

 しかし、まさにその機能ゆえに、今俺たちは自発的にフルダイブを解除できないでいる。

「……じゃあ、結局のとこ、このバグが直るか、向こうでだれかが頭からギアを外してくれるまで待つしかねぇってことかよ」

 相変わらず呆然とした口調でクラインがつぶやいた。

 俺は無言の首肯で同意を示した。

「でも、オレ、一人暮らしだぜ。おめぇは?」

 少し迷ったが、素直に答える。

「……母親と、妹と三人。だから、晩飯の時間になっても降りてこなかったら、強制的にダイブ解除されると思うけど……」

「おぉ!? き、キリトの妹さんていくつ?」

 突然眼をかがやかせ、身を乗り出してくるクラインの頭をおれはぐいっと押し戻した。

「この状況で余裕だなお前。あいつ、運動部だしゲームだいきらいだし、俺らみたいな人種とは接点かいだよ。……んなことよりさ」

 無理やり話題を変えるべく、俺は右手を大きく広げた。

「なんか……変だと思わないか」

「そりゃ変だろさ、バグってんだもんよ」

「ただのバグじゃない、《ログアウト不能》なんて今後のゲーム運営にもかかわる大問題だよ。実際こうしている間にも、お前がたのんだピザは刻一刻と冷めていきつつあるわけだし、それは現実世界での金銭的損害だろ?」

「…………冷めたピッツァなんてネバらない納豆以下だぜ…………」

 クラインの意味不明なうめき声をもくさつし、俺は言葉を続ける。

「この状況なら、運営サイドは何はともあれ一度サーバーを停止させて、プレイヤーを全員強制ログアウトさせるのが当然のだ。なのに……俺たちがバグに気付いてからでさえもう十五分はってるのに、切断されるどころか、運営のアナウンスすらないのは奇妙すぎる」

「む、言われてみりゃ確かにな」

 ようやく真剣味の増した表情で、クラインがごしっとあごこすった。高いりように押し上げられたバンダナの陰で、切れ長の眼が鋭く光る。

 もしゲームのアカウントを消去すれば、そのしゆんかん二度と会うこともない、インスタンスな関係の相手と現実世界の話をしていることに奇妙な違和感を抱きながら、俺はクラインの言葉の続きに耳を傾けた。

「……SAOの開発運営元の《アーガス》と言やぁ、ユーザー重視な姿勢で名前を売ってきたゲーム会社だろ。その信用があっから、初めてリリースするネットゲームでもあんな争奪戦になったんだ。なのに、初日にこんなでけえポカやっちゃ意味ねぇぜ」

「まったく同意する。それに、SAOはVRMMOってジャンルの先駆けでもあるしな。ここで問題起こしたら、ジャンルそのものが規制されかねないよ」

 俺とクラインは、仮想の顔を見合わせ、同時に低く息をいた。

 アインクラッドの四季は、現実に準拠している。ゆえに今は向こうと同じく初冬ということになる。

 冷たく乾いた仮想の空気を深く吸い込み、肺に仮想の冷気を感じながら、俺は視線を上向けた。

 はるか百メートル上空には、第二層の底部がうすむらさきいろにかすんでいる。そのごつごつした平面を目で追うと、ずっと彼方かなたに巨大な塔──上層への通路となる《迷宮区》がそびえ、さらに最外周の開口部へとつながっているのが見てとれる。

 時刻は五時半を回り、細くのぞく空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。差し込む夕陽が、広大な草原を黄金色にかがやかせ、おれは異常な状況にもかかわらず、仮想世界の美しさに言葉を失った。


 直後。

 世界はその有りようを、永久に変えた。

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