しあわせは淡い/京町禅陽日寺橋の町娘の剣

紙の妖精さん

第1部 しあわせは淡い 第1話エピソード エピローグ

五月の雨は、薄く、ひっそりと降っている。空の色がぼんやりと曇り、あたりの風景をどこか冷たい印象で包み込んでいた。足元のアスファルトは湿っていて、歩くたびに小さな水滴が跳ねる。千歌はその上を、無言で歩いていた。淡い霧のような雨は、世界全体を包み込むように降り注いでいて、その中を歩く千歌は周囲の景色に溶け込むことなく、まるで別世界にいるかのように浮かび上がって見える。薄曇りの空から、ひんやりとした雨粒が降り注ぎ。千歌はその冷たさを感じながら、学校帰りの道を歩いていた。傘を手に持ちながらも、心はどこか遠くを見つめるようにぼんやりとしていた。空は鉛色に覆われ、どこまでも深く沈み込んでいるかのようだ。雲の切れ間から漏れるわずかな光が、雨に濡れた舗道に反射して、冷たい光を放っている。細かく降りしきる雨は、静かな音楽のように、心地よいリズムを刻んでいた。しかし、そのリズムはどこか寂しさを感じさせ、空気をひんやりとさせる。千歌は、その雨の中を一人で歩いている。彼女は傘を手にしているが、傘の縁からは細かい雨粒が次々と滴り落ち、地面に小さな波紋を作っている。学校帰りの道、周りには誰もいない。普段なら賑やかな通りも、今はひっそりと静まり返っている。彼女の制服は、白いシャツの袖が少し捲れ上がり、細く長い腕が露出していて白いシャツの襟元が少し濡れて、薄く透けて見える。青いチェック柄のスカートも、雨を吸って少し重くなり、裾がひらひらと揺れながら歩くたびに水滴が弾ける。足元の靴は、つるつるとした黒い革靴で、雨が染み込んでいくのが感じられた。靴下は、白くて清潔なはずだったが、今では足元に冷たい湿気を感じさせ、少し不快だ。千歌はその不快感を感じつつも、足を止めることなく、ただ前へ進んでいった。雨粒が顔に触れるたび、千歌はその硬さを感じる。額から頬を滑り落ちる雨が、次第に目元にも流れ込むが、彼女はそれを拭うことなく、ただそのまま歩き続ける。彼女の青い髪は、雨に濡れて艶を失い、柔らかく肩に垂れ下がっている。雨滴がその髪を伝って、ぽたりぽたりと地面に落ちていく。髪の先が湿って、少し重たく感じるが、彼女はそれにも気を取られず、ただ前だけを見つめていた。彼女の髪は、雨に濡れてひんやりと肩にかかる程度に揺れる。空気中の湿気を含んで、髪の毛がほんのりと光を帯び、彼女の顔に落ちる水滴が、宝石のように輝いて見え、青い髪が、空と地の境目のように感じられた。千歌は静かに歩く。彼女の瞳は、今にも涙をこぼしそうで、でもそれを決して見せようとしない。雨はその瞳の中に溶け込み、何かを反射しながら、冷たく頬を伝う。でも、それすらも、どこか美しい。千歌はただ、無言で歩き続ける。雨の中でさえも、どこか美悲を感じさせるかのように。手に持ったバッグは、もうかなり濡れている。水滴が少しずつポタポタと落ちる。雨の中でも、彼女の動きはどこか流れるように自然で、何事もないかのように歩みを進める。それでも時折、ふっと足を止めると、ほんの少しだけ深く息を吐く。そのたびに、目の前の景色がぼんやりと霞むような気がして、すぐにまた歩き出す。彼女の手のひらは、無意識のうちに閉じられている。何かを掴もうとするけれど、すぐにそれがすり抜けていく感覚がするのだ。


「幸せは、淡い」


千歌が呟くと、その言葉は雨の音に埋もれて消えそうだった。それは、心の中でずっと感じていたことが、無意識に口をついて出たものだった。何気ない、けれど深い振心を持つその言葉は、彼女の声は、誰にも聞こえないほど小さく、冷たい雨の中に収束する。幸せというものが、手のひらの中で少しずつ崩れていくような感覚。それは、触れた瞬間に消えてしまうもののようで。千歌はその思いを感じるたび、心の中でふっとため息をつく。千歌は、雨に濡れる自分の姿をどこか遠くから見ているような気がした。周囲の世界が色あせ、雨が作り出す小さな水たまりの中に、無意味に反射する自分を見つめるように感じる。幸せは、手のひらからこぼれ落ちる砂のように、決して掴むことができないものなのだと。どんなに求めても、すぐにその形を失ってしまう。もしもそれが本物の幸せだったのだとしても、それを抱えている間は、確かな手応えを感じることなく、ただ手のひらから零れ落ちる。いつだって、幸せは追いかけるものではなく、目の前に現れて、そして消えていくものなのだと、千歌は感じていた。彼女の心の中にあるその小さな確信。それは、ただの孤独感ではなく、雨のように静かで、そして淡いものだった。雨はますます強くなり、千歌の周りの景色をぼんやりと霞ませていく。彼女はその雨の中に、自分が存在していることすらも薄く感じながら、足を踏み出し続ける。雨は相変わらず降り続き、千歌はそのまま足を進める。彼女は今、確かなものが何もない空間の中を、ただ歩いているだけのようだった。千歌は誰とも話すことなく、その小さな体を少し前傾させて歩いている。濡れた髪や制服が彼女を少しだけ重たく感じさせるが、それを気にしている様子はない。時折、目を閉じて、ただ雨の音を聞くようにして歩くこともある。その様子は、目の前に広がる世界をひとりで感じ取りたくて仕方ないかのようだった。


突然、千歌は足を止め、少し遠くを見つめた。その瞳に、またあの言葉が浮かぶ。


「しあわせは淡い。」


足元の水たまりに反射する自分の顔をちらりと見やることもなく、ただ前を向いて、無言で歩き続ける。千歌は、雨が降る道を歩きながら、ただひとり、静かに世界の混沌と無常を思った。


千歌はそのまま、また歩き出した。









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