6 そして、対峙する
「こっちこっち。急いでくれよう」
四足を忙しく動かして、雪の上を駆ける狸姿の露の葉。その後ろからは、
午前の明るい日差しの下ではあるのだが、まるで百鬼夜行のようなあやかし大行進。あまりの異様さに、近隣の村々の民は戸をぴったりと閉ざし、息を潜めている。
「あ、
先導する露の葉が呑気に言い出したので、不満の声がちらほら上がる。無理もない。血気盛んなあやかしばかりの行軍だ。向かう先は、主君
「鬼以外の奴は、死体が流れる戦場の水なんて飲みたくないだろ。上流でたらふく飲んでおかないと後悔するよ」
人間ならば、極寒の中で凍りかけの川水など飲みやしないだろうが、あやかしであれば少し寒い程度で問題ない。
露の葉が主張すれば、確かにと同意の声が出る。一人が川の水を掬って口に含むと、皆がそれに倣った。河童の中には、頭部の皿に水を補充し始めた者もいる。
そうして数秒の後。
「う、ううん? なんじゃこりゃ」
「おお、美しい蓮池が見えるぞ。ありがたや」
「おっかさん! 死んだおっかさんがそこに!」
妙な呻きや言葉を残し、ばたばたとあやかしが倒れだす。中にはふらつきながらも意識を保つ者がおり、彼らは状況を瞬時に理解した。
「この水、酒か?」
「ご名答ぉ」
軽薄な声と同時に川面が割れる。水中から、藍色半透明の小さな龍が現れた。
「いやー天狗の酒って美味いのなあ。おおっ、何だありゃ。雲に乗ったちっせえ菩薩様たちが俺を取り囲んでるぜ。ひらひらひらひら……ってこれ、お迎えか!? いや、まだ死にたくねえよう。うううう俺にはまだ、やりたいことが」
「ちょっと北藍の兄ちゃん! しっかりしておくれよ」
露の葉が背中を叩くと、水でできた北藍の身体が、たぷんと揺れる。
「おおー、お露か。だからさあ、言っただろ。俺が酒なんか飲んだらまずいってよー。うひひひ」
そう、北藍に酒を飲ませたのは露の葉たちだ。龍の北藍は、北藍川そのものである。彼が摂取した酒精は全てそのまま川に溶け込むことになる。しかも、北藍が飲んだのは、一口飲めば夢の世界、二口飲めば浄土の蓮が見えると噂の天狗の酒だ。
そうこうしている間にも周囲では、酔いつぶれたあやかしたちが、次々に倒れていく。想像以上の効果に呆気に取られつつ、露の葉は計画通り、声を上げた。
「うわあ、大変だ大変だ! いくらあやかしでも、こんな雪に埋もれて寝たら死んじまう。正気の奴らで皆を助けるよ!」
「おいお露ぅ。酒うめえよー。こりゃいいや、毎晩酒盛りしようぜー。うひひひ」
二度と龍に酒など飲ませるものか。北藍を無視して救護を始めた露の葉は、鈍色の薄雲が垂れこめる南東へと目を向ける。北藍川の下流。
(妖山様、後のことは頼んだよ)
「あやかしの援軍が来ぬのはなぜだ!」
剛厚と
北藍川の南東部。川幅が広がり流れが緩やかになる下流域。厚隆の陣の側には、寒さに凍える武士たちが戦意喪失した顔で焚火にあたって震えている。
彼らは剛厚と幸厚の姿を認めると、各々武器に手をかけた。けれども、剛厚たちに刀を抜く様子がないと察して動きを止める。警戒したまま様子見することを選んだらしい。
「
剛厚が陣幕の隙間から呼びかける。束の間、躊躇うような間が空いてから、戦の装束である
「おまえたち、のこのこと敵陣にやって来るなど正気か」
「いたって正気です。だってこの陣には、ほとんど兵がおりませんし。残念ですが、あやかしの援軍は来ませんよ。上流で酒に酔って立ち往生です」
剛厚の言葉で、謀られたと察したらしい厚隆は、瞠目から一転。雪像が溶けるように徐々に顔を歪ませて、肩を小刻みに揺らし、そして最後には大笑した。
「そうか、全て仕組んでいたのか。ならば仕方がない。本当は気が進まぬのだが」
厚隆の全身から、威圧的な熱気が発せられた。体中の筋肉が不気味に隆起して、内側から圧迫された武具が、めきめきと軋む。額の皮膚が破れて、反り返った一本角が現れた。
「お、鬼……」
厚隆の家臣の誰かが上ずった声で漏らす。
厚隆はそちらを一瞥してから、煩わしそうに武具をはぎ取った。いとも簡単に引きちぎられた鉄の破片が、降り積もった白雪に突き刺さる。
厚隆は上手く人間に化けることのできる鬼である。それゆえ、普段は三男剛厚こそが三兄弟で最も逞しい体格をして見えるのだが、実のところ、生まれたままの姿であれば、長兄厚隆こそが一番強靭な鬼なのだ。
剛厚は、異母兄の気迫に押されて身がすくみそうになる。けれども怯えている場合ではない。細く息を吐き、鯉口を切る。幸厚の側からも、かちりと刀が鳴る。
「愚か者め」
厚隆が鋭い牙を剥き出して、素手で飛び掛かってきた。まずは、半分人間である幸厚を引き倒し、足裏で雪に押しつける。
「
「動くな剛厚」
自身も変化を解き鬼の姿になろうと四肢に力を込めた剛厚を鋭く制し、厚隆は邪悪な笑い声を立てる。
「動けば踏みつぶす」
「実の弟にそのようなこと!」
「何を今さら」
厚隆は吐き捨てた。
「剛厚、最後の機会だ。わしに従え。おまえは幸厚とは違い、純血の鬼だ。鬼というだけで大衆から疎まれ、己の本性を押し隠し人間のふりをして生きざるを得ないこの世界、おかしいとは思わぬか」
剛厚は言葉に詰まる。確かに、なぜあやかしばかりが三箇条に縛られて窮屈な思いをせねばならないのかと、疑問を抱かぬわけではない。
とはいえ、あやかしのためだと言いながら、平和を望む者らが住まう妖山を破壊して、性急で強引な手段でことを進めようとするのは間違っている。剛厚は淀みない口調で言った。
「確かにあやかしと人間の間には、決して埋まることのない溝があります。ですが、人間の憎しみと恐れを煽ることで、平和と共存を望むあやかしを一方的に排除するような横暴は、受け入れ難い」
脳裏に、この地で出会った者らの姿が浮かぶ。狸爺、露の葉、戸喜左衛門、なつめ、龍の三兄弟、人間の家臣たちに妖山の住民たち、そして雪音。
長兄厚隆がかき回さなければ、異種族の間にも確かな友愛の空気が満ちていた。なつめのように、人間の身でありながら、あやかしに育てられ、あやかしとして振舞うことを望む娘もいる。
もちろん、あやかしと人間の間に憎しみが生まれることも多々あるだろう。けれどもそれは、人間同士でも気が合わない者がいるのと同じ。結局は個々人の問題である。
山寺での一件や、夜間不審死のような非道な事件が起こらなければ、人間とあやかしが、これほどまで大々的にいがみ合うことはなかったのだ。
「ここ妖山は、
「そうか、ならば」
ぐっ、と低い呻き声が上がる。厚隆の足裏に圧迫された幸厚が息を詰まらせているのだ。剛厚は歯噛みする。
「大兄者、何と非道な」
「源三郎、私に構うな」
「しかし!」
いったいどうすればよいのだろう。激情で強気を保っていたものの、心に纏わせた強固な鎧も、小さな罅が入れば途端に瓦解する。生来気弱な剛厚である。幼少期より敬ってきた長兄と敵対しているこの状況。己の心の軟弱さに意識を向けてしまえば、途端に手足が震えそうになる。
「し、しかし小兄者、某は、某は……」
途方に暮れかけた、その時だ。
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