第9話

 カーテンの隙間から光が差してきて、重たいまぶたがゆっくりと持ち上がる。

 ぐっすり、とまではいかないけど、一晩経ったおかげか気分自体はそこまで悪くない。

 まだ自分の気持ちに整理をしなきゃならない事は山積みではある。

 それでも今日は恋人である羊子ちゃんとの勉強会だ。


 私の中で昨日の事を羊子ちゃんに話すべきか話さないべきか、ずっと悩んでいる。

 謝って許される事ではないけど、永遠とわにキスされたのはある意味で事故のようなもので、羊子ちゃんの事が好きなのは変わらない。


 昨夜は夕食を食べずに寝たから朝は空腹だった。

 私は手軽に食パンにマーマレードジャムを塗って一枚食パンを食べておく。空腹だけどそれ以上は食べられる気がしなかった。

 

 朝食を食べて歯を磨いて着替え始める。オーバーサイズの裾がアシメントリーの白黒のTシャツとピタッとしたスキニーパンツ、そして薄いブルーのキャップを被った。

 鞄の中に約束の一年生の時の学期末テストの答案用紙がちゃんと入っているか確認して家を出る。


 スマホの充電はしっかりある。通知はミサちゃんと羊子ちゃんだけ。

 

 ……永遠からはない。


 まずはミサちゃんに連絡が遅くなった事を謝罪して永遠に手紙を渡した事を報告した。次に羊子ちゃんにこれから駅に向かう事を告げる。


 ミサちゃんからありがとうのスタンプが来て、羊子ちゃんからは「最寄り駅に着いたら迎えに行きますね」と、連絡が来ていた。

 ミサちゃんには既読で返し、羊子ちゃんにはOKのスタンプを返して、羊子ちゃんからの既読を待たずにスマホをポケットにしまう。


 今はこの箱型の便利ツールの存在さえ嫌だ。余計な事を考えてしまう。

 私は電車に乗るとキャップを目深く被り直す。誰にも顔を見られたくなかった。


 私は私自身が永遠にどうしてほしいのか分からない。……永遠に関してどうしたいのかも分からない。

 永遠に謝って欲しい訳じゃない。

 ただもう前の関係に戻れないかもしれない事だけが辛くて悲しくて悔しい。……のかもしれない。

 全部、自分の事なのに、何も答えは出ないまま。


「悠センパイっ!」


 改札を出るとすぐに羊子ちゃんが私に飛び付いて来る。


 羊子ちゃんは可愛い。

 夏らしい小花柄のフリル付きのオフショルダー。白いレースのふんわりしたスカートにペッタンコなパンプス。首元にはシンプルなタイプの黒のチョーカー。

 ふわふわした髪は横に流して編み込んで、頭にはカンカン帽。


 動きやすさだけを考えてしまう私とは大違いの可愛さだった。


「羊子ちゃん」


 私は飛び付いてきた羊子ちゃんをギュッと抱きしめ返す。柔らかくて、私の腕の中にすっぽりと入るこじんまりとした体。

 羊子ちゃんから香るバニラの香り。そのどれもが愛しくて、そして罪悪感が増した。


「センパイ、会いたかった。早くあたしの家に行きましょ?」

「そうだね」


 本当だったら嬉しくて飛び上がってしまうくらいなのに今日は違う。

 嬉しそうな羊子ちゃん。可愛い羊子ちゃん。

 実際に顔を見たら後ろめたくて悲しくて、もう無理だって思った。


「羊子ちゃん……」

「ん? なんですか?」

「…………ううん、なんでもない」

「ふふ、変なセンパイ」


 正直に昨日の事を話したいのに、喉がつっかえて上手く言葉が出せない。

 それは羊子ちゃんの家に着いた時も勉強会を始めた時も同じだった。


 私が渡した一年生の時の答案は喜んで貰えたし、羊子ちゃんが勉強で詰まってるところは私でもきちんと解説出来た。

 羊子ちゃんが嬉しそうな顔をする度に、チクチクと針で刺されるような痛みが増す。


 お昼に羊子ちゃんが作ってくれたパスタも多分美味しいんだけど、とてもじゃないけど味が分からなかった。それぐらいに追い詰められていて。


 羊子ちゃんが床のクッションに座る私の手に指を絡めて顔を寄せてキスをしようとして来た。

 私は思わず羊子ちゃんの肩を掴んで引き剥がす。もう泣きそうだ。


 私は驚いている羊子ちゃんに、昨日の永遠との出来事を洗いざらい喋ってぶちまけて土下座していた。


「そう、ですか。一色いっしきセンパイと……」

「本当に、本当に、ごめん! 自分でもあんな事になるなんて思ってなくて……!」

「確かにショックではあるんですけど」


 羊子ちゃんは頭を床に付けたままの私の顔をそっとあげさせると私を抱きしめる。


「センパイが好きなのはあたしって事は変わらないんですよね?」

「え、う、うん……」

「じゃあ、許します。一色センパイの事は正直ムカつきますけど、こうやってあたしの事を好きでいてくれて今日正直に話してくれて本当に悠センパイって」


 私の耳元に羊子ちゃんが唇を寄せた。


「イイ子」


 吐息混じりに囁かれた言葉に体の奥がズンと熱くなる。頭の中がぼんやりして羊子ちゃんの事しか考えられなくなってしまった。

 体を少し離した羊子ちゃんが私にそっと唇を重ねる。


 キスをされて前みたいに『イイ子』って言われて、何故だか私の瞳からちょっとだけ涙が落ちる。羊子ちゃんは私の涙をついばむと「しょっぱい」って言って微笑んだ。

 羊子ちゃんのその表情や仕草に、私は羊子ちゃんの彼女でいていいって羊子ちゃんの特別なんだって言う安堵に酔いしれる。


 羊子ちゃんのキスがどんどん深くなる。ついばむようなキスは舌を絡める熱いキスに変化していった。

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