3 小兄者、突然現る

小兄者しょうあにじゃ、ご無沙汰しております。雪の中、よくぞお越しになられた。しかし前触れもなく、突然いかがなさったのですか。それも、妻も同席させるように、とは」


 雪音ゆきねの斜め前で、剛厚つよあつが困惑を露わに言った。


 御殿の奥、城主が個人的に人と対面する際に利用する、小さな広間にて。金地に松の襖絵と、欄間らんまに彫られた花鳥が見下ろす中。剛厚の二番目の異母兄、狭瀬はざせ源次郎幸厚ゆきあつが、細面にさしたる感動も浮かべず座している。


「突然すまないな、源三郎。兄上に申しつけられて、奥野国おくののくに中で起こっている奇妙な妖狐ようこ事件を調査しに参ったのだ」


 妖狐事件、と断言されて、雪音は心中穏やかではない。まだそうと決まったわけではないと主張したいが、ここで許しも得ずに発言すれば火に油を注ぐ。雪音は黙って義兄の顎辺りに目を固定して感情をやり過ごす。


「はあ、大兄者おおあにじゃのお申しつけで」

「左様。そして、あやかしのことならば白澤しらさわの姫が詳しいかと思い、知見をお借りしたく義妹殿にも同席してもらった」

「恐れ多くございます」


 雪音は視線を合わせず、しずしずと頭を下げた。


 此度の事件の真相を軽はずみに断じたくない雪音の胸中を理解しているのだろう、剛厚が一応の反論を試みる。


「しかし小兄者、実はまだ、あやかしが犯人であるという確固たる証拠もなく」

「ではいったいなぜ、狐の鳴き声がした晩に、持病もない若い男ばかりが外傷も受けずに命を落とすのか」

「うっ、それは」

「積雪の上には狐らしき足跡も残っていたとか」

「よ、よくお調べなさったのだな」

「だが一方で、妖狐に化かされた者特有の麝香じゃこうのような残り香がしなかった」


 続いた中立的な言葉に、雪音は伏せていた目を少し上げる。幸厚と軽く視線が交わった。


「そこで、白澤の姫よ。そなたの知見をお借りしたい」

「私の、ですか」

「ああ。代々あやかしの領民と共に暮らしてきた白澤家ならば、此度の事件の不可解な糸を解きほぐせないだろうか。たとえば、妖狐の発する誘惑の香りを一晩で跡形もなく消し去る方法があるとか、もしくは妖狐ではないあやかしが絡んでいるのだとか」

「妖狐の匂いは、嗅覚で感じ取れるものが全てではございません。たとえ別の強い香りで上書きしようとしても、そう簡単には消せないものですわ」

「ならば他のあやかしか」

「義兄上様には、お心当たりがおありなのでしょうか」


 雪音の言葉に、幸厚は神経質そうな口元を少し歪めて笑みを浮かべた。


「白澤の姫ならば、とうに検討がついているのではなかろうか。生気を吸うあやかしは妖狐だけではない。むしろ、冬季の事件ならばいっそう疑わしいあやかしがいる。実際、死因が特定された者らのうち幾人かは、明らかな凍死だったそうではないか」


 広間の床に、手足がかじかむような冷気が沈殿している。雪音は指先を擦りながら言った。


「雪女、ですわね」

「いや待て雪音」


 これまで黙って耳を傾けていた剛厚が口を挟んだ。


「麝香の香りがしないゆえ、妖狐は犯人ではないという理屈はわかる。だがその……妙ではないか」

「妙と仰るのは、まるで妖狐の仕業であるかのような痕跡が残されている点ですわよね」


 雪音は剛厚の困惑顔を見つつ、事件の不審点を整理する。


「雪女はその名の通り、雪雲を引き連れて移動します。ご家臣様が身罷われた晩は、雪が降っていました。けれど翌朝、新たな雪に覆われることなく足跡が残っていたのですから、狐が歩いた頃には雪は止んでいたということ。つまり、雪女が去った後だったのですわ。いったい何時まで降雪があったのか、確かなことはわかりませんが、どうも仕組まれている感じが拭えません。雪女が自らの一族を守るため、妖狐に罪をなすりつけようとしたと仮定するのなら、動機は明白となります。けれど現場に狐の鳴き声や足跡といった痕跡が残されているのなら、妖狐が工作に協力していると考えるのが自然ですわ」


 妖狐にとっては何の利もない根回しだ。いったい誰が何のために行っているのだろうか。


「ではむしろ」


 剛厚が唸るように、半信半疑の表情で言う。


「あやかしの仕業にみせかけようとした人間の企みか?」

「それはあり得ない」


 幸厚が、間髪を入れずに断言した。


「狭瀬や白澤の家臣のみを狙うのならばわかるが、被害者のほとんどが百姓だ。根回しの労力と成果が見合わない」

「ですが、それはあやかしにとっても同じことですわ。そもそも、雪女たちが生気を吸うのは食事のためであって、人を殺めることが目的ではありませんもの。たまたま加減を誤って、ということはあるかもしれませんが、こうも頻回にというのは不審です。命を奪うまで生気を吸ってはならないということは、ご存じの通りあやかし三箇条に明記されています。三箇条を破れば、人間からのみならず、あやかし仲間からも非難を受けることになりますわ。そのような危険を冒すなんて」

「あやかしには理性がない」


 幸厚の冷ややかな声が広間の空気を切り裂いた。雪音と剛厚はほとんど同時に眉根を寄せたが、幸厚は気に留めずに続ける。


「本能を前にすれば、いかに自制していたとしても、ふとした拍子にたがが外れ、歯止めが利かなくなることもある」

「そんなことは」

「あるのだ、白澤の姫。……そなたも用心した方がいい。あやかしは時に、何の前触れもなく本能の牙を剥く。なあ、そう思うだろう、源三郎」

「う、ううむ、や、それは」


 水を向けられて、純朴な人食い鬼の剛厚は狼狽える。


「とにかく」


 幸厚は、哀れなほどに顔を青くしたり赤くしたりする異母弟を一瞥し、何食わぬ顔で話を纏めにかかった。


「私はしばらく妖山城下に滞在させてもらう。妖狐事件の被害の中心地はこの近辺だからな。そなたらも調査を続けてくれ。何かあれば互いに情報共有をし、早期に事件を解決しよう」


 では、と腰を上げる幸厚。雪音は正面の細面を見つめ、舌を巻く。狭瀬源次郎幸厚。何と食えない男だろうか。


 幸厚の退室のため、襖が開かれる。粉雪の舞う庭先から、いっそう冷えた空気の塊が押し寄せて、雪音の全身をぶるりと震わせた。

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