第2章

第9話 扉の先

 あっという間の出来事でした。


 大魔道士であるフクロウ老師様がバルコニーの外へ飛び出して、すぐに彼の体が消えました。

 落ちたのです。


 追いかけたヒナ様が悲鳴を上げながら、柵のないバルコニーから真下を覗き込みます。

 彼女はなにを見たのでしょうか。


 膝を落とした彼女は、そのまま思いつきで落ちてしまいそうなほどには、心が不安定に見えました。

 わたしは、そうしなければならないと思って、バルコニーへ出ます。より小さく見えるヒナ様を後ろから抱きしめました。


 ……老師様の結末を見ることはできませんでしたが、古城の周りを飛ぶワイバーンの数が、これまでとは比ではないくらいに多く、しかもまとまっていて……。落ちた老師様に群がっていたのだろうことが予測できました。


 すると、一頭のワイバーンが下から上へ、バルコニーの前を通り過ぎます。

 巨体が翼をはためかせたことで、突風がわたしたちを広間まで押し戻しました。


 一瞬だけ見えたワイバーンの牙には、真っ赤な血が付着しており――。

 老師様は、ワイバーンの食糧になってしまったのでした。


「せ、せんせぇ…………なん、で…………っ!?」

「きっと、わたしたちのためです……老師様は、わたしたちに、無駄に争ってほしくなかったから――」

「だからって死ぬ必要はなかったでしょ!?」


 短絡的な考えだったとはわたしも思います。

 わたしたちの対立を説得できたとしても、今後も引きずるような亀裂だったことは事実ですが、老師様が犠牲になることで亀裂が元通りになるとも言えません。亀裂以上に、大きな傷を残してしまったとも言えました。

 老師様の死に、意味があったのでしょうか……?


「クリスタ様」


 と、マリア様がわたしを呼びました。……様付けをされると背中がむずむずして落ち着きませんが、同世代の子ならまだしも、年上の方に強くは言えませんでした。


 わたしは、様を付けられるような人間ではありません。

 けれど、そう説明してもマリア様は納得してくれず、彼女は彼女のルールで、わたしを様付けしているようでした。

 わたしだってそうなのですから、相手にだけやめてほしいとお願いするのはおかしいですね。と思うことにします。

 様を付けることが不正解ではない、ということは分かっていましたから。


「気になることができましたので、確認してきますわ」

「あ、はい……」


 まるで目の前で起こった悲劇が日常茶飯事であるかのような、無関心な態度でした。慰めてほしいと甘えるわけではないですが、それでも大人から、安心する一言くらいはほしかったです……。


 わたしの胸の中では、子供のように声を上げて泣くヒナ様がいます。

 無意識によしよしと頭を撫でていました。


 ……唯一、六人の中では知り合いだったようです。その相手が、目の前で飛び降りたのです。さらには死亡するところを見てしまった……のだとすれば。

 この環境下で、鮮明に末路を見てしまったことは、大きな傷を心につけてしまったことでしょう。

 可哀そうに。

 ……かける言葉が見つかりませんでした。ので、わたしはただただ、傍にいることを訴えるように、ヒナ様へ自分の体温を与え続けます。

 この行為がヒナ様にとって慰めになるかは分かりませんが、段々と落ち着いてきているようにも感じます。力になれているなら、よかったです……。


「杖……」

「杖、ですか?」

「先生の杖は……?」


 振り向きます。

 太く長い杖がすぐ傍に倒れていました。

 握り締めると分かる、杖とは思えないほどの重い密度です。なにが詰まっているのでしょうか。


 わたしには持ち上げられない重さの杖です(本腰を入れれば持ち上げられますが……杖は、そこまでしないと持ち上げられないもの、ではないはずです)。

 老師様はこの杖でいくつもの障害を乗り越えてきたようです。ならば重さにも理由があるのではないでしょうか。それとも、わたしが非力なだけだったのでしょうか?

 実際、ヒナ様は杖を軽々と(?)持ち上げています。

 わたしから離れて、杖を両手で抱きしめていました。


「杖は軽い方がいい、と先生は言ったんだ……」

「ヒナ様……?」

「だからこれは、先生のこだわりなんだと思うの……。重い杖を持ち運ぶことで体が鍛えられる狙いもあったのかもしれない。もう、先生にしか分からないことだけど……。一度だけ、教えてくれたことがあった。後衛だからこそ、物事を軽く考えては自分の命も軽くなってしまうって」


 それは、安全地帯にいることが多いわたしたち魔道士は、だからこそ身の危険を一番身近に感じていなければいけないということでしょうか?

 軽い杖を持つことでフットワークが軽くなりますが、同時に命も軽く考えてしまう。

 トト様が、まさにそうでしたね……。


 あの子は奴隷、だから……また別かもしれませんが。

 少なくとも、どうせ治るからと、無茶をしてしまう。

 腕の一本、失うことも視野に入れて。

 同じように命を軽く考えてしまうと、少しの時間だけのつもりで手離したことで、もう取り戻せなくなってしまうかもしれない。

 だからこそ、重い杖で……戒めているのでしょうか。

 重たいものを背負うことで命の重さを実感するように。

 長生きした老師様の秘訣であるのなら、時代遅れである、と決め付けて無視してしまうのは危険ですね。

 かと言って、そのまま真似をしても自分の首を絞めるだけでしょうし……。わたしたちなりのやり方で学び、取り入れていくしかありません。

 老師様から受け取った言葉なき助言を、生き方を、引き継いでいくことが長生きのコツでしょう。


「杖、持っていてもいいかな?」


 ヒナ様が聞きました。……聞いてはいますけど、彼女の中ではもう渡さない、と決めているのでしょう。表情は、たとえ奪い合っても構わないという強い覚悟が見えました。

 いりません、とは言いませんが、その杖は必要としている者が持つべきです。


「はい。わたしは、ヒナ様が持つべきだと思います」


 ヒナ様の視線が横へずれました。フロイド様、トト様――今はいませんが、マリア様も。きっと頷いてくれるでしょう。反対意見は出ませんでした。


「ありがと、みんな……っ」


 短い間のようですが、戦士経験者であるヒナ様にしか、満足に持ち上げられないかもしれませんし……わたしたちには持つ資格が最初からないとも言えました。

 やはり、ヒナ様にこそ相応しい杖です。

 すると、カツカツ、というよく響く足音が聞こえてきました。

 マリア様が戻ってきたようです。


「確認が済んだわ。やっぱり思った通り……開いていたわよ、扉」

「え?」

「上層階へいけるようになったわ。老師様は、気づいていたのかもしれないわねえ」


 自分が犠牲になることで扉が開くことを?

 犠牲、は……老師様でなくともいいのかもしれませんが。

 ……扉は鍵ではなく、ひとりの犠牲で開く、ということでしょうか。……それは。



 それは、非常にまずい状況なのではないですか?



『…………』


 六人……ではなく、減ったことで五人になりました。

 犠牲が出たことで探索場所が広がるということは、ですよ?


 …………今後のことは、考えたくありませんでした。

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