海辺のファントム・ラヴァーズ
相堀しゅう
1
深夜、土砂降りの雨の中を少年は走った。
水溜りを踏み、落ちていた缶を蹴り、犬型の
逃げ先なんて考えていない。とにかく追っ手を撒くために角をいくつも曲がり、塀の上に乗り、屋根の上を伝い、誰かの家の庭を横断した。
そうして、どれくらい走っただろう。
適当なところで走るのを止めると、速足で進みながら後ろを見た。待っても誰かが追ってくる気配はなかった。
もう諦めたのだろうか。
それならそれでいい。
少年は前を向いた。
最悪な夜だ。せっかく雨を凌げる場所を見つけたのに、吸血鬼の奴らに見つかって因縁をつけられてこんなところまで逃げるはめになった。
やっぱり吸血鬼なんてクソだ。
少年は歩きながら乱れる呼吸を整えようとしたが、いつまで経っても落ち着かなかった。激しい雨音に少年の
フードを被った頭から靴の中まで雨に濡れ、体は芯から冷え切っていた。それにここ数日、いやもっと前からまともなものを食べていない。
それに、血。
自分の生命維持に少なからず必要なそれを飲んでいない。最後に飲んだのはいつだろうか。でもできればそれは飲みたくなかった。飲まなくていいのなら一生それでいたいくらいだ。
少年は震える冷たい手で胸を押さえながら歩いたが、段々足が錆びついたように動かなくなってきた。踏み出す一歩が重く、頭もぼーっとしてこれから何をするべきか考えることができない。
せめて雨ざらしは避けようと、薄れかける意識の中で何とか建物の軒先に体を滑りこませて倒れ込んだ。
雨音を聞きながら、意識は深い闇の中に沈んでいった。
「……うっ、ゲホッ、ゲボッ」
全身の怠さと酷い寒気、喉から何かがせり上がってくる感覚に目が覚めた途端、激しく咳き込んだ。
収まらないそれに体を丸める。十回近く咳き込んでやっと収まると、
「大丈夫?」
ぼやぼやする頭の中にもはっきりと、軽やかな笛の音を思わせる少女の声が届いた。
顔をそちらに向ける。
そこにいたのは、緑色のウェーブのかかった長い髪に、同じ色のクリッとした目の少女だった。歳は多分自分と同じくらいだろうか。いや、種族によっては見た目以上に歳を取っていることもあるから実際のところは分からないが。
少女は寝ているベッドの傍らで屈んでこちらを心配そうに覗いていた。
そこでようやく自分は知らない部屋にいるのだと気付いた。
「ここ、は?」
「ここは私の家で、私の名前はエマ。君は今朝、家の裏で倒れてたの。覚えてる?」
数秒黙った後、少年は頷いた。
「君の名前は?」
「ヨハン」
「ヨハンね。それで、ヨハンが寝ている間にお医者さんに来てもらってヨハンのこと診てもらったんだけど、簡単に言えば体調がすっごく悪いの。薬も貰ったから、治るまではここにいて」
エマは笑顔で言ったが、ヨハンは無理矢理体を起こしてベッドから下りようとした。
「いいよ。これくらい、平気、だから」
しかしエマに両肩を押さえられた。抵抗しようと彼女の細い腕を掴んだが、うまく力が入らない。
「そんなわけないでしょ。熱があるし、咳も出てて、私に抵抗する力も無い。これで無理されてまた倒れられたら悲しいわ」
エマは眉尻を下げた。
「助けたからには元気になるまで責任取るから、ゆっくり休んで。ね?」
まるで小さい子どもに言い聞かすようだったが、その優しい声とあまりの体調の悪さに抵抗する気力は一切無くなった。大人しく頷くと、エマは微笑んだ。
「じゃあ薬飲んで。何か食べる?」
声を出すのも苦しくなったので、首を横に振った。
錠剤を数粒貰って飲み、ベッドに寝転ぶ。
「逃げちゃ駄目よ」
そっと毛布が掛けられた。久々に感じる温かさがとても心地よくて、ヨハンは溶けるように目を閉じた。
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