5 最後の口づけ
「奥方様、朝餉です」
「いらないわ」
雪音は短く返し、寝具の中で身じろぎをして河童に背を向けた。障子の向こう側で、小さく嘆息する気配がした後、板床に膳を置く音がした。
「こちらに置いておきますので、どうか召し上がってくださいね。お食事をとられないとお身体に障ります」
彼女に罪はないだろうが、攫っておいて身体の心配をされるなど心外だ。
ひたひたと床を歩く足音が遠のいて静寂の中に溶けて消えても、雪音は目を閉じたまま動かない。一人で悶々と過ごす日々に、自ずと気分が落ち込んでくる。
屋敷の外ではいったい何が起こっているのだろう。
雪の降る音すら聞こえそうなほどの静けさの中、物思いに耽る雪音。その耳朶を、不意に幻聴が撫でた。
――やいやい雪音。美味そうなぬか漬けだぞう。
誰の声だっただろうかと記憶を探る。
――おおい、食わんのか。ならばわしがもらってしまおうかのう。
(
しわがれ気味の声質、軽快な口調。妖山の
――どれどれ。ひひひ、なんとこれは良質な!
ぽりぽりぽり。
軽やかな咀嚼音。雪音はぼんやりとした思考のまま薄らと目を開けて耳を澄まし、物音が示す情景を脳内で組み立てる。狸爺、ぬか漬け、咀嚼音……。
雪音は思わず飛び起きた。それから大股で障子に近づいて、静かに引く。そこには朝餉の膳と、皿の上に鼻面を突っ込んだ狸の姿があった。
絶句する雪音を見上げ、歯の間にきゅうりの破片を挟んだ狸爺が、にかりと笑う。
「おお、雪音。やっと起きたか。寝坊など感心せんぞ」
狸爺は茶色い毛に覆われた小さな手で、ぬか漬けを一枚差し出した。
「まあ食え。腹が減っては戦はできぬ」
動けないでいたところ、無理やり押しつけられた。雪音は無意識にきゅうりを口元に運ぶ。程よい酸味と塩味が口内に広がり、思考が少し明瞭になる。
「どうじゃ、美味かろう」
「ええ、本当に……ではなくて、なぜ狸爺がここに?」
「下女の河童が運んでくれたのじゃ。すごいじゃろう、箸に化けて膳の上で寝ていただけじゃぞ」
「でも、どうしてここがわかったの」
「妖狸の情報網を甘く見るでない。障子に妖狸の目あり耳ありじゃ」
確かに、上手く化けた妖狸障子が紛れていても、人間ではとうてい気づけないだろう。
「さあさあ雪音、早う行くぞ」
「まあ。どこへ?」
「腑抜けた
促されて狸爺の背中を追う。雪音は足を動かしながら、声を潜めて言った。
「助けに来てくれたのね」
「うむ。露の葉が、お雪を助けてくれと騒いで仕方なかったからな」
「露の葉は、無事なのね。よかった」
元はといえば、例の事件で妖狐狩りが盛んになる中、狐と間違われて攫われてしまった露の葉を追って敵の誘いに乗ったことが原因で、雪音は捕らわれたのだ。友が無事だと知り、まずは胸にじんわりとした安堵が広がった。
「しかし雪音。妖狸ならば、人間に捕まったとて、変化の術を使って逃げ出すことなど造作ない。むしろ、助けに行ったおぬしが囚われの身となり、露の葉が先に帰ってくるなど滑稽も滑稽。同じく化けるあやかしでも、人間の姿にしかなれない妖狐は不便じゃのう。おぬしも物に姿を変えられれば、わしが持ち出して安全に逃げ出せるというのに。やはり、化けることにおいては妖狸の方が上じゃ。ひひひ」
「私たちからすれば、妖狸が化けた人間は精度が低すぎて見ていられないくらいだわ。匂いだって、人間ではなくて狸の匂いがしますもの」
「うぬう、言うな」
狐狸は仲が悪いというのはよく言われることである。けれども狸爺とて、本気で妖狐を貶しているわけではないだろう。暗い表情を崩さない雪音の心を、反骨心で奮い立たせようとしたらしい。
雪音はやや
「それよりも、殿や皆は無事かしら。義兄上様……
「大まかな話は露の葉から聞いておる。安心せい。妖山殿も城も無事だぞう。しかしちょいと厄介なことになってしもうてな。そこで雪音にはこの後一芝居を」
「声の大きな脱走者だな」
突然、低い声と共に襖が開く。
息を呑み歩みを止めた雪音たちの前に、人影が立ち塞がった。ひたり、と廊下に足を滑らせたのは、大きく凛々しい目をした青年だ。
「まあ、
「今日は目付けの当直だったんだ。おっと、それ以上近づくなよ、妖狐」
喜助はすらりと抜刀し、剣呑な切先で雪音たちを牽制する。気弱な者ならば腰を抜かすところだが、あいにく二人とも図太い。狸爺は特に、空気を読まない。
「喜助、喜助。はて、聞いたことがある……おお、なんとこの者、五年前に露の葉と雪音が奪い合った男か」
喜助の頬がぴくりと痙攣する。歯がすり減りそうなほど強く嚙み締められて、顎が隆起した。けれども狸爺は自重しない。
「そうかそうか。娘っ子にまんまと騙された恨みから、妖山と敵対する勢力についたということか。ひひひ、女々しいのう」
「黙れ妖狸」
愚弄され、激しい怒りに呑み込まれかけた喜助の顔が紅潮している。小刻みに揺れる切先を冷静に観察し、雪音は一歩前に出た。
「待ってくださいませ、喜助様」
激情に鋭く光る瞳が、雪音を睨む。
「誤解なさっているわ。私は騙してなどおりません」
刃をものともせず距離を詰める雪音に怯んだらしく、喜助は後ずさる。
「私、心からあなた様を慕っておりましたのよ。でもあの頃はまだ幼くて、加減というものがわかりませんでしたの」
一歩距離が縮まれば、その分一歩離れて行く。二人の間には越えることのできない壁がある。
「五年前、喜助様がお倒れになったのを見て、あの時ほど自分という存在が疎ましく感じられたことはございません。この身が妖狐ではなく、人間であったならば。いいえ、せめて他の種類のあやかしであったならば、と何度も考えましたの。それこそ、自ら命を絶てば、次は人間に生まれ変わることができるのではないかと思い悩んだほどで」
袖で口元を覆い、涙声で訴えながら、喜助の隙を探して視線を彷徨わせる。後ろに進み過ぎた喜助の背後に、曲がり角の壁が迫っている。
「信じられるものか。あやかしは皆、狡猾で下劣で、人間とは相容れぬ存在なのだ」
その言葉を耳にした途端、雪音の胸がすうっと凍りつく。かつて諦めた恋の残滓が、火種すら残さず消え去った。
「そう。残念ですわ」
喜助が自身の肩越しに軽く振り返り、背後の壁との距離を測る。雪音は袖を下ろして冷ややかに言った。
「喜助様は以前、あやかしにも人間と同じ心があると仰ったではありませんか。それなのに、たった一人の妖狐を恨んだ結果、全てのあやかしを憎んでしまうという心の狭さ。とても寂しいことですわね」
「な」
こつん、と喜助の踵が壁を蹴る。雪音はすかさず声を上げた。
「狸爺」
雪音の意図を察した狸爺が、屈強な人間姿に化けて喜助を拘束する。その尻から狸の尾がふさふさと垂れ下がっているのはご愛嬌だが、変化の精度はこの際関係ない。
「な、何をする」
「ひひひ、面白くなってきたぞい」
狸爺にもぎ取られた刀が、硬質な音を立てて床を滑る。柱と、引き笑いをする巨体に挟まれて行き場を失くした喜助の蒼白な顔に、雪音は背伸びをして詰め寄った。
「喜助様、これがきっと、最後の口づけですわね。さようなら」
「や、やめ」
――数刻の後。
失神した喜助は無事、屋敷の様子を見に来た人間に救い出された。その身体は無造作に床に転がっていたものの、凍死させないようにとの配慮からか、何枚もの小袖や綿入りに包まれて、健やかな寝息を立てていたという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます