褪紅の比翼と甜語花言|短編

景岡佳

紅の降る春暁、花婿の一瞥



褪紅に色づいた小さな花弁たちは、雲ひとつ無い薄花色の空を背景に、ひらひらと軽やかに、そして無限に舞い降りる。顔を見せて間もない日の姿をした円形は、その身を朱色に染めながらも周りの色をやや青白いものへと変貌させている。花を満開に咲かせた見事な桜の木が立ち並ぶその絶景、それを眺めるかのように回廊の角に身を置く姿を、醜女は悲哀の情をもって捉えた。

永遠の春と静寂が存在するこの世界で、彼が望むのは孤独であろうか。しかし例えそうでなかったとしても、静寂と甘い花の景色に背を向けたらば、そこには醜悪な妖しき獣が手招きをしている残酷な世界があるだけなのだ。そしてその醜悪な獣というのは、自分もまた同じ。

二人の間には沈黙が流れ続けている。対話はまだ始まっていない。醜女は前方に佇む男の後方から数米先の、丁度影が差し始めるところに立ち、その光の方を向く男を真っ直ぐ見つめていた。長くも、短くも感じられるような時間が経ち、醜女はその人物の首が僅かに横へズラされる仕草を確認する。女はその場で跪き、震えも掠りもない澄んだ低い声を届かせた。




「______ 仲妻様」



女の声を受け取ると、男の首は再び前方へと戻される。まるで氷が溶け流水へと変化したかの様に、先程まで空間を覆っていた張り詰めるような沈黙は、流れるように柔らかな、しかし決して生温くはない雰囲気へと変わっているのが分かった。醜女は再び丁寧に言葉を紡ぐ。



「暫しお時間を頂きたく存じます。

どうかこの哀れな老婆に、一瞥いただけないでしょうか。」



鶯の細い歌声が、静寂の朝の空に儚くも強く響く。相手の返答を待つ間、柔らかな空気は波打つようにして再び氷のように冷たいものへと変わり始める。

男は振り返ることなく、薄花色の春暁の景色に向かったまま、溜息混じりの返事を口にした。



「なんや、水臭いどすなあ。」



それは繊細な抑揚を生んでいながらも、どこか淡々とした声色であった。男は醜女の言葉がやや気に障っていた。目の前の男の身の上を理解した上で、自らを“哀れな”などと形容するなんて。なかなか口が達者な御方だと、冗談めかしたように言いたくなる欲を流すように忘れた。



「お時間いただくも何も、どうせ明日の花宴までは暇しとるよ。」



その思ん量りへの感謝を暗に示すような沈黙の後、醜女は恭しく頭を垂れる。



「西行桜の舞、お美しゅう御座いました。」



白毛の立派な耳がぴくりと動く。今までの醜女の言葉は、朽ち果てた花に水を与えるかの如く、男にとっては虚しく取るに足らないものであった。そしてそれ等を前置きとするかの如く、醜女は相手の本質に踏み込む言葉を投げかける。しかしそんな言葉も、自らの生ぬるい庇護欲にまみれた‘ままごと’に相手を付き合わせる為の、洒落臭い台詞に過ぎない。男の顔はやはり陰鬱なままであったが、対する老婆はというと、相手を労る己の悲しみと無二の愛情への感慨に満ちた世界に浸るばかりで、男の心境をまるでおいてけぼりにしてしまっていた。

そんな女の口は、閉じられること無く舌を回すばかりで。



「… ともかく今は、御安静になさってください。 この場所で貴方のお姿をお見受けする事が出来、大変光栄に存じます。」



醜女はそれだけ言うと、哀愁に満ちていながら、どこか満足気な様子が伝わってくる数秒間の黙礼を見せ、その場を立ち去ろうとした。その動作と、相手の男の様子も含めて全て、女の思い描く演劇舞台の一部なのだろう。悲しき哀しき、ヒトの愛の舞台。

________一体誰に向かって話しとんのや

醜女は立ち去りつつも、その頭から男の姿の想像が離れることは無かった。西行桜の舞の事を聞いて、その頭部に生えた狐耳を動かすあの仕草を思い出し、今一度あの桜の舞台の景色を想像する。薄化粧の薔薇が咲き乱れし庭で、儚くも妖しき舞を見事に舞って魅せたあの人の姿を。

不意に、醜女は足を止める。突如現実の世界へと脳味噌を引き摺り込まれた女が見たものは、先程まで話していた筈の花婿が、己の目の前で厳かな雰囲気を放ち佇んでいる姿だった。老婆がこちらに気づく様子を確認したその妖は僅かに口角を上げて、一歩、目の前の女に自らの影を近づける。



「…… あの女狐、はっきり俺の目を見て“愛してる”と言うてはりました。」



両目を淑やかに伏せつつ、柔らかく微笑むその姿。

醜女は漸く理解した。目の前の男は、嘗て自分が観測する中でもあらゆる悲劇に見舞われていた、あの悲哀と純潔で創られた泡沫の青年ではない。ひとりの怨念を抱えた恐ろしき妖怪であるのだと。それが、今更顔見知りの老婆の偉そうな慈愛や敬愛など有難がる筈もなく。 醜女は戦慄と羞恥心で顔を蒼ざめながらも、どこか虚しいような哀しいような感情が存在するのを自覚した。相手の怒りや憂いを冷めた頭で改めて理解したからこそ、尚も相手への憐れみの情を無視する事ができない、そんな複雑な己の心境を噛み締めていたのだ。現実を理解して浮かぶ感情は、畏怖の念と共に、やはり哀れみの情なのだった。

男はそんな醜女の事など敢えて気に留めず、今度は自分の世界に相手を引き摺り込むかのように、艶やかに踊り燃える炎を想わせるような語り口で言葉を紡ぐ。



「奇妙なことやなあ。 俺は此処に来る前、あの狐の首を手にする為やったら何にでも身を捧げると誓うた身であるというのに。

それを知りながら、幾度も幾度も____懲りることなく。」



また二歩、三歩と醜女にその身を近付ける。氷のように冷たい怒りと焼つくように熱い哀しみを現すその姿は、まさに悍ましさと神々しさを併せ持つ、醜女の感性では到底冷静に受け止めきれないような色を放つ体貌であった。

憎き仇に身も心も絆されて、今までの自分も仇への激情さえも、泥のような感触の熱に全てが曖昧になる程に溶かされ、酔わされてしまう恐怖。想像を絶する体験であっただろう。しかし、そんな相手の身の上に同情する資格は、己には無いのである。

醜女はただただそんな男の姿に目を奪われるばかりであった。今しがた己が目にしているその景色が、仮にひとつの絵画であったとすれば、間違い無く名画としての素質を持つであろうなどと考えてしまうほどに。

男はそれ以上何も語ることは無かった。ふたりの間には澄み切った柔らかな空気に乗った沈黙が流れ、それは、先程までの緊張感に満ちた一齣がまるで嘘であったかのように思わせる時間だった。淑やかに微笑を見せている男の姿は、今では醜女にとって、この世の総てに赦しを与える聖者のように映っているのだった。花冷えの沈黙の中に、一際大きな鶯の声が美しく響き渡る。その儚き歌声を合図にするかのように、妖狐は女に踵を返した。



「名前、まだ聞いてへんかったな。」



醜女を横目で見るような姿勢で優しげに呟く。

醜女はその声に、気付いた時には自分の名を口にして応えていたようだった。自分で己の名を口走ったかどうかさえ一瞬のうちに忘れてしまったようであったが、女はその妖狐が此方に向かって優しく微笑みかけた表情の変化を見、ただ唾を飲み込んだ。



「ふふ ………よろしゅうな。」



もう一度鶯の高い鳴き声が響く。醜女から前方の春の景色に瞳を移した男は、その表情をあどけない子供のようにさせる。そこにはただ、春の愛らしき美景に喜びを咲かせる無邪気な感情だけが色づいていたのだ。 嗚呼、その笑顔の何とあえかなることか。

醜女は刹那に咲いた幼き笑顔に心を奪われる間もなく、男の姿が既にそこには無い事に気付いた。無限に続くように感じる回廊と、薄い暗闇、そして外に広がる春の景色だけが残されている、そんな世界に自分という存在がぽつりと佇んでいるのだった。

褪紅に色付いた小さな花弁たちの舞い堕ちる姿は、やがて静かに消えてゆき、老婆はそれが、澄んだ晴れ空から誰かの流す泪を想わせるひそか雨が降り注ぐ景色を予言するものであると、静かに悟った。



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