星々の中へ
燈栄二
1-1
星空を見上げたことはあるだろうか。どこまでも続く濃紺のキャンバスの上に赤や白の星々が佇んでいる。吸い込まれてしまいそうな絵の中に、辿り着きたいと思ったことはあるだろうか。
少なくとも、私はずっと夜空の先を目指していた。そして、幾星霜の年月を経た今、私の目標は達成された。
「こちら火星基地ネオヴィクトリア、アレックス、状況は?」
耳に装着している脳波受信装置が私の脳に言葉を送り込む。昨今の宇宙活動ではこうした通信手段も珍しくはない。
「こちらアレックス。身体機能に問題はなし。前方に冥王星が見えます」
遠い昔に青く染めた髪が視界の隅で揺れる。目の前、といってもまだかなり距離があるのだろうが、冥王星が迫っていた。
現在の進路ならば冥王星の重力圏に巻き込まれることはない。このまま太陽系を抜けてオールトの雲まで到達できれば今回の探索は終了される。火星基地での生活も嫌いではないが、この空間から去らなければならないのはとても寂しい。
どこまでも続く無音と暗闇、重力から離れたことによる重さからの解放感。現段階では私だけが感じることの出来る全ての感覚を、永遠に味わっていたいと思ってしまうのだ。
しかしながら沈黙の時間も、簡単に破られてしまう。
「アレックス、君の方へ異物が接近している。衝突まであと三〇〇分。恐らくオールトの雲へ向かった無人探査機の破片だ。ステルス装備が施されていて接近に気付けなかったこと、申し訳ない」
「回避行動に移る。指示を出してくれ」
一九六三年から、人類は何度も宇宙を目指している。その中で宇宙に取り残されるものがあること自体は珍しくない。
問題は、宇宙空間を移動する際に衝突の可能性があることだ。この問題が原因となって、宇宙船での調査は回数が減らされ、スペースデブリとの衝突可能性が低い、私が選ばれている。
「軌道から予測するに、その場で待機をすれば通過していく。それからはこちらの軌道を邪魔することもないだろう。悪いが、次に指示があるまでそこで静止してくれ」
脚をわずかに動かしながら、なるべく前進と後退を小さく繰り返す。実は宇宙空間において静止が一番難しい。
ただ宇宙空間を漂っているだけでは少しずつ母星へ引っ張られてしまう。そのためわずかに前進し続けなければならないが、前へ前へと行き過ぎれば、スペースデブリと衝突だ。
遥か遠方から探査機の末路が近くを通り過ぎるというのに、宇宙は何も語らない。常に冷静。マイナス二七〇度と冷えきっているからだろうか。
今この瞬間にも体は冷え切り、様々な有害物質が体内を破壊しているのだろう。私の再生機能が経験したことのなかった損傷。
はじめは再生まで苦痛に苛まれたが、今では損傷すると瞬時に体が再生してくれる。つまり、私の体は常に再生し続けることで人の形を保っていることになる。
それが理由だ。生身で宇宙空間を放浪できる。服装は赤いつなぎ、火星基地の制服だ。人間のように様々な工夫が施された高額な宇宙服をまとう必要性はない。基地からするとかなり節約になっているはず。
「スペースデブリ通過を確認。指定ルート通りに進行」
どれほどの時間が経っただろうか。脳の中に指示が送り込まれる。私は短く返事をし、重力という網にかからないよう、海を泳ぐ魚のように前へと再び進みだす。やはり何も聞こえない。
耳という機関を落としてしまったのではないかと錯覚してしまうくらい。だが、今回はすぐにノイズが脳に響く。
「長期間の任務は孤独を増長させるだろう。交代で基地の俺たちが話すこともできるが、どうする?」
「何度も言っている通り、俺は五感で宇宙を楽しんでいる。必要な連絡以外はよしてくれ」
脳波による通信が切られた。基地では私の同僚が化物の考えることは分からない、とでも悪態をついているに違いない。
それで良い。私の目的はあくまでも少年の頃から見上げ続けていた夜空の正体をもっと近くで見ること、人間はどこまでこの海を渡れるのかにある。
冥王星が次第に大きくなってくる。我々の故郷、地球の衛星である月と同程度とはいえ、近くで見れば十分大きい。太陽系唯一の外縁天体の左側を通り過ぎれば、外側にもう惑星はない。そんな時期だ。
まだ宇宙は孤独にならない。冥王星を抜けると岩石や氷の天体群、カイパーベルトが私を迎え入れてくれる。周囲は相変わらず冷たいままだが、カイパーベルトを抜ければオールトの雲到達まで一週間を切る。
一体時速何キロメートルで進んでいるのだろうか。人間の肉体ならとうに潰れてしまっている。それだけは確かな速度だ。
「カイパーベルトに突入した。アレックス、天体の重力圏に引き込まれないよう注意して進め」
脳波通信により聞こえる声が変わる。先ほどの同僚は休憩に入ったらしい。彼の名は何だったか……そもそも覚えていないだろう。なので考えるのはやめておく。
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