6 妖刀危機一髪②
雪音が立ち上がる。思わず動きを止めた剛厚に大股で近づき、雪音は凛とした声音で言った。
「こちら、引っ込みます」
「……は?」
理解が追いつかず、口が半開きになる。雪音は軽く爪先立ちになり、剛厚が真っ二つにしようとしていた短刀の先を突く。
するとどうしたことか、しゅん、しゅんと金属の擦れる音がして、白刃が柄の中に出たり入ったりした。
「押したら引っ込む刀ですわ。刃も潰してあります。どうかご安心ください。彼女に害意はありません。ねえ、お
「ぐっ」
お露、と呼ばれた妖刀は悔しげに呻き、どろんと
「な、よ、
「そうだよ! ただの悪戯なんだよ、放しておくれよう!」
空中で短い四肢を振り乱す妖狸を唖然として見つめてから、剛厚は言った。
「引っ込むとはいえ短刀で人を突き刺そうとする者に、害意がないだと?」
「狸にとって、人を化かすのは本能のようなものですわ」
雪音がそっと剛厚の腕に触れた。自然な動作で手のひらが開かされ、気づけば妖狸は雪音の腕の中にある。
茶色の毛玉は「ひいいん、お雪い」と全身の毛を逆立て震えている。身体を真っ二つにされかけたとなれば、それはそれは恐ろしかろう。途端に罪悪感が湧くお人好しな剛厚である。
「や、すまぬ」
「殿は何も悪くありませんわ」
雪音は妖狸の背を撫でる。
「妖刀が人を刺そうとしたのですもの。驚くのも無理はありません。お露もやりすぎよ」
「えええん。だって……」
「しかしお露とやら。なぜ雪音を驚かそうとしたのだ」
「だって、今宵は祝言だったというじゃないか。あたいらだってお祝いしたかったんだよ。だってお雪はさ、と、とととと、友達だし」
「まあ」
どんぐりのような雪音の目が感動に見開かれるが、剛厚はいやいやと口を挟む。
「祝いのはずがなぜ引っ込む刀なのだ!」
「そこはあやかし三箇条ですわ」
「は?」
雪音は三本指を立てて数字を示した。
「あやかし三箇条第三項。化かす性質のあやかしは、悪戯をしたのと同じだけの富を相手にもたらすべし」
「はあ、しかし」
悪戯をするならばせめて富をもたらせというだけで、化かさねば知人を祝ってはならぬという道理はないのだが。
「それに、ただ単に照れ臭かったのではないかと思います。お露と私は以前、喧嘩別れしているのですから」
雪音の腕の中で、お露がぴくりと反応した。
「古くから、彼女の家と私の母の家は険悪な関係にあったのですが、お露自身と私は気の置けない仲でした。けれど、ひょんなことから仲違いをしてしまい」
「仲違い?」
「お雪があたいの男を奪ったんだよ」
「まあ、やめて、お露。あれは違うじゃない。それに、殿にそんなお話」
剛厚は思わず口を閉ざす。雪音は確か、十七歳だったはず。男を奪う奪われるの騒動はいったいいくつの頃の話だろうか。大いに気にかかる剛厚だが、過去の男に嫉妬する心の小さい夫と思われたくはない。心中穏やかならざるものを感じつつも、軽く咳払いをして受け流す。
「で、仲違いの結果、疎遠になったと」
「ええ。それから顔を合わせることも減り、もう何年も経ちました。ですが、機会に恵まれなかったというだけで、互いに和解をしたいと思っていたのですわ」
「和解って、何もこのように回りくどいことをしなくても」
「両家には様々な確執がありますの。ですがご安心ください。白澤の家は妖山と良好な関係を築いておりますから」
「はあ……」
白澤家の領地には人間よりもあやかしの方が多いと聞く。関係良好であればそれに越したことはないのだが、どうも煙に巻かれた気分である。
「やいやい、鬼やい」
釈然としない顔をする剛厚に、しわがれ声が呼びかけた。見れば、破壊された襖の側に、剛厚を屋敷に招いてくれた
「どこへ行かれたかと思ったら、
「やはり全て仕組んでおったのか」
「ひひひ。こうも容易に城を出てくれるとは思わなんだがのう」
「うっ、それは」
そういえば、と気まずい思いで雪音を見る。咎める眼差しを覚悟したのだが、雪音は微笑み首を振った。
「仕方ありませんわ。妖狸に化かされたのですから」
「いいや、
あまりにも雪音が美味そうなので、空腹の身ではどうにも我慢ならなかったのだ、などとはもちろん言うわけにいかず、剛厚は口ごもり太い指で頭を掻いた。
「まあまあとにかく、気を取り直して宴の続きでもどうじゃ」
助け船のつもりなのか、狸爺がぽむっと手を叩く。
「それ、雪音も一緒に、あちらで楽しむがよかろう」
「まあ。それではお言葉に甘えて」
「じゃ、こっちだよ」
雪音の腕から飛び降りた露の葉が先導して廊下に出る。剛厚も後を追い……視界に飛び込んだものに思わず声を上げた。
「うおっ⁉」
廊下を埋め尽くすのは、濃淡様々な茶色の毛皮。どうやら屋敷中の妖狸らが集まっているようだ。
「いったいどこに、これほどまでの数の妖狸が」
「何を仰るか。一緒に酒を飲んだ仲ではないか。やいやい皆の者、酒宴の再開じゃ!」
狸爺の合図と共に、どろんと白煙が立ち込める。煙が去ると、そこにいたのは、先ほどまで酒宴の席で陽気に騒いでいた領民たちだ。が、うち何人かの尻には尾がぶら下がっている。どうやら酔っぱらい、上手く
「やはり彼らは妖狸だったのか」
妖狸は多様なものに変化する。けれどもあいにく精度がついてこない。これが狸でなく狐ならばもう少し上手く化けるだろうが、妖狐は逆に、その身を人間以外には変えられぬのだから、どっちもどっち。
空腹で訪れた酒宴の席。人間だらけにもかかわらず、一度も血肉の香りに胃が刺激されなかったので、妙だとは思っていた。そもそも彼らは、人間の見た目をした妖狸だったというのなら、美味そうな匂いがしなくて当然だ。
「雪音おめでとー」
「妖山殿ばんざーい」
「新婚やったー」
「ご当主様でかーい」
「お顔も怖ーい」
野次とも祝辞ともつかぬ言葉を叫ぶ、ほろ酔い泥酔様々な
「まあまあ、楽しそうだこと」
寛いだ様子である。先ほどまで化かされて、短刀に心臓を狙われていたとは思えない。剛厚はつられて笑みを零した。
なるほど、妖山の麓で育ったというこの姫は、どうやら肝が据わっているらしい。彼女ならば、いつか夫の正体が鬼だと知る日がきても、変わらず家族として受け入れてくれるのではないか。淡い期待が胸に湧く。
けれどもそれは、都合のいい妄想だ。鬼にとって人間は所詮、食肉である。どれほど心を通わせても、本能には抗えない。剛厚はそれを、身近に見聞きし、よく理解しているのだ。
剛厚の視線に気づいたのか、雪音が顔を上げた。笑みの形に細められた瞳が愛らしく、それでいてどこか妖艶さを帯びており、どきりと鼓動が一跳ねした。
そんな剛厚の動揺など知る由もなく、雪音は軽く剛厚の腕を撫でる。
「さあ、参りましょう」
「うむ」
浮ついた動悸と共に、一抹の虚しさが胸に去来する。けれども今は、深くは考えまい。剛厚は雪音と並び、祝いの熱気の中へと向かって行った。
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