5 妖刀危機一髪①

 どうやら飲み過ぎてしまったらしい。真っ直ぐ進めず、巨体を左右に揺らしながら、よたよた歩く。


「このような千鳥足で戻れば、雪音ゆきねは呆れるだろうな」


 夫が鬼だというだけで哀れだが、その上祝言後に突如として姿を消し、挙句の果てに泥酔して朝帰りをしたとなれば、夫婦の絆は芽生えるどころか種にもならないまま踏み砕かれるだろう。


 不意に、雪音の潤んだ瞳が脳裏に浮かび、剛厚つよあつは頭を抱えた。


「うああああああ。某は、何てことを!」


 鬼にとって、人食いは本能である。今宵の失踪は、可愛い新妻を食ってしまわぬよう、別の場所で食欲を満たした結果であるのだと聞けば、鬼の誰もが哀れむはずだ。


 けれども事情を知らない雪音や白澤しらさわの家臣らはどう思うことか。非道、放蕩、うつけ者。期待外れの婿養子に失望するに違いない。


 呻きながら……いいや、むしろ叫びながら、板敷きの廊下をふらふらと進む。


 ヒョー、と甲高い、悲鳴のような鳥の声がした。トラツグミだ。どうやら夜が更け、明け方に近づいているらしい。


 だめだ。もう取り返しがつかない。剛厚は、口が立つ方ではない。言い訳は逆効果だろう。これはもう、妖狸ようりに誘惑されて飯を食っていたのだと正直に白状して謝罪するしかない。


 ひとしきり後悔してから腹を決め、よしと頷き角を曲がる。その時だ。


 ふわりと甘い匂いがした。食後の、はちきれんばかりの胃部ですら淡く疼く、美味そうな血肉の香り。続いてあり得ないものを目にし、剛厚は咄嗟に角に隠れた。


「さあさ、お雪様、こちらへどうぞ」


 女の声に招かれて、美味そうな、ではなくて小柄で可憐な人影が部屋に吸い込まれて行った。長く艶やかな黒髪の先が消えてから数秒間、呆然と瞬きを繰り返す。それからやっと、へばりついていた柱から離れた。


「あれは、雪音か?」


 顔を合わせたのは祝言の席が初めてであり、見慣れていないため、先ほどの人影が雪音だったのかどうか確証はない。そもそも良家の姫が、このような時刻に一人で山道を上り、妖狸屋敷へやって来たとは考えづらい。


 けれども雪音は、城ではなく外で育った姫だという。三か月前、先代白澤当主の娘として妖山城に迎えられる前は、妖山の麓にある母親の家で暮らしていたのだとか。ならば、慣れた夜の山道など恐ろしくないのかもしれない。剛厚は、とにかく様子を見てみることにした。


 部屋の中で言葉を交わす気配がして、襖が開く。ふさふさの尻尾を垂らした若い女人が、剛厚がいるのとは逆の方へと歩いて行った。振り子のように左右に揺れる茶色い毛束。剛厚は拳で目を擦り、幻覚ではないことを確認してから足音を潜め、部屋の方へと近づいた。


 襖を静かに滑らせて細い隙間を作る。片目で内部を覗くと、正面の壁に座敷飾りの棚があり、短刀が飾られているのが見える。


 少し視線をずらす。棚を右背中にする格好で、白小袖に打掛うちかけ姿の雪音が、ぼんやりと灯台の灯を眺めていた。


 なぜここに彼女がいるのだろう。剛厚が妖狸屋敷で夜遊びしていることを誰かから聞いたのか。それかまさか、剛厚に愛想を尽かし、故郷の山に帰って……。


「くくく……」


 喉の奥で押し殺したような笑い声が、微かに鼓膜を揺らした。剛厚は眼球を動かし声の出どころを探す。雪音ではなさそうだ。彼女は声に気づいていないらしく、ただじっと、揺れる炎へ目を落としている。


「くくっ」


 もう一度、悪意ありげな忍び笑いが漏れ聞こえた。視線を戻すと、剛厚の正面、違い棚の上で、声に合わせて短刀がかたかたと揺れていた。剛厚は瞠目し、それから目元を険しくする。


 短刀がひとりでに持ち上がる。難儀しながらも柄頭で直立し、片足あやかしのような動作でぴょんと跳ね、床に飛び降りた。


 床板に着地した際、硬質な音が響いたが、雪音が全く反応しないのが妙だ。宴の喧騒がここまで届いてはいるのだが、近くで発せられた異音がかき消えるほどではない。まさか雪音、目を開けたまま眠っているのではなかろうか。


 短刀は小刻みに痙攣しながら鞘を脱ぎ捨てた。そのまま、柄頭で飛び跳ね、雪音の背中に迫る。


 灯台の薄明りに照らされ、刃が赤く禍々しい光を弾く。


「お、おい」


 短刀は、雪音の心臓の裏に真っ直ぐ向かっている。やっと、剛厚の酔いがさめた。


 雪音に万が一のことがあれば、白澤家は断絶する。そうなれば、妖山城主の地位を巡り、争いが起こるだろう。


 ただでさえ異能のあやかしが跋扈ばっこする妖山。その上、権力に飢えた人間どもまでもがお家騒動を起こせば、狭瀬はざせ家の奥野国おくののくに統治に懸念が生じる。城主に相応しいのが己だとは思わぬが、白澤領にとって雪音の存在が重要であることは疑いようがない。


 ……いいや、そのようなことはどうでもよくて、目の前で人が危険に晒されているのだ。阻止する以外の選択肢はない。


 たとえ相手が美味そうな匂いを発する娘であって、むしろ息が止まってくれさえすれば、何のしがらみもなく柔らかな肉にありつけるのだとしても。


 剛厚は腕を横に突っ張り襖を開く。


「雪音!」


 力の加減を誤ったらしく襖が外れ、廊下側にひっくり返ったが気にしない。


 突然発せられた己の名と、破壊された襖の衝撃音に、雪音はやっと顔を上げる。剛厚の姿を認め、目を丸くした。


「まあ、殿」

「この、妖刀め! 雪音から離れよ!」


 剛厚は激情のため、鬼から人への変化へんげが解けかけるのを感じつつ、かろうじて人型を維持して短刀を腕で締め上げた。


「ぎゃんっ!?」


 刀が、潰れたような悲鳴を上げた。剛厚は半ば鬼に戻った分厚い皮膚の手のひらで刀身を掴み、半分に折ろうとする。


「ぎゃっ、や、やめて、やめて!」

「不届き者は成敗せねばならぬ!」

「ち、違うあたいはただ」


「お待ちください、源三郎様!」

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