第3話 リューグ=ランド・ベルネルトホルン①

 冷えた指先を擦りながら自室へと戻ってきた皇太子殿下を、彼に先んじて部屋の中を確認していた近衛騎士団長が一礼して迎え入れます。

 山に近いこの別邸から国境への距離はそう遠いものではありませんが、冬場に山間部の森を馬で駆け抜けるのは流石の皇太子でも大層冷えたのか指先にふぅと息を吐きかけていました。

 ユルグフェラー帝国とビナギア王国の間にある砦城の裏にある王族用の別邸。その一部屋は皇太子が戻る前に十分にあたためられ、誰も皇太子の邪魔が出来ないようにと先に部屋に控えているのは彼と付き合いの長い貞淑な侍女長だけでした。

 真っ赤な瞳で侍女長と専属のメイド、そして騎士団長だけが部屋に居るのを確認した皇太子は、メイドを近くに呼び寄せると自ら漆黒の鎧のベルトを外し始めます。

 メイドは彼の外した赤い房付きの兜を受け取ると、大事に大事に、用意してあった台座に綺麗に整えて乗せていきます。

 その間に、皇太子の手が徐々に震え始めているのには一切目をやろうとはしません。メイドの仕事は、あくまでも皇太子のお世話と、今は鎧を綺麗に整える事だけだからです。

 しかし、ノロノロとボディアーマーを外し、またノロノロと篭手を外し始めた皇太子を見た近衛騎士団長は自らもまた雪で濡れているというのにため息を吐いてから彼を手伝うためにそっと近くに寄って肩当てを簡単に取り去ってくれました。

 このままでは、皇太子が鎧を全て脱ぐのには一晩かかると、そう判断したためです。

 何しろこの時皇太子は……


「こ……こわかったぁあぁあぁぁぁ……………っ!」


 真っ赤な瞳をうるうるとさせて冷えた鼻を真っ赤にしながら、べしょべしょに泣いていたのですから。

「よく今まで保たせましたわね、シグルド団長?」

「ギリギリでした。危うく隣国の姫君に情けない姿を見せてしまう所でしたよ」

「リューグ様、よく頑張りましたです!」

 目をぎゅーっと閉じてメソメソ泣きながらも慣れた手つきで腰に佩いていた剣を外して騎士団長に渡した皇太子は、メイドには危なくない懐刀と篭手を預けました。

 侍女長はちょっぴり困った顔をしながら奥の扉を開いて準備が整った浴室の湯気を部屋に入れ、扉の脇にあったベルをカラコロと鳴らします。

 すると、白髪頭の執事長があまーいミルクティの乗ったトレーを持ってやって来てくれました。

「リューグ殿下。お見事でしたぞ」

「あのおんな……あのおんな……死体の顔見てたんだぞ……! ち、ちちちちちぎれたくびとか……! 全部!」

「お陰様で姫君たちを追っていたものたちの一覧が出来上がったのですよ殿下」

「おぉお労しやリューグ殿下。ミルクティにお砂糖も入れて差し上げましょう」

「執事長甘やかしすぎです~!」

 そう、このリューグ=ランド・ベルネルトホルン。ユルグフェラー帝国の第二皇子にして皇太子という地位にあるこの黒髪の若者は、何を隠そうめちゃくちゃに臆病で、めちゃくちゃに泣き虫な若者でありました。

 本当は剣を持つのも危なくて嫌だし、ほっそりした腕のメイドのヨルンにその剣を渡すなんてとんでもない事だと思っています。同じように鎧だって本当は一人で脱ぎたいのですが、侍女長のエルベラに散々に叱られてからは出来るだけ彼女たちに脱ぐのを手伝ってもらうようになりました。

 だって、エルベラはリューグ皇子の乳母であった方でもありますからとんでもなく怖いのです。

 リューグ皇子が廊下でちょっと走ったら「こらっ」と言われますし、うっかり薔薇を一本許可なく摘むだけでも「めっ!」と叱られてしまうのです。自分を産んで亡くなった母のかわりに自分を育ててくれた乳母のお叱りは、きっとリューグ皇子にとっては世界で一番怖いもので間違いがないでしょう。

 それに並んで怖いのは、ソファに座り込んでめそめそと泣いている皇子に毛布を巻き付けてから脛当てをせっせと外しているこの騎士団長です。

 騎士団長は皇子よりも年下の若者ですが、遠く皇族の血を引いている事とその剣の腕を見込まれて皇子の遊び相手として共に育ち、近衛騎士として身を立てた人物です。

 そんな兄弟と言っても差し障りのない人ですから、勿論戦場でも皇子にたいして容赦はありません。

 近衛騎士団長・シグルドは「泣かない!」「洟が垂れています!」「背筋を伸ばして!」「顔を隠さない!」と、いつもいつもうるさいのです。リューグ皇子は子どもに泣かれてしまうこの目付きの悪い自分の目は大嫌いですし、笑うのも苦手なので凱旋パレードなんか毎回赤い房付兜をつけたまま顔を隠して進みます。

 だって、一度凱旋パレードを顔を出したまま進んだら子どもは泣き出すしどこからともなく現れた暗殺者に唯一肌が出ていた顔を狙われるしで散々だったのです。あれ以来、皇子は凱旋パレードも大嫌いで、パレード中はいつも小さく震えてしまうものですから、出来れば影武者でも立てて裏からこっそり戻りたいくらいです。

 しかしシグルドに言わせれば黒い鎧を着せて威風堂々と魔物退治から凱旋する黒衣の騎士であり皇太子であるリューグ=ランド・ベルネルトホルンの姿はある種ユルグフェラーの象徴であり、皇太子としての威厳を見せるためには絶対に必要なことだと彼は譲りません。

 当のリューグ皇子本人はこんなに泣き虫で怖がりですので、外見からのイメージは大間違いだ! と叫び出したいくらいなのですが、勿論そんなことは出来ません。

 人前で大声を出すなんてとんでもはしたないし、そもそも慣れた人の前に出ていると皇子は顔の筋肉が引きつってただでさえつり上がった目が更につり上がり、笑顔なんか浮かべようにも浮かべることが出来なくなってしまうのです。

 そんな皇子が今こうやってメソメソ泣けるのは育ての母であるエルベラとその娘のヨルン、エルベラと共に自分に礼儀を叩き込んでくれた母の専属執事だったハンネス、そしてシグルドの前でだけですので、みんながある程度許してくれているのは皇子もわかってはいるのです。

 しかし彼は皇太子。いずれこの帝国全土を治める皇帝となることが決まっている人物でありますから、いつまでもメソメソしていてはいけない――というのは、彼も理屈では分かっているのです。

 わかっているのですが、流石の皇太子殿下も今日のことには参ってしまいました。

 皇子は魔物の討伐にはようやく慣れたのです。

 魔物はフカフカだったりふわふわだったりする者が多くて可哀想だったり、ひとつしか目がなかったり爪が凄かったりで怖かったりしたものですが、それでも彼らを倒さなければ故郷が蹂躙されるばかりなので彼らに対して剣を振るうことには10年かけてなんとか慣れたばっかりでした。

 しかし今回は、緊急の援軍要請といえど相手は人間。

 帝国に反旗を翻し自国の姫すらも殺そうとした者たちであり、皇帝直々に「殺すのも已む無し」と言われてはいたものの相手は人間。

 自分と変わらぬ人間を斬り捨てたり殺したりなんて、皇子にとってはそれはそれは恐ろしいものでした。

 皇子は、諸外国からは血も涙もない悪魔のような男だと思われています。それは知っているのです。

 だって、童話や最近人気の印刷小説なんかでは自分のような外見の悪いの皇帝だとか魔王だとかが姫君を攫ったり国を燃やしたりやりたい放題ですから、自分だってそう思われても仕方がないというのはわかっているつもりです。

 しかし皇子はこれでも臆病で泣き虫で人見知りで言ってしまえばチキンです。

 その皇子が姫を助けに入り騎士を一刀両断出来たのは「助けなければ」という気持ちが先に立ったからであり、「殺そう」と思ったからではないことを、一緒に出撃したシグルドは分かっています。

 正直に言えば、今日助けたあの可憐な姫君の方がリューグ皇子よりもずっと雄々しく堂々としていて立派な立ち姿でした。

 泥に塗れようとも、裸足だろうと、威風堂々と自分よりも背の大きな男の前に立ち、自分よりも地位の高い者を前にしても竦まずにいたその姿はまさに王族と言った風情で――この皇太子と中身交換してくれないかなと、シグルドは思いました。

 ちょっとだけ。

 ほんのちょっぴりだけですが。


「ほら殿下、早く風呂に入って下さい。明日は姫君たちと朝食をとっていただかないと」

「い、いやだぁぁ……」


 少なくとも「初めて会った人と朝食」と聞いただけでヒンッと泣き出してしまうような皇太子が人前ではそうは見えないのだけは幸いですし、少しばかり邪悪に見える外見もその一助となっているのできちんと整えていただきたい。

 シグルドはそんな事を願いながら、毛布に包まっている皇太子を容赦なくバスルームへと押し込みました。

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